神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

払田柵跡

2015-11-28 23:50:05 | 史跡・文化財
払田柵跡(ほったのさくあと)。
場所:秋田県大仙市払田字仲谷地95ほか。国道13号線(大曲バイパス)「戸谷地」交差点から東に入り、一本北側の道路を直進、約5km。駐車場有り。なお、向かい側に「秋田県教育庁払田柵跡調査事務所」がある。
「払田柵跡」は、秋田県の横手盆地の北部、矢島川(北側)と丸子川(南側)に挟まれた「長森」と「真山」という2つの丘陵を中心に築かれた古代城柵遺跡である。ただし、文献上に現れないことから、その性格については諸説あり、遺跡名も(現在の)地名を採って名付けられた。当地の水田から埋もれ木が出土することは古くから知られていたが、地元の旧・六郷町の町長であった後藤宙外(小説家としても知られる。)が昭和4年から調査を開始、翌年には国の本格的発掘調査が行われ、昭和6年に秋田県初の国史跡に指定された。その後は、昭和49年から秋田県により継続調査が行われている。その結果、①「長森」を中心とする外郭と2つの丘陵を取り囲む外柵から成り、外柵は東西1,370m、南北780mの長楕円形で、面積は約88haという広大なもの(城柵遺跡として東北最大級)であること、②「長森」中央部に板塀で囲まれた掘立柱建物があり、建物配置や造営技術等からして律令制官荷様式の政庁(正殿・東西脇殿)とみられること、③外郭の柵木は、年輪年代法によれば延暦20年(801年)に伐採された杉材が使われていたこと、また、出土物の中に嘉祥2年(849年)銘の木簡があったこと、④主要建物は5回ほど建て替えられており、施設としては10世紀後半までは存続したことが確実であること、などが判明している。
「払田柵」の性格については、大別して、「雄勝城」説、「河辺府」説、「山本郡家(郡街)」説がある。「雄勝城」説は、「払田柵」の規模の大きさからして史書に記載されない施設のはずはないということを前提に、それは、「日本三代実録」元慶5年記事にある「一府二城(出羽国府と秋田城・雄勝城)、もって非常に備う」の1つである「雄勝城」しかないとする。そして、その位置として、史料の解釈からして、雄物川流域沿岸部にあって、「秋田城」から駅家2つ分手前(南)の距離のところとすれば、「払田柵跡」しかない、というものである。ところが、「雄勝城」の完成は天平宝字4年(760年)である(「続日本紀」)のに対し、上記の柵木の年代測定により「払田柵」の造営は延暦20年(801年)以降ということが確実となったので、少なくとも「続日本紀」でいう「雄勝城」ではないということになった。次に、「河辺府」説であるが、「秋田城」は少なくとも8世紀後半には出羽国府の機能を有していたが、宝亀11年(780年)には「河辺」への移転が議論され、結局、延暦23年(804年)には「秋田城」は停廃されて「秋田郡」に改編される。このとき、国府の移転先が「河辺府」とされている(「日本後紀」)。「払田柵」が「河辺府」であるという根拠は、造営時期が合うこと、当地が雄物川・丸子川の合流する地で古くから「河辺」と称されていたこと、政庁の様式からみて国府があったとみられること、「和名類聚抄」に「国府は平鹿郡に在り」と注記されていることにも合致することなどである。なお、この説では、国府は、弘仁6~7年(815~816)年頃になって出羽郡(「城輪柵跡」?)に再移転した、とする。これに対して、最近有力なのが「第2次雄勝城」説で、当初は雄勝郡(現・秋田県羽後町元木・足田、あるいは同・横手市雄物川町造山)にあったが、9世紀初頭に当地に移転した、というものである。当地が「雄勝郡」であったことはないから、移転した後でも「雄勝城」(「日本三代実録」元慶2年(878年)記事にその名が出てくる。)というのはおかしい、という批判に対しては、「出羽柵」も現・山形県庄内地方から現・秋田県秋田市に移転しても、「出羽柵」と言っているではないかという反論をしている。ただ、「出羽」は国名でもあり、「出羽柵」が国府機能を持っていたことを考えると、同レベルに論じられない気もする。「山本郡家(郡衙)」説は、出羽国府が一貫して現・山形県庄内地方にあったとする論者に多く、「河辺府」は「河辺郡家(郡衛)」の意味であり、「払田柵」は「山本郡家(郡衙)」であるとする。山本郡(近世以降の「仙北郡」)の建郡時期は不明であるが、史料上の初出は「日本三代実録」の貞観12年(870年)記事で、平安時代初期には平鹿郡から独立して建郡されたとみられているので、そうであれば、造営時期は合致することになる。
謎が多い遺跡であるが、周辺を含めて、継続して調査が行われているので、今後の成果に期待したい。


秋田県教育庁払田柵跡調査事務所のHP

大仙市のHPから(払田柵跡とは?)


