神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

内外大神宮

2024-07-27 23:33:32 | 神社
内外大神宮(ないげだいじんぐう)。通称:お神明さま(おしめさま)。
場所:茨城県筑西市小栗1。茨城県道45号線(つくば真岡線)と同216号線(岩瀬二宮線)の「旭町」交差点から、45号線を北へ約1.4km進み、交差点を左折(西~南西へ。ゴルフ場「スプリングフィルズ ゴルフクラブ」へ入る道路の反対側)して約400m、「内外大神宮本殿 御遷殿→」という案内板のある丁字路を右折(北西へ)、約240mで「宮本公民館」、その駐車スペースの北東側が境内入口。
社伝等によれば、第26代継体天皇(在位:507?~531?年)の頃、伊勢神領として当地を選定し、創建された。大同元年(806年)に社殿造営したという。当地の「伊勢神宮」(現・三重県伊勢市)の荘園である「小栗御厨(伊勢御厨小栗保)」は旧・協和町全域を含む現・筑西市東部の地域で、寛治・康和年間(1087~1104年)頃に常陸国新治郡から分立して独自の行政単位として成立し、保延2年(1136年)に改めて「伊勢神宮」内宮に寄進され、保元年間(1156~1159年)には国益(課税)免除・国司不入権を認める奉免宣旨を受けたとされるので、当神社も実際には平安時代末期に御厨の守護神として勧請されたものとみられる。そして、当地の現地開発領主として私領化を進めたのが小栗氏で、常陸大掾・平重幹の子の重家が小栗氏の祖である。小栗氏は地方武士団として成長し、鎌倉幕府成立後、重家の孫・重成が当地の地頭職となり、その子孫が世襲した。「吾妻鏡」によれば、治承4年(1180年)、源頼朝が佐竹氏追討の帰路、小栗御厨内の小栗重成の「八田館」(現・筑西市八田?)に立ち寄ったという。しかし、小栗氏は康正元年(1455年)、鎌倉公方・足利成氏に攻撃されて没落した。「小栗御厨」も室町時代初期の動乱の中で御厨(伊勢神領)としての機能を失っていったが、当神社は長く「小栗御厨」59ヵ村の総鎮守として人々の崇敬を集めていた。元々は現在の拝殿が位置する一段低い場所にあったが、応永年間(1394~1427年)に兵火にかかり焼失、御遷殿が天正2年(1574年)に、本殿が延宝7年(1679年)に再建され、宝暦3年(1753年)に現在地に移された。本殿は、神明造本殿を2棟を並立させる社殿形式として我が国で現存する最古のものであり、御遷殿も室町時代の様式を伝えるものとして重要であることから、いずれも国指定重要文化財となっている。内宮の主祭神は天照大神で、相殿に天手力男神・万幡豊秋津姫命を祀り、外宮の主祭神は豊受大神で、相殿に天津彦彦火瓊瓊杵尊・天児屋根命・天太玉命を祀る。
因みに、説教節・浄瑠璃・歌舞伎などで有名な「小栗判官と照手姫」の物語(長くなるので、あらすじは省略。)は、小栗城主・小栗満重と助重父子がモデルとされる。ただし、物語は小栗城落城後のことになるので、当地が舞台ではない。小栗城址は当神社の北西側の丘の上にあり、当神社の境内入口の左手奥から上って行ける。


筑西市のHPから(内外大神宮 内宮本殿 外宮本殿 御遷殿)

同上(小栗判官伝説)


写真1:「内外大神宮」境内入口


写真2:社号標


写真3:鳥居


写真4;拝殿


写真5:本殿。向かって右側が内宮で、石段を上ると、御門がある。


写真6:同上、手前が内宮、奥が外宮。


写真7:同上、向かって左側が外宮で、石段を上って、御門。


写真8:同上、手前が外宮、奥が内宮。外宮の方が内宮よりやや小さめに造られている。


写真9:本殿の背後には石祠がずらり。


写真10:御遷殿(覆屋)


