神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

鹿島神社(茨城県鉾田市当間)(常陸国式外社・その19の1)

2023-07-29 23:35:49 | 神社
鹿島神社(かしまじんじゃ)。
場所:茨城県鉾田市当間2182。茨城県道8号線(小川鉾田線)「当間」交差点から東に約190mで左折(北へ)、約290m進んだところ(カーヴミラーがあるところ)で左折(西へ)。ただし、この先、道路が狭い上に、神社前まで行くと行き止まりになるので、自動車では無理に入って行かない方が良い。駐車場なし。
社伝等によれば、「常陸国風土記」に記載された行方郡当麻郷の「二神子之社」は当神社のことであるとする。往古、日本武尊が東征の折に、この丘に仮宮を置いたので、後に里人が日本武尊を仰慕して創建したという。中古炎上、寛永3年(1626年)再建、明治15年に村社に列格。現在の祭神は、武甕槌命。
「常陸国風土記」行方郡の条に、「(行方)郡家から東北に15里のところに当麻の郷がある。古老が言うのに、倭武天皇(ヤマトタケル)が当郷を巡幸されたとき、佐伯(土着の先住民)で鳥日子という者がいて、命令に従わなかったので、直ちに殺した。その後、屋形野の仮宮にお出でになったが、車駕の通る道が狭く、凹凸が酷かった。そこで、悪路という意味で、当麻という地名になった。(中略)...(ここに)「二つの神子の社」がある。...」(現代語訳)という記述がある。この辺りの記述は、いろいろ問題があるところで、まず第一に、「凹凸が酷かった」というのは「たぎたぎしい」という言葉で、「当麻」はタギマと読む。現・奈良県葛城市當麻(推古天皇20年(612年)創建と伝わる「當麻寺(二上山 万法蔵院 禅林寺)」がある。)も、「でこぼこのあるさま」を意味する古語の「たぎたぎしい」から、元は「當岐麻」と書いたのが「當麻」となり、「タギマ」が「タイマ」に転訛した地名であるという(通説)。この「當麻(当麻)」の遺称地が現・鉾田市当間(とうま)である、ということには殆ど異論がない。しかし、当間は巴川(この川の名も当麻川から転じたものという。)の左岸(北岸)にあり、近世には鹿島郡に属していた。このことについて、①古代には巴川が郡境ではなく、現・当間も行方郡に属した、あるいは、古代の当麻は現・当間だけでなく、巴川右岸を含む広い地域だった、②古代の当麻郷は近世の旧・行方郡秋津村(現・鉾田市高田・串挽・野友・半原・借宿・青柳)に比定され、後に地名が巴川左岸に移った、という説がある。資料に乏しいので、この問題はなかなか決着が着かない感じではある。第二に、「屋形野」という地名には遺称地がない。仮宮(原文は「帳宮(とばりのみや)」)を置いたところから、逆に「屋形野」と名付けたのではないかという説もある。また、当間の西(巴川の対岸)に現・鉾田市借宿があり、この地名を仮宮に関連付ける説がある。第三に、「二つの神子の社」というのが、常陸国一宮「鹿島神宮」と下総国一宮「香取神宮」の分祠、ということには異論がないが、鹿島・香取の2つの神社があったのか、鹿島・香取の2神を祀る1つの神社があったのかは不明。
ということで、いろいろ問題はあるが、この「二つの神子の社」の候補の1つが当間の鎮守社である当神社である、ということになる。なお、「茨城縣神社誌」(昭和48年)の当神社の項では、当地は、元は行方郡であったが、後に鹿島郡に編入されたとしている。


写真1:「鹿島神社」鳥居と社号標(「鎮守 鹿嶋神社」)


