神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

皇宮山 蚶満寺

2015-10-31 23:53:59 | 寺院
皇宮山 蚶満寺(こうぐうさん かんまんじ)。
場所:秋田県にかほ市象潟町象潟島2。国道7号線沿い「道の駅 象潟」の南、約400mのところ(コンビニ「ローソン 象潟才ノ神」店がある。)から、東に入り、JR羽越本線の線路を越えると、直ぐ。駐車場あり。なお、拝観は有料。
寺伝によれば、仁寿3年(853年)、第3代天台座主円仁(慈覚大師)の開創という。慈覚大師は関東・東北地方で多くの寺院を創建・中興したと伝えられ、有名な「立石寺(山寺)」(山形市)、「中尊寺」(岩手県平泉町)、「瑞巌寺」(宮城県松島町)なども含まれるが、いずれも史実ではないと考えられているようだ。ただし、慈覚大師開創伝説を持つ寺院の多くは平安時代に創建されたとみられており、当初は天台宗に属したようである。
「蚶満寺」という名の由来については、神功皇后の伝説によるとされる。すなわち、神功皇后が三韓征伐の帰路、大時化に遭い、象潟沖合に漂着した。このとき、神功皇后は懐妊しており、鰐淵の入江に上陸後、皇子(品陀和気命、後の応神天皇)を無事出産した。その場所に当寺が建立され、神功皇后が持っていた潮の満ち引きを操る干珠・満珠に因んで、「皇后山 干満珠寺」と名付けられたというものである。神功皇后の実在性すら定かでないし、九州からここまで流されてくるというのも信じ難いから、当然、信憑性はない。それよりも、象潟(きさかた)という地名は、古代には「蚶方」と書き、「延喜式」に駅家名として登場する(「由理」駅家の1つ手前(南))。「蚶」は「キサガイ」(赤貝)で、おそらく赤貝が採れる浅瀬(潟)に面した場所だったのだろう(駅路はもっと鳥海山の山麓よりだったと思われるが、古代から集落があったこともわかる。)。で、「蚶方」を「蚶万」と(故意にか過誤でか)読み替え、同じ音の「干満」を神功皇后の伝説に結び付けたものとみられている。さて、当寺も当初は天台宗だったが、いったん真言宗(「カンマン」を不動明王の真言とする説あり。)に転じ、天正年間(1573~1592年)末頃に曹洞宗に改宗したという。本尊は釈迦牟尼仏。
さて、当寺の境内に「舟つなぎの石」が残っているように、象潟は、元は「九十九島・八十八潟」といわれる多島潟で、日本三景の1つである「松島」と並ぶ景勝地だった。元禄2年(1689年)、松尾芭蕉も「おくのほそ道」の旅の途中で、当寺(文中では「干満珠寺」)の「方丈に坐して簾を捲けば、風景一眼の中に尽きて・‥」云々と書いている。しかし、文化元年(1804年)に起きた地震により、土地が約2.4m隆起し、浅瀬が陸地となった。これをみた本荘藩が新田開発を進めたのに対して、当寺の住職・覚林が反対運動を展開、平地は田圃となったが、小島の多くが崩されずに残った(なお、覚林は捕えられ、獄死している。)。
このような歴史のある当寺であるが、境内に入れば、神功皇后伝説の「袖掛けの松」、松尾芭蕉像、西施像、親鸞聖人が腰掛けたという「御腰石」などに加え、北条時頼手植えのツツジ(「咲かずの擲圃」)など「蚶満寺七不思議」というものもあって、歴史記念物のテーマパークみたいな感じになっている。


秋田県観光連盟のHPから(蚶満寺)


写真1:「皇宮山 蚶満寺」境内入口の寺号標


写真2:境内にある松尾芭蕉の銅像


写真3:山門。閑院宮家の祈願所であったため、瓦に菊の紋章が使われている。にかほ市指定有形文化財


写真4:山門横から北側を見る。松が生えた小丘が「九十九島」と呼ばれた小島の跡。


写真5:本堂。扁額は「蚶満珠禅寺」となっている。


写真6:本堂裏。この写真では見えないが、タブノキの巨木に石造の地蔵像が乗っている(蚶満寺七不思議の1つ、「木登り地蔵」)。


写真7:「親鸞聖人御腰石」。浄土真宗の宗祖が腰掛けた石が何故ここにあるか不思議だが、真宗信者が蝦夷地に輸送中、時化に遭ったため、象潟に陸揚げして当寺に納めたものであるという。