写真1:「払田柵跡」。


写真2:外柵南門(復元)。堂々とした八脚門


写真3:外郭南門跡。石段を上って政庁に至る。


写真4:正殿跡


写真5:「ホイドスズ」という湧水井戸。政庁から北側に下りて少し西側のところにある。今も水が湧いている。


写真6:外郭西門(復元)
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造立神社(秋田県横手市)

2015-11-21 23:23:45 | 神社
造立神社(つくりたてじんじゃ)。通称:虚空蔵さん。
場所:秋田県横手市雄物川町造山字造山10。国道107号線「広田面」交差点を北へ、約360m進み(「里見郵便局」の1つ先(北))交差点を左折(西へ)、約240m。駐車場なし。
当神社は、室町時代末期に当地の豪族・山内式部が守護神として祀った「虚空蔵神社」と、天明3年(1783年)に京都の「伏見稲荷大社」(山城国式内社「稲荷神社」)から勧請した「稲荷神社」を、明治42年に合祀したものという。通称「虚空蔵さん」と言い、本来は仏教の「虚空蔵菩薩」で、丑年・寅年生まれの人の守り本尊とされる。現在の祭神は、面足命(オモダル)と稲倉魂命(ウカノミタマ)。このように、神社としては中世以降のものだが、その鎮座地は人造の山、即ち「古墳」の上にあると伝えられており、地名の由来ともなっている。ただし、発掘調査等が行われていないようで、この丘が古墳かどうかは不明。
ところで、最近、古代「雄勝城」の擬定地として、当地周辺が注目されている。まず、「造立神社」の南西、約700mのところに「蝦夷塚古墳群」がある。この古墳群は、国道107号線バイパス工事の際に発見され、発掘調査が行われたが、昭和30年頃の水田造成によって墳丘部は既に削平されていた。古墳であることがわかったのは、円形の周溝が火山灰で埋まった跡が発見されたからだという。縄文時代から平安時代の複合遺跡だが、古墳は8世紀中期頃のものと推定されている。最大の古墳(1号墳)は周溝内周の直径約7.8m、外周の直径約10.8mあり、地上2~3mの盛り土がされていたらしい(因みに、国道107号線は1号墳の真上を通っている。)。現在までの調査で、古墳の数は20個近く発見されているが、最近、さらに重要な発見があった。それは、墓域を画するものと思われていた溝跡から、古墳群と同時代頃と考えられる柵列跡が確認されたというもの。円柱状の杭跡約80個がほぼ直線上に並び、11ヵ所には杭の木片が残っていた。柵列跡は、東西に長さ約100m、幅約0.5m、深さ約1mという柱穴様ピット。また、竪穴式建物跡も発見されているが、竈が壁の外に造られた構造だったという。従来、7~8世紀の横手盆地の住居遺跡では、竈は壁の内側に造られているのが通例で、竈が壁の外側にあるのは関東地方で多く見られる様式なのだということである。これは即ち、「続日本紀」天平宝字3年(759年)記事の「坂東8国、越前・越中・能登・越後等4国の浮浪人2千人を移し、雄勝柵戸とする。」という住民移住政策による集落跡なのではないか、というわけである。
そのほか、造山地区周辺には、なかなか興味深い遺跡も多い。例えば、「首塚神社」(場所:秋田県横手市雄物川町今宿字高花、「雄物川高校」入口付近から北へ約300m、駐車場なし)は、征夷大将軍・坂上田村麻呂が東夷征討の際、戦死者の首約1千を埋葬したことから首塚と名づけたという伝承がある(その後、八幡太郎源義家が、後三年合戦(1083~1087年)で戦死した敵味方の首級890をこの塚に埋葬したともいう。)。現在は、塚の上に社殿があるが、かつては塚の前にあり、塚自体を祀っていたとされる。今、社殿には、この塚から出土した人頭形の石が安置されており、これを拝むと学力向上や頭の諸病平癒に霊験あらたかという。また、「首塚神社」の手前(南)約100mのところ(「佐藤内科医院」入口付近)に「ミカド屋敷(深江弥加止)跡」という標柱が立てられている。「深江弥加止(ふかえみかど)」というのは、出羽国の俘囚で、「元慶の乱」(元慶2年:878年)の際、出羽国府側に味方して「添河」・「覇別」・「助川」3村の俘囚200人余を率いて反乱勢力と戦い、戦局を逆転させる戦功のあった人物で、その屋敷が当地にあったというのである。更に、「首塚神社」から北へ約1.4km進むと、「沼の柵跡」(推定地)(場所:横手市雄物川町沼館429、「雄物川北小学校」の南側、「蔵光院」付近。駐車場有り)がある。後三年合戦において、清原家衡は当初「沼の柵」に拠り、清原清衡・源義家の連合軍を迎え撃ったという。あるいは、「沼の柵」以前にも「城」があったのかもしれない。