写真2:社殿


写真3:本殿
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三昧塚古墳

2023-07-22 23:32:02 | 古墳
三昧塚古墳(さんまいづかこふん)。
場所:茨城県行方市沖洲467-1外。国道6号線「山王台」交差点から国道355号線を東~東南に約8.6km。駐車場有り。
「三昧塚古墳」は、霞ヶ浦北部、鎌田川流域の沖積低地上に築造された前方後円墳。同じ霞ヶ浦北部にある現・茨城県小美玉市の「権現山古墳」(2019年1月26日記事)など他の古墳が台地上に所在するのと異なり、沖積低地に築かれたのは珍しい。昭和30年に霞ヶ浦の築堤工事のため土砂採取が行われ、半分以上が削平された。このとき、大量の埴輪も出土したが、殆ど破壊された。このような中、緊急発掘工事が行われ、後円部中央の深さ約2.7mのところから、未盗掘の石棺や副葬品が発見された(その後、平成6年、同11年にも追加調査されている。)。墳丘は基段上に構築され、後円部は2段築成(前方部は段築不明)となっている。大きさは、墳丘長82.1m(基段を含めると87.3m)、後円部直径46.5m(同52.1m)・高さ8m、前方部幅(推定)37.2m(同推定40.9m)・高さ6m。形態不明ながら周溝が認められ、これを含めた全長は136.2mとされる。前方部を北西に向け、墳丘表面に円筒埴輪列及び形象埴輪(人物埴輪、鹿形・牛形・犬形埴輪)が置かれ、後円部墳頂下に埋葬施設として組合式の箱式石棺があり、この石棺内から人骨のほか、金銅製の冠を始めとする多数の副葬品が出土している。また、石棺の近くに木製の副葬品埋納施設があった。築造時期は古墳時代中期の5世紀中葉~後半頃と推定されている。被葬者は不明だが、霞ヶ浦の水上交通を支配して治めた有力首長とみられる。古墳域は平成2年に行方市指定史跡に指定され、現在は墳丘が復元され、「三昧塚古墳農村公園」として整備されている。また、副葬品のうち、金銅製の冠は馬形飾と樹木状飾が付く唯一の遺例で、本体には心葉形の歩揺と花文・唐草文・動物文などの透彫が伴う貴重なもの。この冠自体は国産品とみられるが、細工の技術等は中国大陸・朝鮮半島の影響が色濃いものとされる。その他、銅鏡や金銅製の馬具なども学術上重要とされて、出土品一括で平成30年に国の指定重要文化財(考古資料)となっている(茨城県水戸市の「茨城県立歴史館」所蔵)。


行方市のHPから(三枚塚古墳公園)

茨城県教育委員会のHPから(茨城県三昧塚古墳出土品)


写真1:「三昧塚古墳」。駐車場(南側)から見る。手前が後円部、奥が前方部。


写真2:模型もあって、わかりやすい。


写真3:後円部。南東側から見る。


写真4:東側から見る。手前が後円部、奥が前方部。


写真5:北側から見る。手前が前方部、奥が後円部。


写真6:北西側から見る。手前が前方部、奥が後円部。


写真7:前方部から後円部を見る。


写真8:後円部から前方部を見る。この写真では見にくいが、前方やや左手に筑波山が見える。


写真9:公園の隅の石祠。
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於岐都説神社(茨城県行方市)(常陸国式外社・その3の2)

2023-07-15 23:33:39 | 神社
於岐都説神社(おきつせじんじゃ)。
場所:茨城県行方市沖洲603。国道6号線「山王台」交差点から国道355号線を東~東南へ約9.1km。駐車場なし。
社伝によれば、天長7年(830年)、葛原親王が常陸太守に任じられたとき、大任遂行を祈念して創立という。葛原親王は、第50代・桓武天皇の第三皇子で、子女を臣籍降下させて平朝臣姓を名乗らせたことから、所謂「桓武平氏」の祖とされる人物である。卑姓のため皇位にはつけなかったが、親王として諸官を歴任し、一品を授与された。常陸太守も兼任したことは、正史である六国史の1つ「日本文徳天皇実録」仁寿3年(853年)の条に葛原親王薨去の記事があり、その官歴の中に、天長7年に常陸太守を兼ねたとの記載がみえる。ただし、これは名誉職で、常陸国には来たことはないと思われる。しかし、葛原親王の第三子・高望王は関東に下向し、子の平国香らとともに常陸国・下総国・上総国を開拓した。ここから、平将門も出たし、中世には千葉氏・相馬氏などに繋がっていく。なので、葛原親王を持ち出したのは、こうした高望王流桓武平氏の一族かもしれない。
さて、当神社については、「日本三代実録」仁和元年(885年)の条にある「常陸国正六位上於岐都説神に従五位下を授ける」という記事が当神社のことであるとする説がある。所謂「国史見在社」の「於岐都説神」の論社ということになる。この「於岐都説神」については、現・茨城県神栖市の「息栖神社」(2017年12月2日記事)に当てる説が一般的である。しかし、これには、「息栖神社」が「鹿島神宮」・「香取神宮」との結び付きが強く(あわせて「東国三社」と称された。)として社勢が強かったことも影響しているかもしれない。当神社は、霞ヶ浦畔にあって、常陸国でも比較的古く、大きな前方後円墳が多い「沖洲古墳群」の範囲内に鎮座している。当神社の北西約600mのところに大型古墳の「三昧塚古墳」(次項予定)があり、南東約150mには4世紀後半頃(茨城県内最古クラス)の築造といわれる「勅使塚古墳」がある(「勅使塚古墳」は私有地内にあるため、見学は遠慮した。)。また、当神社の現在の祭神は、天照皇大神・国常立尊・経津主命・武甕槌命・天児屋根命であるが、常陸国に縁が深い経津主命(「香取神宮」祭神)・武甕槌命(「鹿島神宮」祭神)・天児屋根命(「春日大社」祭神)を除くと、天照皇大神・国常立尊というのは、日本全体の祖神とはいえるものの、当神社の祭神とするには一般的すぎるというか、「於岐都説神」という名とそぐわないような気もする。これに比べると、「息栖神社」の祭神は久那斗神・天乃鳥船神・住吉三神で、如何にも水上交通の神という感じである。これらのことは、逆に、当神社の神は本来、名も知れない古い自然神(沖洲自体を崇めるような)を祀っていたのかもしれない。一方、当神社を上記「息栖神社」の分社とする説もある。それは、承安元年(1174)、常陸介・高階経仲が橘郷を「鹿島神宮」に寄進したので、「鹿島神宮」から大禰宜中臣則親が遣わされ、支配を任せた。則親は、現・天台宗「萬福寺」(2023年7月1日記事)付近に「羽生館」を築いて、羽生氏を名乗った。あるいは、このとき、羽生氏が当地に「息栖神社」を勧請したのかもしれない、というものである。