写真8:本堂裏の境内から東(仁賀保高原の方向)を見る。「舟つなぎの石」があるので、こちらも、かつては海だったらしい。


写真9:「神功皇后袖掛けの松」。元のものは枯死してしまい、これは新たに植えられたものという。


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横山遺跡(秋田県由利本荘市)

2015-10-24 23:23:30 | 史跡・文化財
横山遺跡(よこやまいせき)。
場所:秋田県由利本荘市福山字横山。秋田県立大学本荘キャンパスから北へ約800m。駐車場なし。
「横山遺跡」は9世紀前葉~10世紀初頭の平安時代の水田集落跡で、平成13年の発掘調査により水田跡19面、水路跡5条、竪穴建物跡2棟、掘立柱建物1棟のほか、土師器・須恵器、炭化米、籾殻等が見つかっている。水路を整備して水田を拡げた様子が窺えることなど、古代の水田開発の推移を知ることができる貴重な遺跡として、平成15年に秋田県史跡に指定された。なお、この水田集落は、延喜15年(915年)に降ったとされる十和田火山噴火の火山灰の下から発見され、この降灰等のために廃絶していったと推定されている。
そして、「横山遺跡」の南に秋田県立大学本荘キャンパスがあるが、その北西辺の「大覚遺跡」で古銅印(10世紀以降)、南側の「上谷地遺跡」からは竪穴建物跡、掘立柱建物跡、井戸跡など平安時代の集落跡が発見されている。特に、「上谷地遺跡」は、昭和6年に地元新聞「本荘時報」に無数の角材が埋没しているのが発見されたとの報道があり、「由理柵」跡の有力な擬定地ともなっていた。その後の調査では柵木といえるものは発見されなかったが、斎串・形代等が出土し、祭祀施設があったことが確認された。
「由理柵」は古代城柵の1つだが、「続日本紀」宝亀11年(780年)条に「…又由理柵者。居賊之要害。承秋田之道。亦宜遣兵相助防禦…」(意訳:「由理柵は賊に対する重要な拠点であり、秋田への道を支えるものであるから、兵士を送り秋田城と助け合って守るようにせよ。」)とあるのが唯一で、その跡地は未だ発見されていない。ところで、承平年間(931~938年)に編纂された「倭名類聚抄」によれば、出羽国飽海郡に「由理郷」があった。また、延長5年(905年)成立の「延喜式」には、古代官道の「東山道」駅路に「由理」駅家があった。そして、現在も「由利本荘市」という遺称地がある(現・秋田県にかほ市も近世「由利郡」内であるが、こちらには「蚶方(蚶形)」という駅家があった。)。これらのことから、「由理柵」について次のような推定がなされている。
1.現・山形県庄内地方から「秋田城」(現・秋田県秋田市)に向かう中継地に、軍事拠点があった。
2.「城」ではなく、「柵」なので、「秋田城」よりは小規模だった。
3.郡名ではなく、郷名が付けられているところから、「飽海郡家」とは別の場所にあり、郡家の管轄外(国の直轄)だった。
4.「東山道」の途中にあり、「由理」駅家も併設されていた。
5.所在地は、現・秋田県由利本荘市内のどこか。
これらは、絶対ではないが、概ね妥当な推定と思われる。ただ、ピンポイントの所在地までは不明で、子吉川左岸(南岸)の現・由利本荘市古雪町(ふるゆきまち)が「古柵(ふるき)」または「古木」に由来する地名との伝承があり、「由理柵」のあった場所であるというのが有力説。城柵に相応しい高台ということであれば、古雪町の南、約900mにある通称「蟻山台」~東南、約1kmにある通称「尾崎山」(中世の旧・「本荘城」(現・本荘公園))辺りであろうとされる。一方、上記の「横山遺跡」・「上谷地遺跡」・「大覚遺跡」等は子吉川の右岸(北岸)側となる(因みに、「古雪」という地名は、慶長3年(1597年)頃までは右岸(北岸)側にあったともいう。)。
また、最近、注目されているのが、現・由利本荘市西目町西目の「客殿森遺跡」と「井岡遺跡」。現・由利本荘市中心部からは南に約7km離れた場所にある、連なった丘で、西側に水田が広がるが、江戸時代に「西目潟」といわれた浅瀬を干拓したところ。潟を見下ろす高台となる「井岡遺跡」からは、多数の墨書土器、掘立柱建物跡などが出土した。特に、1辺約1mの四角形に近い柱状穴跡2ヵ所で発見され、柱自体は発見されなかったが、残っていれば直径20~30cm程度のものと推定されるという。これは一般集落の建物跡ではなく、平安時代初期の役所関連施設に多い形状とのことで、他の出土物とあわせ、何らかの官衙跡であるとされている。
ところで、「横山遺跡」等や「井岡遺跡」等は、近くに「日本海東北道路」が通っている(旧・「本荘城」は少し離れているが、由利本荘市の中心部にあるため、自動車道のほうが迂回しているともいえる。)が、これは偶然ではないようだ。つまり、現在、現・山形県庄内地方から現・秋田県秋田市に向かう幹線道路である国道7号線は殆ど海沿いを通っているが、古代には、官道(駅路)は(安全な)もっと山側を通っていたと考えられ、「高速道路」という目的のために、同様なルートになったと思われる。