写真11:同上。本殿建替等のときに祭神を一時遷すための仮宮。「遷宮(うつしのみや)」ともいう。


写真12:神楽殿。毎年4月と10月の例大祭に奉納される「小栗内外大神宮太々神楽」は、寛延4年(1751年)に山城国愛宕郡「三嶋宮」の神主から当時の当神社神主・ 小栗山城守平宣政に伝授されたものという。茨城県指定無形文化財。
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秋嶠山 地蔵院 妙法寺

2024-07-20 23:32:16 | 寺院
秋嶠山 地蔵院 妙法寺(しゅうきょうざん じぞういん みょうほうじ)。
場所:茨城県桜川市本郷13。茨城県道・栃木県道45号線(つくば真岡線)と同216号線(岩瀬二宮線)の「旭町」交差点から北へ約210mで右折(東へ)、通称「小栗街道」を約2.8km進んで「下泉集会所」のところ(「妙法寺→」の案内標識がある。)を右折(南へ)、約400m進んだ交差点の右(西)側が境内入口。駐車場あり。
寺伝によれば、延暦年間(782~806年)、下野国「小野寺山 大慈寺」(現・栃木県栃木市)の広智国講師が、常陸国坂戸庄上野原地に草堂を建て、「晶屋精舎(あきやしょうじゃ)」と称したのが始まり。 仁寿年間(851~854年)に円仁(慈覚大師。第3代天台座主)が諸堂を建立し、自作の地蔵菩薩を安置して、「阿炬那摩山 顕法憧園(あきやまさん けんほうどうえん)」と改称した。 よって、草創を広智国講師とし、開基を慈覚大師とする。延喜年間(901~922年)には亭珍阿闍梨が中興し、「阿幾那摩山 十輪院 妙法寺」と改称した。「平将門の乱」(天慶2年(939年))の折、兵火により諸堂は灰燼に帰した。しかし、このとき、本尊の地蔵菩薩は沼のほとりに逃れて、無事だった。以来、水縁地蔵尊、後に水引地蔵尊と呼ばれるようになった。寛治年間(1087~1094年)、板戸判官・藤原範明が奥州討伐を祈願し、その宿願が叶ったとして、報謝のために堂塔を再建。塔頭10ヵ坊・末寺10ヵ寺を有し、現在の「秋嶠山 地蔵院 妙法寺」に改称した。応仁年間(1467~1469年)、火災により焼失、元亀年間(1570~1573年)、現在地に移転した。現在は天台宗の寺院で、本尊は水引地蔵菩薩。なお、ほかにも多くの仏像があり、木造の阿弥陀如来坐像・伝観音菩薩立像・伝虚空蔵菩薩立像などは平安時代の9~10世紀頃の作とされ、茨城県指定文化財。関東百八地蔵尊霊場第61番札所・茨城百八地蔵尊霊場第34番札所、北関東三十六不動尊霊場第33番札所(通称:金色不動尊)となっている。
また、本堂に瞬義上人の即身仏が安置されている(即身仏の本堂安置は、関東で唯一という。)。瞬義上人は鎌倉「宝戒寺」住職だったが、69歳のとき、弟子が住職をしていた当寺院に隠居し、貞享3年(1686年)、78歳のとき、衆生済度のため入定した。遺体は7日間の法要の後、石造阿弥陀仏の胎内に納めた(当寺院の辺りは湿地帯で、土に埋めると腐敗してしまうと考えられたためという。)。安永2年(1773年)、住職の夢枕に立った上人が「再びこの世に出て衆生を救済しよう」と告げたため、石仏を開けて、即身仏となった上人を取り出したという(拝観は要予約)。
なお、当寺院の元の所在地は現在地より南方約750mの地点で、そこには「上野原廃寺跡」という遺跡があり、9世紀頃の瓦が出土している。そこから南西約800mのところに「新治廃寺跡」(2018年8月11日記事)があるが、この寺院は「新治郡家」(「新治郡衙跡」(2018年8月4日記事)の付属寺院(いわゆる「郡寺」)だったとみられている。「新治廃寺」は、弘仁8年(817年)に「新治郡家」が火災で焼失した(「日本後記」記事)ときに、類焼して廃絶したとされているところから、当寺院に9~10世紀にかけての諸像が伝わっているということは、あるいは、当寺院が「新治廃寺」の機能を継承したのではないかとも考えられている。


