神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

寿亀山 天樹院 弘経寺

2021-05-29 23:06:19 | 寺院
寿亀山 天樹院 弘経寺(じゅきざん てんじゅいん ぐぎょうじ)。通称:飯沼弘経寺。
場所:茨城県常総市豊岡町甲1。国道354号線と茨城県道134号線(鴻野山豊岡線)の「西中入口」交差点から県道を北へ約2.2km、「弘経寺→」という案内標識がある交差点を右折(東へ)、約170m。駐車場有り。
寺伝によれば、応永21年(1414年)、現・東京都港区芝の浄土宗大本山「増上寺」を開山した聖聡上人(浄土宗鎮西派第8祖)の弟子・嘆誉良肇上人によって創建された。室町時代には関東浄土宗の中心寺院として栄えたが、天正5年(1577年)に下妻城主・多賀谷氏と小田原北条氏の合戦に巻き込まれ、多賀谷氏が当寺院に陣を張ったために戦火で堂宇を焼失。第9世・壇誉存把上人は下妻~結城に逃れ、時の結城城主・結城秀康(徳川家康の次男だが、豊臣秀吉の養子となり、その後、結城家の婿養子に入った。)の帰依を得て、現・茨城県結城市に「弘経寺」を再建した(現・「寿亀山 松寿院 弘経寺」、通称:結城弘経寺)。その後、第10世・照誉了学上人が当寺院を再興し、徳川幕府からの厚遇、特に徳川家康の孫・千姫(落飾して天樹院と号する。)の帰依が篤く、当寺院を菩提所として再建に多大な寄進をした。このようなことから、江戸時代には浄土宗の関東十八檀林の1つとなり、その中でも上位の紫衣壇林とされた。現在は浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。
さて、千姫(徳川第2代将軍・秀忠の長女、第3代・家光の姉)の芳しからぬ「吉田御殿」伝説(史実ではない。)はともかくとして、当寺院にまつわる伝説・伝承は多い。まず、開山の嘆誉良肇上人であるが、下総国猿島郡富田(現・茨城県坂東市)に生まれ、応永21年に当寺院を創建するのだが(因みに、同年、現・茨城県取手市にも現・「大鹿山 清浄院 弘経寺」(通称:取手弘経寺)を創建している。)、当地は四方を谷に囲まれて亀の甲羅のような島状の土地だった。このとき、飯沼の主の大亀が現れて「この土地は私のものである。すぐに立ち去ってほしい。」と告げた。上人は大亀に頼んで、この土地を10年間借りることにしたが、10年後、大亀が再び現れた際、借用書の「十」の文字に一点を加えて「千」としたため、大亀は何も言わず立ち去った。上人は大亀に感謝し、山号を「寿亀山」としたという。次に、第2世・了暁上人の頃、当寺院に宗運という僧がいた。宗運は才学に優れ、歌舞も巧みだった。文明10年(1478年)、開山上人の法要の折、宗運は歌舞を披露して好評を博したが、疲れて寝てしまい、貉(むじな。関東ではタヌキ、アナグマの総称)の正体を現した。やむなく寺を去ることになったが、最後に幻術により阿弥陀来迎を見せようと言った。ただし、あくまでも幻術であるから、くれぐれも「南無阿弥陀仏」などと唱えないでほしいと話したが、阿弥陀来迎の情景が現れると、人々は思わず名号を唱えたために幻術が解けてしまった。その時、杉の大木の上にいた宗運は落下し、小貝川に身を投げて死んだ。その死骸が流れ着いたのが現・茨城県つくばみらい市狸渕(むじなぶち)で、同所にある当寺院の末寺「寿永山 浄円寺」に葬られた。当寺院境内の大杉は「来迎杉」と呼ばれるようになり、その下に「宗運堂」が建立されて、宗運が作ったという面などが納められている。第三は、歌舞伎などで有名な「累ヶ淵」の怪談物語で、佑天上人が累の霊を解脱させて解決するのだが、これは佑天が当寺院に居た寛文12年(1672年)に発生した実際の事件が元になっている。ただし、(真言宗や日蓮宗ならばともかく)浄土宗では、こうしたエクソシスト的な行いは忌避され、佑天はいったん浄土教団から離れざるを得なくなった。しかし、こうした霊落としや女性救済の実績が広く知られ、ついには将軍家の大奥の支持を得て、元禄13年(1700年)に当寺院の住職に任命され、正徳元年(1711年)には「増上寺」第36世法主・大僧正に任じられることになる。なお、当寺院の東、約650m(直線距離)のところにある「法蔵寺」には「累の墓」があり、常総市の指定文化財となっている。