写真1:「於岐都説神社」正面。鳥居と社号標(「於岐都説神社」)


写真2:御手洗池?


写真3:拝殿


写真4:本殿
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小松館跡(茨城県小美玉市)

2023-07-08 23:33:11 | 史跡・文化財
小松館跡(こまつやかたあと)。
場所:茨城県小美玉市上玉里903-6外。茨城県道144号線(紅葉石岡線)「玉里郵便局前」から南西へ約650mで左折(南東へ)、約450m(「正一位稲荷大明神」付近)。駐車場なし。因みに、更に南西へ進んだ突き当りに「民家園(茨城県指定有形文化財 旧小松家住宅)」と「権現山古墳」(2019年1月26日記事)がある。
「小松館跡」は中世城館跡とされ、「いばらきデジタルまっぷ」でみると、県道から南側のかなり広い範囲にわたっているが、現在、遺構らしいものは特に見当たらない。一方、「玉里村史」によれば、平重盛(平清盛の嫡男。治承3年(1179年)、清盛より先に死去)が仮住居としたところ、あるいはその後裔が住んだところという伝説があるとしている。即ち、文治元年(1185年)平家滅亡の折、重盛の遺臣・筑後守平貞能は、僧形に身を変えて重盛の遺骨を持って東国に下った。諸所を廻った後、常陸国行方郡若海に落ち着き、遺骨とともに重盛愛用の笛と刀を葬り、小堂を建てた。重盛の後裔を探しだして、小松の末を立てることができた。後世、その子孫は、南北朝時代に常陸平氏の嫡流・大掾高幹に仕えたが、天正18~19年(1590~1591年)に大掾氏一族が滅亡した後、当地に移り住んだ。これが小松氏である。また、重盛所縁の薬師如来像(像高一寸八分=5.5cm)が祀られていたが、薬師堂は「松山バス停」付近に移転した。「小松館跡」からは、十八弁菊花紋の土器片が出土したという。
さて、重盛は京都の六波羅小松第に居を構えたことから、「小松殿」、「小松内府(内大臣)」などと通称された。重盛の遺骨が常陸国で埋葬されたという伝承があるが(「白雲山 普明院 小松寺」(2019年5月25日記事)及び前項参照)、流石に重盛本人、あるいはその後裔の仮寓説は伝説に過ぎないと思われる。
蛇足:平家の家紋としては、揚羽蝶紋が有名。これは、桓武平氏の祖・平国香の嫡男・平貞盛が平将門の反乱(「天慶の乱」)の鎮圧に功績があったとして、朝廷から蝶の文様がある鎧を賜ったことから、これを図案化して平家の家紋にしたという伝承がある。特に、平清盛が好んで使ったということで広まったといわれているが(因みに、清盛は貞盛の6代後になる。)、実際どうだったかは不明。また、現在の天皇及び皇室の紋章は十六葉表菊紋で、鎌倉時代の第82代・後鳥羽天皇(在位:1183年~1198年)が菊紋を好んだことから天皇家の紋章として定着したとされる。しかし、江戸時代には徳川幕府により葵紋の使用が厳しく制限された一方、菊紋を含めその他の紋の使用は自由だったので、必ずしも菊紋が皇族と関係があるとは限らないらしい。