秋田県神社庁のHPから(造立神社)

秋田県教育庁のHPから(蝦夷塚古墳群)

横手市のHPから(首塚神社)

同(沼柵跡(推定地))


写真1:「造立神社」鳥居と社号標。石段の脇に小さな社殿があるが、境内社だろう。


写真2:同上、杉木立の中の参道を進む。古墳であるとすると、双円墳?


写真3:同上、社殿。社殿背後は崖。


写真4:「蝦夷塚古墳群」の説明板(場所:横手市雄物川町造山字蝦夷塚。国道107号線「広田面」交差点の西、約800m。国道から農道に入る入口付近。駐車場なし)


写真5:「首塚神社(こうべづかじんじゃ)」鳥居と社号標


写真6:同上、社殿


写真7:「ミカド屋敷(深江弥加止)跡」の標柱


写真8:「沼の柵跡」石碑。背後に見えるのは真言宗御室派「雄勝山 蔵光院」。秋田三十三観音霊場第5番札所。本尊:不動明王
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三輪神社(秋田県羽後町杉宮)

2015-11-14 23:03:07 | 神社
三輪神社(みわじんじゃ)。
場所:秋田県雄勝郡羽後町杉宮字宮林1。国道398号線「柳田橋」交差点から西に約1.3km進み、「三輪神社→」の案内標識のところを右折(北へ)、突き当り。境内に駐車スペースあり。
社伝によれば、養老2年(718年)、行基が当地を巡錫の折、杉の木の下で霊告を受けて草庵を営み、大和国一宮「大神神社」を勧請したのが創始とされる。また、「雄勝城」建設のために大和朝廷から派遣された官人が、故国を懐かしんで勧請したともいう。現在では見る影も無いが、かつては地名の通り豊かな杉林があり、大和国から一夜にして飛んで来た、との伝承がある。「大神神社」には本殿が無く、「三輪山」そのものを神体山としているが、当神社では杉林を神体としたのかもしれない。当然ながら、祭神は(「大神神社」と同じ)大物主大神。平泉藤原氏の崇敬を受けて藤原秀衡(1122?~1187年)の祈願所となり、現本殿は秀衡が造営したものと伝えられるが確証はない。当神社境内に三輪神社(中央)、須賀神社(向かって右)、八幡神社(向かって左)の3社の社殿が並んでいるが、建築様式などからみて、「三輪神社」本殿は室町時代、「須賀神社」本殿は桃山時代の建立と推定され、国指定重要文化財に指定されている(「八幡神社」本殿は羽後町指定文化財)。
別当寺の真言宗「三輪山 杉林寺 吉祥院」は行基を開祖とするが、「三輪百年祭記念誌」(平成元年10月)では、実際には二祖・快基(行基の弟子)の開創であって、当時の本尊は蔵王権現と行基の木像だっただろうとし、三輪神社は、その後の「雄勝城」建設のとき勧請されたものとする。最初は法相宗で、承和11年(844年)に「出羽の講師」になった安慧(その後、貞観6年(864年)に第4代天台座主となる。)が天台宗に転宗したという。その後、真言宗に変わるが、その時期は不明。寺の名前は、杉宮坊、杉本坊、養老寺、大倭寺、杉本寺などと呼ばれていたようだが、「元慶の乱」(元慶2年:878年)平定に勲功があった山北左衛門九郎吉定なる人物に因んで(同人は善政を布き、三輪明神の化身と讃えられたという。)「吉定院」とし、これが「吉祥院」となったと伝えられている。中世には、武装化して宗教豪族となり、末寺等20数ヵ寺を有するなど権勢を誇ったが、近世、佐竹氏が人封すると、自ら武装解除して従ったという。明治期の神仏分離により、僧侶は還俗して神職となり、仁王門は近くの「三輪山 久昌寺」(現・曹洞宗、元は「吉祥院」の隠居寺だったらしい。)に移された、とのこと。仁王門だけでなく、寺宝なども「久昌寺」に移されたようで、もともと「吉祥院」が「秋田六郡三十三観音霊場」の第6番札所であった(十一面観世音菩薩)が、現在では「久昌寺」が引き継いでいるようである。因みに、「久昌寺」の曹洞宗への改宗は寛久7年(1667年)で、本尊は釈迦牟尼仏。

