神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

祟石

2014-07-26 23:36:36 | 名石・奇岩・怪岩
祟石(たたりいし)。
場所:千葉県匝瑳市飯高1789(「飯高寺」境内)。JR「八日市場」駅前から県道16号線(佐原八日市場線)を北へ約6km。県道沿いに広い駐車場(「飯高檀林跡駐車場」)があり、そこから徒歩約300mで「飯高寺」総門。
日蓮宗「妙雲山 飯高寺(みょうんさん はんこうじ)」は、天正元年(1573年)、要行院日統が現・千葉県匝瑳市飯塚の「光福寺」に学室を開いたことを嚆矢とする。その後、京都から教蔵院日生を招き、天正7年(1579年)に学室を当地の「妙福寺」に移したのが「飯高檀林」の始まりとなる。「檀林」は僧侶の学問所で、「飯高檀林」は日蓮宗最古かつ最大の檀林であった。明治5年の学生発布により廃檀とされたが、これが現・「立正大学」の基になった(境内に「立正大学発祥之地」という石碑がある。)。現在は、「飯高寺」境内全体が「飯高檀林跡」として千葉県の指定史跡となっている。
さて、「飯高寺」境内に「祟石」という縦55cm・横40cm・厚さ20cmの石がある。全国各地に名の付いた石が沢山あるが、その名を刻んだ石は珍しいだろう。「祟石」という名自体もおどろおどろしく、興味をそそるが、由来は次のとおりである。即ち、正保4年(1640年)、「飯高檀林」で総門前に石段を造ることになり、江戸で買った石を運ぶ途中、藤右衛門という者がその石の1つを盗んだ。ところが、この藤右衛門の家に不幸が続いたため、盗んだ石の祟りだということになった。そこで、「飯高檀林」に侘びを入れ、懺悔の意味を込めて「祟石」と刻した上で返したというのである。何だか「真間山 弘法寺」にある「涙石」の由来に似ている(2013年3月9日記事参照)。
ところで、「飯高檀林」には、もう1つ伝説がある。昔、「飯高檀林」境内に子狐が棲んでいた。毎日、法華経の講義を聞くうちに勉強がしたくなり、一念発起して学僧に化け、本格的に学ぶようになった。10年もの間、熱心に勉強し、他の学僧を指導するまでになった。ところが、能化(のうけ)上人という偉い上人が「飯高檀林」に入山することになり、その祝いの般若湯(酒)に酔っ払ってしまい、寝ているうちに尻尾を出して露見した。騙されていた学僧連中から簀巻きにされて危うく殺されそうになったところ、能化上人から「畜生の身で法華経の奥義に達するとは天晴れなことである」として許され、「飯高檀林」の鎮守となったという。これが今も境内に鎮座する「古能葉稲荷大明神(このはいなりだいみょうじん)」の由来とされる。
「祟石」にしろ「古能葉稲荷大明神」にしろ、類話は全国各地にあるらしく、どうやら、「飯高檀林」には各地から学僧が集まり、各地の伝説・民話が形を変えて残されたもののようである。


匝瑳市のHPから(飯高寺)

同上(祟石)

同上(古能葉稲荷大明神)