秋田県教育庁のHPから(秋田県遺跡地図情報(上谷地))


写真1:「横山遺跡」


写真2:「上谷地遺跡」付近。奥に土手のように見えるのが日本海東北自動車道。(場所:由利本荘市土谷字上谷地)


写真3:同上。右手が自動車道で、奥に見えるのが秋田県立大学本荘キャンパス。


写真4:「本荘公園」(「本荘城」跡。)の大手門(復元)(場所:由利本荘市尾崎。駐車場有り)


写真5:同上、本丸跡付近から北側(子吉川方面)を見る。右手の大きな建物が由利本荘市役所。


写真6:「客殿森遺跡」。現在は、小丘全体が個人宅の模様。(場所:由利本荘市西目町西目字客殿)


写真7:井岡集落の中央。きれいな星型の五差路になっている。(場所:由利本荘市西目町西目字井岡)
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檜山安東氏城館跡 ・大館跡

2015-10-17 23:56:55 | 史跡・文化財
檜山安東氏城館跡・大館跡(ひやまあんどうしじょうかんあと・おおだてあと)。
場所:秋田県能代市田床内字大館。国道7号線「檜山入口」交差点から秋田県道4号線(能代五城目線)に入り南下、約300mのところで(「檜山安東氏城館跡・大館跡」の小さな案内板あり)左折(東へ)、未舗装農道の突き当たりが登り口。駐車場なし。
安東氏は、元は平安時代の武将・安倍貞任の後裔を名乗る陸奥国津軽地方の豪族で、鎌倉時代に津軽から出羽国北秋田地方を広く支配し、南北朝時代には2家に分かれ、それぞれ現・秋田県能代市檜山地区(檜山安東氏)と現・秋田市土崎地区(湊安東氏)を本拠地とした。天正17年(1589年)、「檜山城」の当主・安東実季が両家を統一、土崎の「湊城」に移って「秋田城介」を自称し、以来「秋田氏」を名乗った。慶長7年(1602年)に常陸国宍戸(現・茨城県笠間市)に転封されるが、近世も大名家として存続し、明治に入ると華族に列せられるなど、秋田の中世の歴史上、重要な一族である。そして、その檜山を本拠地としていた頃の居城跡が「檜山安東氏城館跡」として、その本城である「檜山城跡」、支城である「大館跡」と「茶臼城跡」が一括して国指定史跡となっている。このうち、「檜山城跡」は典型的な中世の山城(築城時期は15世紀中頃?)で、本丸跡など遺構も良く残っており、山上までの道路は舗装され、トイレやペンチが置かれるなど整備されている。
一方、「大館跡」は標高約40m、約27万平方メートルという広大な台地上にあり、「日本三代実録」の元慶2年(878年)記事にみえる「野代営(のしろのたむろ)」があった場所ではないか、といわれてきた。まず、斉明天皇4年(658年)に阿倍比羅夫が水軍を率いて来航し「鰐田・淳代」2郡の蝦夷を服従させたという「日本書紀」の記事があり、現在の秋田県能代市とは範囲が同じではないとしても、「淳代(ぬしろ?)」が「能代」の語源となっている。