なお、羽後町にはもう1つ「三輪神社」がある(場所:秋田県雄勝郡羽後町糠塚字家岸26。コンビニ「ローソン 西馬音内」店から国道398号線を北東に約400m進み、「糠塚→」という標識が出ているところで右折(東へ)、約600m。駐車場なし)。杉宮の「三輪神社」からの分かれというのが通説であるが、糠塚「三輪神社」側では、自らを行基開創の元宮、杉宮「三輪神社」を別宮としている。


秋田県神社庁のHPから(三輪神社(杉宮))

秋田県神社庁のHPから(三輪神社(糠塚))


写真1:「三輪神社」(杉宮)鳥居と社号標


写真2:同上、境内参道正面が「三輪神社」社殿。なお、江戸時代には「八幡神社」のほうが重視されたため、向かって左の「八幡神社」のほうが参道正面となっていたという。


写真3:同上、「三輪神社」社殿。江戸時代には「明神堂」。「杉ノ宮大明神」あるいは「三輪大明神」と称されていたらしい。


写真4:同上、境内社「須賀神社」社殿。江戸時代には「権現堂」。こちらは「蔵王権現」と称したらしい。現在の祭神は須佐之男命。


写真5:同上、境内社「八幡神社」。現在の祭神は誉田別命。


写真6:同上、神仏混淆の名残りか、境内に鐘楼もある。


写真7:「三輪神社」(糠塚)
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城神山稲荷神社

2015-11-11 22:29:24 | 神社
城神山稲荷神社(じょうしんざんいなりじんじゃ)。
場所:秋田県雄勝郡羽後町足田字城神巡り62。「羽後明成小学校」から東に進み、国道398号線を南へ、約90mのところを左折(東へ)約260mで写真1の石鳥居。そこから北へ、約150m。駐車場有り。
当神社は創建時期等不詳ながら、「足田遺跡」(前項)が「雄勝城」跡であることを前提として、「雄勝城」前面の城輪神であったとする。「日本三代実録」貞観7年の記事に、出羽国の「高泉神」(現・秋田県秋田市の「古四王神社」?)と「城輪神」が従五位下の神階を授与されたことが見える。ただし、この「城輪神」は現・山形県酒田市の「城輪神社」とするのが一般的である。その当否は不明だが、当神社境内を含む「城神廻り遺跡」は平安時代の遺跡で、住居跡、窯跡、井戸跡などが発見され、「神」・「供」などの文字が書かれた墨書土器も出土していることから、古代にも神社があったと推定されているという。


秋田県神社庁のHPから(城神山稲荷神社)

秋田県教育庁のHPから:秋田県遺跡地図情報(城神廻り)


写真1:「城神山稲荷神社」の石鳥居と社号標。


写真2:同上、境内入口の鳥居


写真3:同上、社殿。祭神:豊受姫大神


写真4:同上、境内にある「城神廻り遺跡」の標柱
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足田遺跡