写真1:「飯高寺」総門


写真2:境内には杉の大木が多い。


写真3:「立正大学発祥之地」石碑


写真4:石塔に挟まれた樹の根元に・・・


写真5:「祟石」


写真6:講堂


写真7:境内の「古能葉稲荷大明神」

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大塚原古墳

2014-07-19 23:43:15 | 古墳
大塚原古墳(おおつかはらこふん)。
場所:千葉県旭市大塚原1176。 「大塚原青年館」(西側に大きな防火水槽がある。旭市コミュニティバス「大塚原」バス停の南西、約100m)の西、約100m。住宅地の中にあって目印が乏しく、判り難い場所にある。駐車場なし。接面道路も狭いので注意。
「大塚原古墳」は、全長約10mの円墳とされるが、弘文天皇妃の耳面刀自媛(みみもとじひめ)の陵墓であるという伝承がある。そもそも弘文天皇というのは、天智天皇の子で、「壬申の乱」で大海人皇子(後の天武天皇。天智天皇の弟)に反乱を起こされ、敗れて自死したとされる大友皇子のことである。天智天皇の死(672年1月)後、天武天皇の即位(673年3月)までの間に、大友皇子が天皇として即位したかどうかについて古くから論争があった。正史である「日本書紀」に即位の記事は無いが、江戸時代末期には、即位したとする説が有力になった。このため、明治3年になって「弘文天皇」と追号され、第39代天皇と認められた。この点について詳述する余裕は無いが、即位しなかったとする説の論者でも、大友皇子が天智天皇の死後に天皇としての役割を担ったことは認めているので、言ってみれば「天皇即位の儀式をしたか、しなかったか」という議論に過ぎないともされる。いずれにせよ、弘文天皇は672年8月には崩御されているので、治世は極く短かい期間だった。陵墓は、死地とされる現・滋賀県大津市の「平松亀山古墳」が当てられ、「長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ)」と称されるようになったが、この古墳は時代が合わず、弘文天皇の陵墓ではないとする説が有力という。こうしたこともあってか、大友皇子(弘文天皇)は密かに近江国を脱出し、上総国の現・千葉県君津市俵田で亡くなったとされる伝説がある。同所にある「白山神社」では菊理媛命と大友皇子を祀り、背後の前方後円墳(「白山神社古墳」)が弘文天皇の陵墓であるという。
この弘文天皇に関する伝説は、正史である「日本書紀」の記述に反するので信憑性は薄い(「日本書紀」には、勝者である天武天皇側に立った捏造説もあるが)。一方で、弘文天皇妃である耳面刀自媛に関しては、史料が乏しく、謎も多い。耳面刀自媛は藤原鎌足の娘とされており、「壬申の乱」後、多氏系中臣氏の子孫であった藤原鎌足の出身地である常陸国を目指して東国に逃れたのだとする伝説が生まれたようだ。この伝説によれば、耳面刀自媛は下総国の現・千葉県匝瑳市の野手海岸に上陸したが、病に倒れ、同地で亡くなったという。耳面刀自媛は従者の中臣英勝(なかとみのあかつ)らによって葬られ、その墓は「内裏塚(だいりづか)」と称する古墳であったとされる。「内裏塚」は、圃場整備によって消滅したが、道路沿いに今も小さな鳥居と2基の石碑が立てられている(これを「内裏神社」とも称し、説明板もある。)。そして、天慶3年(940年)、中臣英勝の8世の孫・中臣美敷が「椿海」の畔に改葬したのが「大塚原古墳」であるとされ、「内裏塚」の墳土の一部を遷して霊廟を建てたのが現在の千葉県旭市鎮座の「内裏神社(だいりじんじゃ)」の創始であるという。明治24年、風雨のため「大塚原古墳」の一部が崩壊し、人骨・土器・「連金子英勝」と刻された石板が出土した。そのときには詳しい調査がされずに埋め戻され、昭和46年の調査時には約3体分の人骨が出たが、細分化していて男女の別も不明という状態だった。しかし、その骨に、高貴な人物の埋葬に使われたとされる朱が付着していたこともあり、伝承とも合わせ、耳面刀自媛や中臣英勝らの墓であるとされた、という(現地説明板などによる。)。


匝瑳市のHPから(内裏神社):PDFファイル

「ちばの観光まるごと紹介」のHPから(大塚原古墳)

同上(内裏神社)


写真1:「大塚原古墳」。「弘文天皇妃耳面刀自媛陵墓」という石碑が建てられている。旭市指定文化財(史跡)


写真2:同上、「連金子英勝」と刻された石板もあるが、今では磨耗して文字は読み取れない。


写真3:「内裏神社」正面鳥居(場所:千葉県旭市泉川1502-1。県道104号線(八日市場井戸野旭線)沿い、「豊畑郵便局」の東約280m。駐車スペースあり。)


写真4:同上、社殿 (祭神:耳面刀自媛)


写真5:同上、社殿裏にある「大友皇子霊璽」石碑


写真6:「内裏神社(上社)」(場所:千葉県匝瑳市野手)


写真7:同上、社殿


写真8:「内裏神社(下社)」(場所:千葉県匝瑳市野手)


写真9:同上、「遷宮記念碑」


(写真6~9は2019年6月23日に追加しました。)

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玉崎神社(千葉県旭市)