茨城県教育委員会のHPから(木造 阿弥陀如来坐像及菩薩立像(伝観音菩薩)・天部立像(伝虚空蔵菩薩)、木造 四天王立像 7躯)


写真1:「妙法寺」山門。桜川市指定文化財。


写真2:山門前にある巨木の切り株


写真3:不動明王の眷属である三十六童子のうち、普香王童子の像。その背後に見えるのは「妙法稲荷神社」の鳥居


写真4:「瞬義上人入定の石佛」。鐘楼門の前にある。蓮華座のところから上下に分かれ、刳りぬかれた石仏の中に、入定した瞬義上人が入れられていたという。思ったよりかなり小さい。


写真5:鐘楼門


写真6:本堂
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衍応山 勝道院 仏生寺

2024-07-13 23:33:29 | 寺院
衍応山 勝道院 仏生寺(えんおうざん しょうどういん ぶっしょうじ)。
場所:栃木県真岡市南高岡259。茨城県道41号線(つくば益子線)から栃木県道・茨城県道119号線に入り、約2.9km(「仏生寺のけやき→」という案内板がある。)で左折(南西へ)、約190mで突き当り、左折(南東へ)、約400mで参道入口。参道周辺が「仏生寺公園」となっており、入口付近に駐車場がある。
寺伝等によれば、日光開山で知られる勝道上人は、天平7年(735年)に当地で生まれた。父は下野国府(現・栃木県栃木市)の国司の次官に当たる下野介・若田高藤、母は地元豪族・吉田主典の娘・明寿で、幼名を藤糸丸といった。神童の誉れ高く、幼時より仏道を信じ、長じて「下野薬師寺」の如意僧都に師事して天平宝字6年(762年)に出家し、勝道と号した。日光開山を志し、延暦元年(782年)、三度目にしてようやく「男体山」の登頂に成功した。その登山口付近に、「二荒山神社」の神宮寺として「補陀洛山 中禅寺」(現・「日光二荒山神社中宮祠」)を開いた。その後、当地に戻り、当寺院を開山したという。現在は、真言宗豊山派の寺院で、本尊は薬師如来。
なお、「仏生寺」境内全体が「日光開山勝道上人誕生地」として栃木県指定史跡となっている。本尊の木像薬師如来坐像(秘仏)は勝道上人の作と伝わるが、藤原時代(平安時代中・後期)初め頃のものと推定されており、勝道上人の時代よりは少し下るものの、栃木県内でも最古クラスとされる。ほかに、鎌倉時代頃のものとみられる金剛勢至菩薩立像や十二神将像(12体揃っているのは貴重)もあり、いずれも栃木県指定文化財。本堂(薬師堂)は江戸時代中期の寛保2年(1742年)再建とされ、真岡市指定有形文化財。山門両脇のケヤキの大木は栃木県指定天然記念物と、文化財が多い。


栃木県総合教育センターのHPから(仏生寺 木造薬師如来坐像)

同(仏生寺 木造十二神将立像)


写真1:「仏生寺」参道入口。石柱には「史蹟 佛生寺 日光開山 勝道上人誕生地」とある。ここから境内まで南西へ約230mのまっすぐな参道で、春には枝垂桜の名所となっている。


写真2:山門と2本のケヤキの大木。2本とも樹高30m、目通り幹周は、向かって右が5.6m、左が5.0mとされる。勝道上人手植えとの伝承があるが、樹齢はともに推定約700年とされる。