羽生山 住生院 法蔵寺(はにゅうさん おうじょういん ほうぞうじ)。
場所;茨城県常総市羽生町724。「弘経寺」前から南東へ約500mのところで左折(北東へ)、約250m。駐車場有り。
文禄元年(1592年)、西誉哲山上人が開基した浄土宗寺院。累一族の墓のほか、累の木像や祐天上人が用いた怨霊解脱の数珠などが保存されているとのこと。

なお、宗運の伝説については、実は色々と紆余曲折があるようで、興味がある方は中村禎里著「狐付きと狐落とし」が参考になります。この本には、佑天上人についても書かれています。


弘経寺のHP


写真1:「弘経寺」境内入口、寺号標(「大本山増上寺別院 寿亀山 弘経寺」)


写真2:同上、本堂。


写真3:同上、向かって左から、薬師堂、開山堂、経蔵。


写真4:手水鉢は亀の形になっている。


写真5:同上、「来迎杉」と「宗運堂」


写真6:「宗運堂」


写真7:同上、「天樹院殿御廟」入口


写真8:同上(千姫の墓)。千姫は死後、徳川家の菩提寺である「伝通院」(現・東京都文京区小石川)に葬られ、当寺院には遺髪が納められたとされてきたが、平成9年の保存修理の際に遺骨が発見され、分骨されたことがわかったという。


写真9:「法蔵寺」本堂。鬼怒川右岸(西岸)約350mのところにある。


写真10:同上、「累の墓」(常総市指定文化財(史跡))。


写真11:「寿永山 浄円寺」(場所:茨城県つくばみらい市狸渕52。小貝川に架かる稲豊橋東詰の南、約230m。駐車場有り。)。なお、つくばみらい市には同じ浄土宗「浄円寺」がもう1つあるので注意(「豊体山 無量院 浄円寺」、つくばみらい市豊体)。


写真12:同上、宗運の供養碑。地蔵菩薩の線刻の下に「為延誉宗運大徳」などと刻されているとのこと。なお、「檀林飯沼弘経寺志」(1821年)によれば、宗運は人間で、「弘経寺」に18年間滞在していた後、小貝川に身投げして亡くなったとされる(身投げの理由は不明。)。
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正覺山 蓮前院 安樂寺