また、「続日本紀」には「宝亀2年(771年)に渤海使青綬大夫・壱万福ら325入が船17隻に乗って出羽国賊地・野代湊に着いた」という記事あり、ここでは「野代」と表記され、港があったことが知られる(因みに、「能代」に変わったのは、「野代」が「野に代わる」と読めて縁起が悪いとして、宝永元年(1704年)に「能(よ)く代わる」と読める「能代」に改称したものとされる。)。このように歴史ある地名であるが、「賊地」と表現されたように、古代にはヤマト政権の支配外の地域であった。とはいえ、徴税権などが及ばないだけで、必ずしも敵対していたというわけではなく、「野代」にはヤマト政権側の常設的な兵営(駐屯地)があったらしい。上記の「日本三代実録」元慶2年の記事は、いわゆる「元慶の乱」を伝えるもので、秋田城司の苛政に対して蝦夷が反乱を起こし、秋田城や秋田郡家などが焼打ちにあった事件である。これに対して、出羽国府側はまず「野代営」に600入の兵士を派遣したが、「焼山」(現・秋田県五城目町の森山付近?)で蝦夷の襲撃に遭い、500入以上が戦死または捕虜となったとされる。ということで、「大館跡」の発掘調査が何度か行われたが、平安時代の遺構としては、竪穴住居跡35戸、掘立柱建物跡4棟などが発見されたものの、積極的に「野代営」とする証拠にはならない、と判断されているという。


秋田県教育庁のHPから:秋田県遺跡地図(大館(田床内))

能代市のHPから(檜山城跡)


写真1:「檜山安東氏城館跡」(檜山城跡)登り口(場所:秋田県能代市檜山字古城。国道7号線「檜山入口」交差点から秋田県道4号線を南へ約4km、「桧山城跡」という大きな交通案内板のところを左折(東へ)突き当たりカーヴのところ。「潜竜山 多宝院」の手前に駐車場有り)。


写真2:同上、本丸跡。このほか、二の丸・三の丸跡などがある。山上まで舗装路があるが、駐車スペースは狭い。途中はかなりの急坂。城館の様式として「蝦夷館式馬蹄形山城」と言われることがあり、「日本書紀」斉明天皇4年(658年)記事に、阿倍比羅夫の蝦夷征伐において、「沙尼具那」という人物が「渟代郡(ぬしろのこおり:現・秋田市能代か?)」の大領(郡司の長官)に任じられたとの記事があるが、その「沙尼具那」の居館があったところともいわれているようだ。


写真3:「檜山安東氏城館跡・大館跡」。登り口に向かう農道から見る。


写真4:同上、登り口付近。標柱が立てられているが、夏草に埋もれている。写真では、どこが入口かわからないくらいだが、ここを過ぎれば普通の山道。


写真5:同上、登り口から数分で台地上に出る。ただ広くて平らな土地が広がっている。それなりに整備された「桧山城跡」に比べると、単なる草地になっている。


写真6:「檜山神社」鳥居(場所:秋田県能代市桧山字越王下21。国道7号線「檜山入口」交差点から秋田県道4号線を南へ約3.3km、交差点を「仙ノ台・羽立・桧山」方面とは逆の方向(西へ)に入る。道なりに約350m。駐車場あり(鳥居を潜って坂道を少し上ったところ))