2014-07-12 23:55:45 | 神社
玉崎神社(たまさきじんじゃ)。通称:玉ヶ崎大明神(たまがさきだいみょうじん)、あるいは単に、明神様(みょうじんさま)。
場所:千葉県旭市飯岡2126-1。国道126号線沿いのガソリンスタンド「エネオス飯岡バイパスSS」とコンビニ「セブンイレブン旭市飯岡谷店」が向かい合う交差点から、南西に向う(この道路には「九十九里ビーチライン」という愛称があるが、鄙びた普通の道路である。)。突き当たりの交差点を左折(南東へ)、約200m進むと石造の鳥居がある。それを潜った先の赤鳥居の向って右手に駐車場あり。
社伝によれば、創建は景行天皇40年(110年)。日本武尊が東征の折、相模国から上総国に渡るときに海難に遭い、妃の弟橘媛が自ら犠牲となって入水するという悲劇があった訳だが、その後日本武尊が上総国から陸奥国に向う途中で「玉之浦」(=九十九里浜)に至り、その東端の「玉ヶ崎」に海上平安と夷賊鎮定を祈願して、海神の娘で神武天皇の母に当たる玉依毘売命(タマヨリヒメ)を祀ったという。一説に、永禄年間(1558~1570年)、戦火を避けるため上総国一宮である「玉前神社」(同じ「たまさきじんじゃ」だが、「さき」の字が異なる。)が当神社に御神体を移したともいう。
中世、南北朝時代中期に成立したとされる「神道集」巻三第十(香取大明神事)には、「香取大明神」(「香取神宮」)を下総国一宮とし、「玉崎明神」(当神社)を二宮として、ともにその本地を十一面観音と記している。ただし、その根拠は不明。なお、当神社は延喜式神名帳には登載されておらず、所謂「式外社」である。因みに、千葉県船橋市に鎮座する「二宮神社」(2012年3月17日記事)は下総国式内社「寒川神社」に比定されているが、あえて由緒ある「寒川神社」を称さず、下総国二宮であることを優先して「二宮神社」を正式名称としたようである。また、下総国式内社「蘇我比咩神社」(2012年4月7日記事)も下総国二宮であるとしている。
さて、当神社は「玉之浦総社」として中世以降、源頼朝・千葉常胤等の武将が参拝・庇護したほか、場所柄、海上安全と大漁祈願に加え、祭神に因むものか、安産の神様としても信仰された。子が生まれないことに悩んでいた玉之浦の長者が当神社(明神様)に祈願すると、子ができた。また、母親がお産に苦しんでいると、枕元に明神様が現れ、明神様から授けられた玉石を抱いたところ安産したと言い伝えられている。この玉石は、現在も、「子産石(子宝石)」と称する霊石として当神社の宝物となっているという。


「玉崎神社」のHP


写真1:「玉崎神社」参道入口の石鳥居と社号標。社号標は「下総國二宮 玉浦總社 玉崎神社」と刻されている。


写真2:境内入口の赤鳥居


写真3:拝殿正面


写真4:本殿。拝殿・本殿とも千葉県指定有形文化財。 


写真5:本殿裏の石塁(石垣)。ここで使われている石は「飯岡石」(凝灰質砂岩)であるが、丸いのは海岸に打ち寄せられた「寄り石」であるからである。旭市指定文化財。


写真6:「天の石笛」。享保3年(1718年)頃に漁師の網にかかったもので、頭部に直径30cm、深さ40cmの溝穴があり、側面にも穴があって、風が吹き込むと妙音がするという。この音により漁師が出漁を占う霊石とされる。旭市指定文化財。
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犬岩(千葉県銚子市)

2014-07-05 23:08:26 | 名石・奇岩・怪岩
犬岩(いぬいわ)。
千葉県銚子市犬若。「千葉科学大学本部キャンパス」から南に約300m、「犬若町青年館」という建物のところに「犬若と義経伝説」という説明板が立てられている。そこから海側に歩いて、直ぐ。駐車スペースあり。
千葉県銚子市の南東部の海岸に何故か源義経に関わる伝説がある。まず、「外川(とかわ)漁港」と「犬若(いぬわか)漁港」を隔てる場所に「千騎ヶ岩(せんがいわ)」という、標高約18m、周囲約400mの岩礁がある。かつては海岸から100mほど沖にあったというが、現在では堤防で繋がって、歩いても行ける。往古、この岩礁はもっと高く、大きな洞窟があったとされ、義経が兄・頼朝に追われて奥州に逃げる途中で、手勢1千騎をその洞窟に隠したとされるところから、その名がある。硬質砂岩でできており、千葉県最古(2億1千年~2億4千年年前)の地質時代の岩石であるとされ、千葉県指定天然記念物となっている。
また、「千騎ヶ岩」の北西側には、2つの耳を立てたような岩がある。これを「犬岩」といい、その横の岩を「若岩」といって、合わせて「犬若」という地名になったとされる。義経が「千騎ヶ岩」に隠れている間に愛犬の「若丸」が平家の亡霊に取り付かれ、奥州に逃れる旅に連れて行くことができなくなった。残された「若丸」は主人を慕い、七日七晩啼き続けて「犬岩」になったと伝えられている。なお、関東平野最東端の岬である「犬吠埼」の名も、この犬の吠える声が、そこまで届いたことによる、という。


写真1:「千騎ヶ岩」



写真2:同上。岩に開いた穴が印象的。


写真3:「犬岩」


写真4:同上
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