2021-05-22 23:26:49 | 寺院
正覺山 蓮前院 安樂寺(しょうかくさん ​れんぜんいん あんらくじ)。通称:元三大師 安楽寺(がんざんだいし あんらくじ)。
場所:茨城県常総市大輪町1。国道354号線「西中入口」交差点から茨城県道134号線(鴻野山豊岡線)に入って北へ、約3.2km。大きな寺号標と広い駐車場がある。こちらは南門で、表(正面)参道入口であるが、参道が長いので、本堂近くに行くのであれば、更に約400m進んだところ(案内看板あり)で右折(東へ)約170m、西門付近の駐車場利用が便利(更に進んで、境内にも駐車場がある。)。なお、「大生郷天満宮」(前項)からは東へ約2km(道路距離)。
寺伝によれば、延長7年(929年)、菅原道真の三男・影行(景行)が「大生郷天満宮」を創建した際、その別当寺として開いたのが始まりという。天満宮の総本社とされる「太宰府天満宮」(現・福岡県太宰府市)と同じ形で創建されたとされるが、それは、延喜3年(903年)に菅原道真が亡くなった時、棺を牛車に載せて運ぶ途中、牛車が動かなくなったところに「安楽寺」を建立して葬り、延喜5年(905年)に廟所が建てられたのが「太宰府天満宮」の創祀とされるからで、元々は「安楽寺天満宮」と称していたということに準じたものだろう(なお、大宰府の「安楽寺」に第60代・醍醐天皇の勅により社殿が建立され、神として祀られるようになったのは延喜19年(919年)である。)。当初は、現在地の北方、「古寺家(ふるじけ)」という場所にあったが、戦国時代の天正年間(1573~1591年)に北条氏と下妻城主・多賀谷氏との戦乱の兵火により堂宇が焼失、後に多賀谷氏によって現在地(字「満蔵(みてぐら)」。元は浄土真宗「西蓮寺」があったという。)に移されて堂宇を再建した。これにより「大生郷天満宮」と離れ、慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」後に多賀谷氏が改易となったため一時衰微したが、天海大僧正により江戸城の鬼門(北東)鎮護の寺院として徳川幕府の庇護を受けるようになり、「元三大師」を勧請して国家安寧の祈願所となった。徳川第3代将軍・家光から寺領20石の朱印状を受け、最盛期には末寺・塔頭など合わせて60ヵ寺を擁していたという。昭和30年の火災により本堂など多くの建物が焼失、現在の堂宇はその後再建されたものである。広大な境内には4つの門があり、祈願する内容によって「長寿門」(南門・表参道)、「子安門」(西門・西参道)、「福禄門」(東門・東参道)のそれぞれの門を通り、「諸願成就門」(中門)から本堂・元三大師堂に参って厄除け祈願するという。現在は天台宗の寺院(別格本山)で、本尊は阿弥陀如来。
因みに、元三大師というのは、第18代天台座主・良源(延喜12年(912年)~永観3年(985年))のことで、承平5年(935年)の大火事により根本中堂など多くの堂宇が焼失して荒廃した「比叡山 延暦寺」を再興した名僧として中興の祖とされる。朝廷から「慈恵(じえ)」の諡号を受けたので、「慈恵大師」と呼ぶべきであるが、命日が正月3日であったことから、「元三大師」の通称で親しまれている。元三大師・良源は、第62代・村上天皇の皇后の安産祈願をしたほか、現在も多くの社寺で行われている「おみくじ」の創始者であるともされる。また、良源が夜叉の姿となって疫病神を追い払ったときの姿を写したとされる「角大師」札や、観音の化身として33身の大師像を写した「豆大師」札も有名で、中世には元三大師・良源自身が厄除けの御利益ありとして彫刻や画像が信仰の対象となり、多くの天台寺院で祀られるようになった。そして、命日の正月3日には厄難消除・諸願成就の護摩供養が行われ、だるま市が開かれる。当寺院でも、毎年正月3日には、開運の福だるまを求める多くの参拝客で賑わうという。


厄除け元三大師安楽寺のHP


写真1:「安樂寺」表参道入口


写真2:表参道の杉並木。ここで、時代劇のロケ撮影がよく行われるとのこと。


写真3:「長寿門」(南門)。厄除開運、健康長寿、病気平癒を祈願。


写真4:「子安門」(西門)。家内安全、子孫繁栄、子宝成就を祈願。


写真5:「福禄門」(東門)。商売繁盛、福徳増長、招冨出世を祈願。


写真6:「お伽羅の供養塔」。民話によれば、鬼怒川が増水して堤防が切れそうになったとき、龍神の怒りを鎮めるため人柱を建てようということになり、身寄りのない「お伽羅」という娘を激流に投げ込んだ。洪水被害もなく済んだが、その後疫病が流行ると「お伽羅」の祟りだという声も上がり、その菩提を弔うために建てられたのが、この供養塔だという(この事件が明暦2年(1656年)に起きた史実とする資料もある。)。なお、当寺院は鬼怒川右岸(西岸)約600mのところにある。


写真7:鐘楼


写真8:手水舎と「権者井戸」。この井戸から元三大師が出現したという。


写真9:古代の石棺(?)