写真1:「小松館跡」


写真2:中心部と思われる「正一位小松稲荷大明神」入口


写真3:同上、社号標。裏面を見ると、昭和60年に建てられたものらしい。


写真4:同上、社殿(覆い屋)


写真5:同上、本殿


写真6:同上、境内。五輪塔の一部だろうか。


写真7:薬師堂(場所:茨城県小美玉市上玉里885-1(「部室松山集会所」の住所)。茨城県道144号線(紅葉石岡線)「玉里郵便局前」から南西へ約500m。駐車場なし)
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雷電山 慈心院 萬福寺

2023-07-01 23:33:15 | 寺院
雷電山 慈心院 萬福寺(らいでんさん じしんいん まんぷくじ)。
場所:茨城県行方市羽生745。「羽生郵便局」前から国道355号線を北西へ約170mで右折(北へ)、道なりに約140m進んで右折(北東へ)、約95mで境内入口前。駐車場は、右手の狭い道路を約170m進んで左に入ったところにある(それぞれの曲がり角に案内看板あり。)。
寺伝によれば、寿永2年(1183年)、源平合戦に敗れた平家一族は「都落ち」して九州に向かったが、このとき平重盛(平清盛の嫡男)は既に亡くなっており、その遺臣・平貞能は重盛の遺骨を奉じて東国に逃れた。常陸国の「白雲山」(現・茨城県城里町の「白雲山 小松寺」(2019年5月25日記事))に遺骨を葬った後、更に追手を逃れて常陸平氏である常陸大掾氏の一族、行方次郎(平忠幹)の庇護をうけた。現・行方市若海に草庵を結び、重盛の祈願仏であったという阿弥陀如来立像を安置し、主君・重盛と没落した平家一門の冥福を祈って生涯を終えた。これが当寺院の前身とされる。南北朝時代には、相模国から芹沢氏(常陸大掾氏の嫡流)が移り住み、現・行方市芹沢~若海周辺を治めていたが、寛正5年(1464年)、芹沢城主・芹沢俊幹が忠伝和尚を招き、実母である貞覚尼(慈心院殿)の菩提を弔うとともに、重盛を弔ってきた草庵を芹沢に移して「慈心院 萬福寺」としたのを当寺院の開基とする。江戸時代になると、水戸藩第2代藩主・徳川光圀の寺社改革により、元禄10年(1697年)に現在地に移転させられたという。現在は天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。


「天台宗 雷電山慈心院 萬福寺」のHP


写真1:「萬福寺」境内入口


写真2:仁王門。天正6年(1578年)に「逢善寺」(現・茨城県稲敷市。2022年5月28日記事)の仁王門として建立されたもので、当寺院の住職が元「逢善寺」の留守住職をしていた縁故から譲り受け、霞ヶ浦を船で運んで享保9年(1724年)に移築したものという。室町時代末期の貴重な遺構として茨城県指定有形文化財となっている。


写真3:金剛力士像(吽形)。享保8年(1723年)銘がある。行方市指定有形文化財(阿形・吽形とも)。


写真4:石段


写真5:阿弥陀堂。石段を上って直ぐの正面にある。貞享4年(1687年)建立。こちらに本尊である、平重盛の祈願仏であったという阿弥陀如来立像と観世音菩薩・勢至菩薩の両脇侍立像が安置されている。阿弥陀如来立像は高さ約96cmで、所謂「歯吹きの阿弥陀」(わずかに開口して歯が見える形。口から光を放って十方を照らすという。)で、全国的にも珍しいもの。なお、製作年代は室町時代中期頃とされる。阿弥陀堂、阿弥陀如来立像・両脇侍像とも、茨城県指定有形文化財。


写真6:本堂。阿弥陀堂の直ぐ後ろにある。こちらにも鎌倉時代後期頃の木像阿弥陀如来立像(行方市指定有形文化財)が安置されている。
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