写真3:同行二人の歌碑。弘法大師信仰の1つ、「あなうれし 行くも帰るもとどまるも 我は大師と二人連れなり」という歌の石碑。


写真4:本堂(薬師堂)。


写真5:同上


写真6:境内の石仏など。


写真7:「仏生寺公園」駐車場から南に約200mの山裾にあるエドヒガン桜の大木。高さ約20m、目通り幹周約4m、推定樹齢約200年という。


写真8:写真7の桜の木から少し上ると、「勝道上人 産水の池」がある。水は涸れているが、傍らに「勝道上人霊」という石塔がある。
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施無畏山 寳樹院 小山寺

2024-07-06 23:32:57 | 寺院
施無畏山 寳樹院 小山寺(せむいさん ほうじゅいん おやまじ)。通称:富谷観音。
場所:茨城県桜川市富谷2186。茨城県道41号線(つくば益子線)「久原十字路」交差点から北西へ約90mで右折(北東へ)、林道久原富谷線を約2km。自動車は山門少し手前の駐車場に駐車(山門を通り過ぎると、奥の駐車場からは遠くなる。)し、そこから徒歩約80m。
寺伝によれば、天平7年(735年)、聖武天皇の勅願によって僧・行基が開創し、自作の鉈彫十一面観世音菩薩を本尊として安置し、寺号を「施無畏山 寳樹院 長福禅寺」と名付けた。本堂と三重塔を中心に三十六院など多くの堂宇が整備され、「富谷山」全体が聖地霊山とされたと伝えられる。また、慈覚大師(円仁、第3代天台座主)が東北遊化の際、大師自刻の不動明王と多聞天を脇侍として七堂伽藍が整えられたとされる。平安末期~鎌倉時代初期に当地の領主であった下野守・小山朝政が当寺院を篤く庇護し、「長福禅寺」から「小山寺」に改称した。その後も、各時代の領主から二十石の朱印地を安堵され、明治維新まで続いたという。天台宗の寺院として、江戸時代には「月山寺」(前々項)の末寺となったが、当寺院の方が歴史は古く、寺宝も多い。三重塔(国指定重要文化財)は室町時代の建立で、関東地方以北で同時代まで遡る仏塔は、他には現・栃木県益子町の真言宗「獨鈷山 西明寺(通称:益子観音)」の三重塔の2つだけとされる。本堂・仁王門・鐘楼は江戸時代の建立で、いずれも茨城県指定有形文化財。本尊の十一面観音菩薩坐像は行基作と伝えられる鉈彫像で、 像高200.5cm、アサダ材の一木造りで平安時代後期の作と推定されている。秘仏とされ、御開帳は62年に一度という。通称:富谷観音といい、開運・安産・子育てに御利益がある。また、不動明王像は平安時代後期の作、毘沙門天像は室町時代の作(伝・運慶作)と推定され、これら3体の仏像はいずれも茨城県指定有形文化財。因みに、昭和59年、現・山形県寒河江市の慈恩宗「瑞宝山 本山慈恩寺」(2016年4月2日記事)の大日如来坐像の体内から発見された経文の奥書に「常陸国笠間郡小山寺、大檀那長門守藤原朝臣時朝」と記されていたことで、当時の笠間城主・笠間時朝(1204~1265年)が当寺院に寄進した大日如来像が「慈恩寺」に移されたことが明らかになったという。


富谷観音 小山寺のHP

桜川市観光協会のHPから(施無畏山小山寺)


写真1:「小山寺」境内入口。こちらは西門に当たる。山門正面に本来の参道(急で長い石段)があるが、道幅が広い林道久原富谷線ができたので、こちらから入るのが一般的。拝観時間は午前9時~午後4時。


写真2:山門(仁王門)


写真3:金剛力士像(阿形)


写真4:本堂


写真5:同上


写真6:大黒堂


写真7:大杉と鐘楼。大杉は桜川市指定天然記念物(樹高25m、目通り幹囲5.2m)。


写真8:三重塔。室町時代中期の寛正6年(1465年)、下妻城主・多賀谷朝経が建立したもの。


写真9:同上


写真10:水神
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