写真10:「諸願成就門」(中門)


写真11:「元三大師堂」。中門の正面にある。


写真12:本堂。中門を入って、直ぐ左にある。
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大生郷天満宮

2021-05-15 23:26:23 | 神社
大生郷天満宮(おおのごうてんまんぐう)。別名:御廟天神。茨城県神社庁のHPでは、単に「天満社」となっている。
場所:茨城県常総市大生郷町1234。茨城県道123号線(土浦坂東線)と同134号線(鴻野山豊岡線)の交差点から、134号線を南へ約1.4km、「東仁連川」を渡ったところで左側道に入り北東へ約120m、突き当りを左折(北へ)したところが「一の鳥居」。なお、駐車場は1つ手前の交差点で左折(北西へ)して約250mのところにある。
社伝によれば、九州・大宰府(現・福岡県太宰府市)に左遷された菅原道真が三男・景行に「われ死なば骨を背負うて諸国を遍歴せよ。自ら重うして動かざるあらば、地の勝景我意を得たるを知り、即ち墓を築くべし。」と遺言して、延喜3年(903年)に亡くなった。景行も左遷されて駿河権介となっていたが、赦されて諸国を巡った後、常陸介として常陸国に着任した折、延長4年(926年)、筑波山北麓の現・茨城県桜川市真壁町羽鳥に塚を築いて遺骨を納めた。その3年後の延長7年(929年)、現在地に遺骨を遷し、社殿を建立したという。なお、当神社の創祀には平良兼(平将門の叔父で敵方)が協力したとか、景行は平将門の弟・将平の学問の師であったとかの伝承もあり、移転には、こうした人間関係が影響したかもしれない(桜川市真壁町は良兼の本拠地で、常総市は将門の本拠地に近い。)。天正4年(1567年)、兵火により社殿焼失したが、下妻城主・多賀谷氏の援助で再建された。大正8年の火災により再び焼失して、現在の社殿はその後再建されたものという。当神社によれば、関東から東北にかけて最古の天満宮であり、遺骨を御神体として遺族によって祀られた唯一の天満宮であるとして、「日本三天神」の一社に数えられているという。祭神:菅原道真公。
因みに、現・茨城県桜川市真壁町羽鳥に、菅原景行が道真の遺骨を納めたという古墳がある。「羽鳥天神塚古墳」と称し、現状は直径約18m、高さ約4mの円墳であるが、発掘調査によれば元の直径は約35m、更に周溝も含めると直径約44mに及ぶと推定されている。横穴式石室があったようだが、殆どが破壊されており、副葬品も殆ど発見されていない。築造時期は6世紀末~7世紀初頭とされている。ということで、この古墳が道真の遺骨を埋納するために築造されたものではないだろうが、下の写真10でもわかるように、筑波山がよく見える場所である。
蛇足:「日本三(大)天神」といえば、「太宰府天満宮」(現・福岡県太宰府市。延喜19年(919年)、菅原道真の墓所の上に社殿が建立されたという。)と「北野天満宮」(現・京都市上京区。天暦元年(947年)、朝廷の命により建立されたという。)が全国に約1万社以上あるとされる天満宮・天満神社・天神社・菅原神社など菅原道真を祀る神社の総本社的な存在となっており、大抵はこの2つの神社が入っている。これに加えて、当神社の他に、「防府天満宮」(現・山口県防府市。延喜2年(902年)の創建で、日本最初の天満宮という。)、「大阪天満宮」(現・大阪市北区。天暦3年(949年)、第62代・村上天皇の勅命により創建されたという。)などがある。なお、「谷保天満宮」(現・東京都国立市)は延喜3年(903年)の創建であるとして、東日本最古の天満宮と称している。