写真7:同上、参道の石段


写真8:同上、社殿。坂上田村麻呂東征の折に創建されたという「越王神社」に、大正6年、「愛宕神社」を合祀して「檜山神社」と改称、能代市桧山字茶臼館に鎮座したが、火災に遭い、大正14年に現在地に遷座したという。祭神は大彦命ほか。佐藤久治氏は、安東氏が土崎湊に進出した際に、秋田市寺内の「古四王神社」を勧請したものだろうとしている。


写真9:境内の「古四王神社の杉」(能代市指定天然記念物)。樹高約34m、目通り幹囲約5.8m、推定樹齢1300年という。根元から眼病に効く「亀井の水」という清水が湧いているという。
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石崎遺跡(秋田県五城目町)

2015-10-10 23:27:12 | 史跡・文化財
石崎遺跡(いしざきいせき)。五城目町指定文化財としては「大川石崎遺跡柵列柱脚」として登録。
場所:秋田県南秋田郡五城目町大川下樋口道ノ下。大川小学校の北東、国道7号線「大川歩道橋」のある交差点から東へ、約640mのところ(道路脇)に「石崎遺跡」の説明板がある(駐車場はないが、付近の路肩に少し広いところがある。)。その説明板から南東の田圃の中に白い標柱が立っており、その下に木の杭のようなものが見える。
「石崎遺跡」は、東北大学の高橋富雄教授が調査団長となって昭和42年から本格的発掘調査が行われ、1辺446mの方形となる木の柵列跡のほか、「烽櫓」と推定される跡、須恵器・土師器などが出土。そして、その施設は「城柵」であり、奈良時代後期から平安時代後期まで存続した、と判断された。 この結果を受けて、この遺跡について高橋教授は、通説とは異なる、大胆とも言える説を発表した。即ち、「石崎遺跡」=初期「秋田城」であり、後の「秋田郡衙」であるという説である。高橋説の概要は、概ね次の通り。
1.天平5年(733年)に現・山形県庄内地方から秋田村高清水岡(現・秋田市寺内)に移された「出羽柵」と、天平宝字後半頃(760年代前半)建置された「秋田城」は別のもので、当初の「秋田城」は現・五城目町大川、即ち「石崎遺跡」の場所に造られた。
2.秋田村高清水岡の「出羽柵」は国府機能を持ち、秋田河(雄物川)に因み「河辺府」と呼ばれるようになった。
3.延暦23年(804年)に、現・五城目町大川にあった「秋田城」は停廃され、「秋田郡院」(郡衙)になった。そして、現・秋田市寺内にあった「河辺府」が新しい「秋田城」となった。
実際の論証は、史書などの細かい分析を行っており、特に、「秋田城」が停廃された後にも「秋田城」の施設や「秋田城介」という称号が存続したこと等をうまく説明できる。また、当遺跡近くに「岩野山古墳群」(8世紀前葉~9世紀後葉と推定)や「雀館古代井戸」(平安時代の井戸跡)などの史跡(いずれも秋田県指定史跡)があり、これらを地域を含む馬場目川流域が古代の「出羽国秋田郡率浦郷」(「和名類聚抄」による)に当たるとされるので、古くからの集落であったことは確かである。しかし、政庁・大門の跡など官衙に相応しい遺構や関連する出土物が発見されておらず、通説を覆すところまでは行っていないようである。
なお、「率浦郷」は古代出羽国の最北の地で、「率土之浜(そつどのひん)」(「詩経」にある言葉で、「国土の果て」という意味)に因むものという説がある。そして、「日本三代実録」の元慶2年(878年)、所謂「元慶の乱」の様子について「城北郡南の建物は公私ともに全て焼かれた」という記述がある。これは、要するに「秋田城の北から秋田郡院(郡衙)の南までの地域で蝦夷の焼き討ちを受けた」ということだろうから、「秋田郡院(郡衙)」は「秋田城」より北にあったはずで、その間もそれなりの距離があったと考えられよう。そうすると、(初期「秋田城」かどうかは別として)「石崎遺跡」が「秋田郡院(郡衙)」であった可能性はかなり高いと考えられよう。


秋田県教育庁のHPから(「秋田県遺跡地図」:石崎)

同上(雀館古代井戸井戸)

