皇宮山 蚶満寺(こうぐうさん かんまんじ)。
場所:秋田県にかほ市象潟町象潟島2。国道7号線沿い「道の駅 象潟」の南、約400mのところ(コンビニ「ローソン 象潟才ノ神」店がある。)から、東に入り、JR羽越本線の線路を越えると、直ぐ。駐車場あり。なお、拝観は有料。
寺伝によれば、仁寿3年(853年)、第3代天台座主円仁(慈覚大師)の開創という。慈覚大師は関東・東北地方で多くの寺院を創建・中興したと伝えられ、有名な「立石寺(山寺)」(山形市)、「中尊寺」(岩手県平泉町)、「瑞巌寺」(宮城県松島町)なども含まれるが、いずれも史実ではないと考えられているようだ。ただし、慈覚大師開創伝説を持つ寺院の多くは平安時代に創建されたとみられており、当初は天台宗に属したようである。
「蚶満寺」という名の由来については、神功皇后の伝説によるとされる。すなわち、神功皇后が三韓征伐の帰路、大時化に遭い、象潟沖合に漂着した。このとき、神功皇后は懐妊しており、鰐淵の入江に上陸後、皇子(品陀和気命、後の応神天皇)を無事出産した。その場所に当寺が建立され、神功皇后が持っていた潮の満ち引きを操る干珠・満珠に因んで、「皇后山 干満珠寺」と名付けられたというものである。神功皇后の実在性すら定かでないし、九州からここまで流されてくるというのも信じ難いから、当然、信憑性はない。それよりも、象潟(きさかた)という地名は、古代には「蚶方」と書き、「延喜式」に駅家名として登場する(「由理」駅家の1つ手前(南))。「蚶」は「キサガイ」(赤貝)で、おそらく赤貝が採れる浅瀬(潟)に面した場所だったのだろう(駅路はもっと鳥海山の山麓よりだったと思われるが、古代から集落があったこともわかる。)。で、「蚶方」を「蚶万」と(故意にか過誤でか)読み替え、同じ音の「干満」を神功皇后の伝説に結び付けたものとみられている。さて、当寺も当初は天台宗だったが、いったん真言宗(「カンマン」を不動明王の真言とする説あり。)に転じ、天正年間(1573~1592年)末頃に曹洞宗に改宗したという。本尊は釈迦牟尼仏。
さて、当寺の境内に「舟つなぎの石」が残っているように、象潟は、元は「九十九島・八十八潟」といわれる多島潟で、日本三景の1つである「松島」と並ぶ景勝地だった。元禄2年(1689年)、松尾芭蕉も「おくのほそ道」の旅の途中で、当寺(文中では「干満珠寺」)の「方丈に坐して簾を捲けば、風景一眼の中に尽きて・‥」云々と書いている。しかし、文化元年(1804年)に起きた地震により、土地が約2.4m隆起し、浅瀬が陸地となった。これをみた本荘藩が新田開発を進めたのに対して、当寺の住職・覚林が反対運動を展開、平地は田圃となったが、小島の多くが崩されずに残った(なお、覚林は捕えられ、獄死している。)。
このような歴史のある当寺であるが、境内に入れば、神功皇后伝説の「袖掛けの松」、松尾芭蕉像、西施像、親鸞聖人が腰掛けたという「御腰石」などに加え、北条時頼手植えのツツジ(「咲かずの擲圃」)など「蚶満寺七不思議」というものもあって、歴史記念物のテーマパークみたいな感じになっている。
秋田県観光連盟のHPから(蚶満寺)
写真1:「皇宮山 蚶満寺」境内入口の寺号標
写真2:境内にある松尾芭蕉の銅像
写真3:山門。閑院宮家の祈願所であったため、瓦に菊の紋章が使われている。にかほ市指定有形文化財
写真4:山門横から北側を見る。松が生えた小丘が「九十九島」と呼ばれた小島の跡。
写真5:本堂。扁額は「蚶満珠禅寺」となっている。
写真6:本堂裏。この写真では見えないが、タブノキの巨木に石造の地蔵像が乗っている(蚶満寺七不思議の1つ、「木登り地蔵」)。
写真7:「親鸞聖人御腰石」。浄土真宗の宗祖が腰掛けた石が何故ここにあるか不思議だが、真宗信者が蝦夷地に輸送中、時化に遭ったため、象潟に陸揚げして当寺に納めたものであるという。
写真8:本堂裏の境内から東(仁賀保高原の方向)を見る。「舟つなぎの石」があるので、こちらも、かつては海だったらしい。
写真9:「神功皇后袖掛けの松」。元のものは枯死してしまい、これは新たに植えられたものという。