大生郷天満宮のHP


写真1:「大生郷天満宮」一の鳥居と社号標


写真2:参道の石段(男坂)


写真3:拝殿


写真4:本殿


写真5:「親鸞上人礼拝の杉」。元は拝殿の前にあった神木で、浄土真宗の宗祖・親鸞が当神社に参拝したとき、手植えしたものとされる。樹齢約700年と言われていたが、明治35年の台風で幹が折れ、大正8年の社殿火災の際に類焼してしまったという。


写真6:「刀研石」。当神社が現在地に遷座した由来を刻した石碑であるが、今では風化して文字は読めない。この石碑で刀を研ぐと、心願が叶うとされるため、その名があるという。


写真7:社殿裏手にある「菅原道真公御廟所」入口


写真8:「菅原道真公御廟所」。「御神忌千百年大祭記念事業」(菅原道真公没後1100年記念事業)として平成14年に建立されたもの。


写真9:同上、後ろに古い奥津城がある。


写真10:「羽鳥天神塚古墳」(場所:茨城県桜川市真壁町羽鳥字日月49。「桃山学園」南側入口の交差点を東に入る。「柿沼製粉(株)第一工場」の裏(東側)。駐車場なし。)。背後に見えるのは「筑波山」。夏の終わりに訪問したため、草に覆われて近づけず。南側に旧・真壁町設置の標柱があり、墳頂に石祠があるらしいが未確認。なお、墳頂の大木は桜で、春の眺めが良いそうである。
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瀧夜盛姫の墓

2021-05-08 23:05:09 | 伝説の地
瀧夜盛姫の墓(たきやもりひめのはか)。別名:尼塚。
場所:茨城県つくば市松塚。茨城県道128号線(土浦大曽根線)沿いのコンビニ「ファミリーマート桜金田店」北側の道路を北東へ約700m、突き当りを右折(南東へ)、130m進んだところ(「東福寺 栄幼稚園」の案内板がある。)で左折(北東へ)、約350mで「作蔵山 東福寺」境内入口(駐車場有り)。「瀧夜盛姫の墓」は、駐車場西端から北西へ約70m進んだところから南西約40mの畑の中にある。
「瀧夜盛姫の墓」は、平将門の娘、五月姫(出家して「如蔵尼」)の墓とされるもので、毎年、地元住民によって卒塔婆が立てられているという。伝承によれば、五月姫は、将門の死後、当地に逃げてきて現・「東福寺」、あるいは「東福寺」の西にあった「西福寺」に入って尼になり、如蔵尼と名乗った。その墓とされる場所には、かつて土饅頭(塚)があり、現在、「東福寺」楼門前に置かれている4枚の石板は、その塚の石棺だったものといわれている。ただし、その大きさ、厚さからして、石棺材ではなく、古墳の石室材であろうとみられている。因みに、当地は桜川の右岸(南岸)にあり、当寺院の南東、約200mのところ(「鹿島神社」付近)に「松塚古墳群」(前方後円墳2基,円墳1基)がある。なお、歌舞伎などでは、五月姫は復讐のため妖術を会得して「瀧夜叉姫」と名乗り、朝廷に逆らうということになっているが、これはあくまでも創作である。そして、「夜叉」はインドの悪鬼を意味することから、当地では、「滝夜盛姫」という名に変えているということである。また、「瀧夜叉姫」又は「如蔵尼」の墓とされるものは、現・福島県会津磐梯町「恵日寺」や現・秋田県田沢湖町などにもある(「姫塚」2016年10月15日記事参照)。