同上(岩野山古墳群)


写真1:「石崎遺跡」説明板


写真2:説明板を背にして南東側を見ると、田圃の中に白い木柱が立っている。


写真3:畦道を通って近寄ると、「五城目町史跡 大川石崎遺跡柵列柱脚」の標柱


写真4:標柱の根元付近、水路の中に木の杭のようなもの。これが木製の柵の柱らしい。


写真5:「史跡 雀館古代井戸」の石碑と井戸跡(覆屋の下)(場所:五城目町上樋口字堂社。国道285号線「(五城目)警察署前」交差点から秋田県道15号線(秋田八郎潟線)を東に向かい、「高崎」交差点を右折(北へ)約200m。「雀館公園」東端(案内板、駐車場有り)。)


写真6:同上、井戸跡。長さ1.2mの杉板を組み合わせた四角形の井戸枠があったという。


写真7:「岩野山古墳群」(場所:五城目町上樋口字樽沢214他。国道285号線「上樋口」交差点から東へ約1km。「秋田県環境と文化のむら」内(駐車場有り))。草木に覆われ、どこに何があるのかわからない状態だが、全体では30基以上、確実なのは北東斜面に6基、北西斜面に12基の古墳があるという。
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地蔵田遺跡

2015-10-03 23:18:11 | 史跡・文化財
地蔵田遺跡(じぞうでんいせき)。
場所:秋田県秋田市御所野地蔵田3丁目。御所野学院中学校・高校の南、約500m。「御所野総合公園」の南西側。駐車場有り。
「地蔵田遺跡」は秋田市南東部、雄物川とのその支流・岩見川の合流点を見下ろす御所野台地の南端にあり、標高30~40mの東西に長い舌状台地上に立地する旧石器時代・縄文時代・弥生時代の複合遺跡。特に注目されたのは弥生時代前期の集落跡で、農耕文化を持った人々が移住してきて集落を形成したこと、居住区を木柵で囲んでいたこと、その外に墓地があったことなどがわかり、貴重な遺跡として平成8年に国史跡として指定された。現在、竪穴式住居、木柵、墓地などが復元されている。
このブログでは弥生時代以前の遺跡はあまり採り上げないのだが、「地蔵田遺跡」がある御所野台地に所謂「河辺府」があったという郷土史家の説があったこともあり、訪問してみた。「河辺府」は、蝦夷の反乱によって「秋田城」が保ち難くなり、宝亀6年(775年)には国府移転論議が起こり、延暦23年(804年)には「秋田城」を停廃して「河辺府」に移転した、ということが「続日本紀」にみえる。しかし、この「河辺府」がどこにあったのか、はっきりわかっていない。出羽国府が一貫して現・山形県庄内地方にあったとする説では、「河辺府」とは「河辺郡衙」のことである、とするが、その場所について明示はされていないようである。通説は、蝦夷の勢力によって出羽国府が「秋田城」から南に押し戻されたのだと考えるが、その場所については諸説ある。その1つが、この「御所野台地」のどこか、ということになるのだが、今では「御所野ニュータウン」として秋田市郊外の大きな住宅団地となっているが、近世には河辺郡四ツ小屋村に属しており、「地蔵田遺跡」のように古くから集落が形成されていた場所であることから、ここに河辺郡の中心地があってもおかしくはない、ということのようだ。
古代から出羽国に「河辺郡」があったのは確かであるが、古代と近世では郡域は同じではないようで、また、時期によっても変遷があるようなのではっきりしないが、ただ、国府移転が論議されるような状況にある中では「秋田城」との距離が近すぎる(直線距離で約11km)ようであるし、奈良・平安時代の官衙跡は発見されていないことでもあり、やや無理がある説かと思われる。


秋田市のHPから(国指定史跡 地蔵田遺跡について)


写真1:復元された「地蔵田遺跡」


写真2:木柵で囲まれた中に竪穴式住居。出入口に鳥居のような門?


写真3:墓地(復元)。墓地からは人骨は発見されなかったが、勾玉・管玉などが出土した。


写真4:土器棺墓(復元)
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