場所:秋田県にかほ市象潟町象潟島2。国道7号線沿い「道の駅 象潟」の南、約400mのところ(コンビニ「ローソン 象潟才ノ神」店がある。)から、東に入り、JR羽越本線の線路を越えると、直ぐ。駐車場あり。なお、拝観は有料。
寺伝によれば、仁寿3年(853年)、第3代天台座主円仁(慈覚大師)の開創という。慈覚大師は関東・東北地方で多くの寺院を創建・中興したと伝えられ、有名な「立石寺(山寺)」(山形市)、「中尊寺」(岩手県平泉町)、「瑞巌寺」(宮城県松島町)なども含まれるが、いずれも史実ではないと考えられているようだ。ただし、慈覚大師開創伝説を持つ寺院の多くは平安時代に創建されたとみられており、当初は天台宗に属したようである。
「蚶満寺」という名の由来については、神功皇后の伝説によるとされる。すなわち、神功皇后が三韓征伐の帰路、大時化に遭い、象潟沖合に漂着した。このとき、神功皇后は懐妊しており、鰐淵の入江に上陸後、皇子(品陀和気命、後の応神天皇)を無事出産した。その場所に当寺が建立され、神功皇后が持っていた潮の満ち引きを操る干珠・満珠に因んで、「皇后山 干満珠寺」と名付けられたというものである。神功皇后の実在性すら定かでないし、九州からここまで流されてくるというのも信じ難いから、当然、信憑性はない。それよりも、象潟(きさかた)という地名は、古代には「蚶方」と書き、「延喜式」に駅家名として登場する(「由理」駅家の1つ手前(南))。「蚶」は「キサガイ」(赤貝)で、おそらく赤貝が採れる浅瀬(潟)に面した場所だったのだろう(駅路はもっと鳥海山の山麓よりだったと思われるが、古代から集落があったこともわかる。)。で、「蚶方」を「蚶万」と(故意にか過誤でか)読み替え、同じ音の「干満」を神功皇后の伝説に結び付けたものとみられている。さて、当寺も当初は天台宗だったが、いったん真言宗(「カンマン」を不動明王の真言とする説あり。)に転じ、天正年間(1573~1592年)末頃に曹洞宗に改宗したという。本尊は釈迦牟尼仏。
さて、当寺の境内に「舟つなぎの石」が残っているように、象潟は、元は「九十九島・八十八潟」といわれる多島潟で、日本三景の1つである「松島」と並ぶ景勝地だった。元禄2年(1689年)、松尾芭蕉も「おくのほそ道」の旅の途中で、当寺(文中では「干満珠寺」)の「方丈に坐して簾を捲けば、風景一眼の中に尽きて・‥」云々と書いている。しかし、文化元年(1804年)に起きた地震により、土地が約2.4m隆起し、浅瀬が陸地となった。これをみた本荘藩が新田開発を進めたのに対して、当寺の住職・覚林が反対運動を展開、平地は田圃となったが、小島の多くが崩されずに残った(なお、覚林は捕えられ、獄死している。)。
このような歴史のある当寺であるが、境内に入れば、神功皇后伝説の「袖掛けの松」、松尾芭蕉像、西施像、親鸞聖人が腰掛けたという「御腰石」などに加え、北条時頼手植えのツツジ(「咲かずの擲圃」)など「蚶満寺七不思議」というものもあって、歴史記念物のテーマパークみたいな感じになっている。
秋田県観光連盟のHPから(蚶満寺)
写真1:「皇宮山 蚶満寺」境内入口の寺号標
写真2:境内にある松尾芭蕉の銅像
写真3:山門。閑院宮家の祈願所であったため、瓦に菊の紋章が使われている。にかほ市指定有形文化財
写真4:山門横から北側を見る。松が生えた小丘が「九十九島」と呼ばれた小島の跡。
写真5:本堂。扁額は「蚶満珠禅寺」となっている。
写真6:本堂裏。この写真では見えないが、タブノキの巨木に石造の地蔵像が乗っている(蚶満寺七不思議の1つ、「木登り地蔵」)。
写真7:「親鸞聖人御腰石」。浄土真宗の宗祖が腰掛けた石が何故ここにあるか不思議だが、真宗信者が蝦夷地に輸送中、時化に遭ったため、象潟に陸揚げして当寺に納めたものであるという。
写真8:本堂裏の境内から東(仁賀保高原の方向)を見る。「舟つなぎの石」があるので、こちらも、かつては海だったらしい。
写真9:「神功皇后袖掛けの松」。元のものは枯死してしまい、これは新たに植えられたものという。