作蔵山 延命院 東福寺(さくぞうさん えんめいいん とうふくじ)。
場所:茨城県つくば市松塚665。
奈良時代の創建とする説もあるが、寺伝によれば、建長4年(1252年)、真言律宗の僧・忍性菩薩が創建したとされる。南北朝時代には小田氏の祈祷寺として栄え、江戸時代には、寺格は中本山常法壇林、十万石の格式があって、常陸・下総に多くの末寺があったという。第29世・明光僧正は、「新四国東福寺桜川八十八ヶ所霊場」として、つくば市北条から南の桜川両岸にある当寺院の末寺・門末を中心に弘法大師霊場を開設した。明治時代の廃仏毀釈のとき、「筑波山 中禅寺」(「筑波山 大御堂」2020年9月26日記事参照)の慧海僧正が当寺院の住職を兼ねていた縁で、現・「筑波山神社」随神門に祀られていた金剛力士像(仁王像)を当寺院に移した。 その際、仁王像は、桜川に筏を組んで運ばれたことから、「流れ仁王」と呼ばれている。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は延命地蔵尊。この地蔵菩薩像は、聖徳太子作と伝わる如蔵尼の持念仏で、安産・子育てに御利益があるとして信仰を集めているという。


写真1:「瀧夜盛姫の墓」


写真2:同上。卒塔婆に「如蔵尼」という文字が見える。


写真3:「東福寺」境内入口と寺号標(真言宗豊山派 作蔵山 東福寺」)。入って左に「栄幼稚園」がある。


写真4:同上、楼門(仁王門)。享保17年(1732年)建立。


写真5:同上、楼門前の石板。


写真6:同上、狛犬(吽形)。なかなか味がある姿。


写真7:同上、金剛力士像(阿形)。


写真8:同上、本堂。


写真9:本堂横の弘法大師堂。
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島田石

2021-05-01 23:36:53 | 名石・奇岩・怪岩
島田石(しまだいし)。別名:子持ち石、竜宮婦石明神。
場所:茨城県つくば市金田1(「八坂神社」の住所)。「桜中学校」前の道路を東へ約1km。途中、茨城県道128号線(土浦大曽根線)を横切る(角にコンビニエンスストア「ファミリーマートつくば桜金田店」があり、そこからは約230m。)。駐車場なし。
つくば市金田(こんだ)の「八坂神社」境内に「島田石」と呼ばれる石がある。楕円形の上下が括れたような形の平たい石で、大きさは約120cm×約70cm、厚さ約15cm。大正時代に流行した女性の結髪「島田髷(しまだまげ)」の形に似ているということで、その名がついたという。元々は、当神社の北西、約500mにある、つくば市(旧・桜村)金田竜宮橋地区の水田脇の農道に置かれていたもので、その周辺からは、同形ながら約15cm×約8cmの石が多数発見された。そこで、「島田石」は子を産む石として子授けや安産の信仰の対象となり、「子持ち石」、「竜宮婦石明神」とも呼ばれるようになったとらしい。実は、「子」の石は縄文時代の打製石器の「石斧」であるとされる。同形でも、「親」の「島田石」は大きすぎるので、実用ではなく、祭祀に使われたものだろうとのこと。
なお、「島田石」は、明治時代初めまで雨乞いにも使われていたらしい。旱魃になると、農民らは「島田石」の上で火を焚き、石が真っ赤に焼けると、石から竜が天に上って筑波山に黒雲がかかり、雨が降った。しかし、その後は「子」を産むことがなくなったという。(以上、読売新聞社水戸支局編著「いばらき 民話のふるさと」による。)
因みに、「八坂神社」については、創建時期不明ながら、古くは大、岡、金田の3ヵ村の鎮守で、明治6年に金田ほか8ヵ村の村社となったという。祭神は素戔嗚尊。


写真1:「八坂神社」鳥居、正面に拝殿


写真2:本殿(覆い屋の中)


写真3:境内の「島田石」


写真4:大きな石板も。古墳の石棺材とみられる。


写真5:これは「盃状穴」? 磐座や神社等の石造物に彫られることが多い盃(杯)状の穴は、不滅や再生を示すシンボルとされる。


写真6:更に大きな石板


写真7:石塔。向かって右から2番目は「陰陽石」ですね。
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