2015-11-07 23:23:37 | 史跡・文化財
足田遺跡(たらだいせき)。
場所:秋田県雄勝郡羽後町足田字雲雀野12。「羽後明成小学校」の西、約200m。駐車スペース有り。
「足田遺跡」は、天平宝字3年(759年)に陸奥守・藤原朝狩が造営した古代城柵「雄勝城」の有力擬定地。その名の通り、「雄勝郡」に置かれたとみられるが、「雄勝郡」というのは、天平5年(733年)に「出羽柵」を秋田村高清水岡に遷置したとき、「雄勝村」に郡を置いたという「続日本紀」の記事が初見。天平9年(737年)には、陸奥按察使兼鎮守将軍・大野東人が「男勝村」の蝦夷を帰順させ、多賀柵から出羽柵への直通連絡路を開通したとされる。そして、天平宝字3年の記事になるのだが、このとき陸奥国では「桃生城」、出羽国では「雄勝城」が造営され、「始めて出羽国に雄勝・平鹿の2郡を置いた」ほか、「雄勝」などの7つの駅家を設置したことになっている。天平5年の記事と矛盾するようだが、その解釈として、①天平5年には「雄勝郡」を置く指示はあったが、実現できなかった、②天平5年にいったん「雄勝郡」を建郡したが、その後放棄された、③天平5年に「雄勝郡」が建郡され、天平宝字3年に「雄勝郡」から「平鹿郡」を分置した、という3説がある。どの説に依るべきかは難しいが、いずれにしても、天平宝字初め頃になって漸く、「雄勝城」を築けるほどに「雄勝郡」を治めることができるようになったということだろう。また、この記事にある「横河」という駅家も「雄勝郡」内にあった(現・秋田県湯沢市横堀?)とされることからすれば、おそらく、「雄勝」と名の付いた「雄勝城」、「雄勝郡家」、「雄勝駅家」は、ほぼ同じ場所にあったとみられる。
ということで、秋田県羽後町は地名等により、古くから「雄勝城」等の擬定地として注目されてきた。例えば、「「郡山」(郡家所在地?)、「糠塚」(駅家所在地?)、「西馬音内堀回」の「元城(元木)」(旧・「雄勝城」?)や「造道」(駅路?)、「仙道」(駅路?)、「足田」の「城神廻り」(城の守護神?)や「土館」(郡家?)など。「足田」を「たらだ」と読むのは難訓だが、語源は製鉄の「踏鞴(タタラ)」ではないかという説もある。また、承平年間(931~938年)頃の編纂とされる「和名類聚抄」の出羽国の郡名「雄勝」の注に「乎加知(おかち)。城あり、これを答合(たこう)という」と記されているが、「高尾田(たこうだ)」という地名もある。なお、現・羽後町のほぼ中心部にある「太平山」(標高474m)の山頂には「太平山煙岡神社」が鎮座しているが、かつては山自体が「煙岡」と呼ばれており、連絡のための烽火を上げたところとの伝承があるという。
こうした中、昭和36年に「足田」で柵列土坑跡とみられるものが発見され、以来、発掘調査が行われてきた。その結果、現・羽後明成小学校の丘上にあるグラウンドなどから(確認されたものだけで)総延長657mもの柵列土坑跡のほか、櫓跡らしきもの、墨書土器、窯跡などが出土した。この窯跡等の構造形式・出土物からみて、9世紀初頭末~中葉頃のものと推定された。このため、今でも「雄勝城」の有力擬定地ではあるのだが、現時点では、①他の城柵遺跡と異なり、丘の尾根頂部伝いに柵列土坑跡が連続していること、②柵列の木材自体が発見されていないこと、柱根が固められていないことなど、柵列跡かどうか自体にも疑問なしとしないこと、③官衙らしい建物の遺跡が発見されていないこと等、「雄勝城」跡とするには確証がない状況となっているようだ。ただ、私有地のため協力が得られず、広大な丘の一部しか発掘調査が行われてはいないようで、更なる調査が期待されている。


秋田県教育庁のHPから:秋田県遺跡地図情報(足田)


写真1:「足田遺跡」の標柱


写真2:同上、グラウンドがあるだけで、特に遺跡らしいものはない。グラウンドのほぼ中央を南北に柵列土坑跡が走っていたようだ。


写真3:同上、グラウンドの向かい側(南側)。こちらは、現在は畑地で、やっぱり遺跡らしいものはないが、土坑跡が連続していたらしい。


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