神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

白澤神社(駿河国式内社・その16)

2010-12-31 23:55:09 | 神社
白澤神社(しらさわじんじゃ)。祭神:伊邪那美命。
場所:静岡市葵区牛妻1139。県道27号線(井川湖御幸線、通称「安倍街道」)を北上し、コンビニ「サークルK静岡牛妻店」(安倍街道で最も北のコンビニで、この先にコンビニはないらしい。)の約100m手前(南)で右折(東へ)し、狭い道路に入る(住宅地の北端のところ)。水路にぶつかったら、いったん左折(北へ)して、すぐ先の橋を右折(東へ)。そこから、約200m。駐車スペース1台程度あり。
社伝によれば、当神社は和銅3年(710年)の創建。社号の「白澤」は地名らしい。鎮座地は、安倍川左岸に並行して走る県道27号線から少し入った谷あいで、周辺に「不動の滝」や静岡市上水道の「牛妻水源地」があり、地名からしても清らかな水のあるところだったのだろう。なお、伝説では、当神社の脇から鉱泉が湧き出しており、この湯に浸かるとリューマチなどの病気の効果があったという。
それにしても、当神社が式内社とされた意味は不明で、祭神もなぜ伊邪那美命なのかも不明。「式内社調査報告」(昭和63年1月)は、美和郷の地神であろうと推定している。
当神社の北東約4kmには霊山「竜爪山」があり、式内社の中では最も近い場所になることから、あるいは何らかの関係があるかもしれない(竜爪山についてはいずれ別項で。)。


玄松子さんのHP(白澤神社):http://www.genbu.net/data/suruga/sirasawa_title.htm


写真1:「白澤神社」正面


写真2:社号標には「延喜式内 白澤神社」


写真3:社殿
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薩摩土手

2010-12-28 22:15:39 | 史跡・文化財
薩摩土手(さつまどて)。
場所:静岡市葵区籠上地先。JR「静岡」駅から県道27号線(井川湖御幸線)を北西に約3km進み、「妙見下」交差点の少し先。駐車場なし。
「薩摩土手」は、徳川家康公が慶長10年(1605年)に将軍職を譲り、大御所政治の中心となる「駿府城」整備・拡張工事を行うのに伴って、安倍川の治水工事として築堤が行われたもの。全国の諸大名を動員して行う、いわゆる「天下普請」として行われ、特に薩摩の島津忠恒が運び込んだ大量の石・材木で築かれたことから、「薩摩土手」と呼ばれるようになった。井宮の妙見神社前から、弥勒まで約4kmの堤が築かれ、それまで別々に流れていた安倍川と藁科川が合流することとなった。これによって、いくつかの枝川に分かれて「駿府城」付近を含めて東に流れていた安倍川の流れを一本化し、全体に西側に移動させた上で、単純に北から南に流れるよう企図したものである。現在では、更に西側に堤防が作られたため、ほとんどが取り壊され、跡地が「さつま通り」という道路となった。
「井宮の妙見神社」というのは、現在の「井宮神社」。徳川家康公は若い時から妙見大菩薩を尊信しており、「駿府城」を居城とした際、三河国「内津山妙見寺」(どの資料を見ても「三河国」となっているが、現・愛知県春日井市所在の寺院と思われるので、「尾張国」が正しいと思われる。同寺は式内社「内々神社(うつつじんじゃ)」と神仏混淆となっていた。)から妙見菩薩を勧請して、同名の「妙見寺」を建立した(慶長13年(1608年)創建。「建穂寺」の末寺となった。)。この「妙見寺」には妙見社があって、北辰妙見尊(北斗七星を神格化したもの)が祀られていた。井宮は水神で、現在の「井宮神社」は、市杵島姫命と瀬織津姫命を祭神としている。「薩摩土手」の守り神としたものだろう。

「薩摩土手」の下にある水道町の「川除地蔵堂」は、傍らの説明板(昭和61年)によれば、「約760年前の9月、大洪水があって、堤防が破れそうになった。水利方役人は地蔵尊を堤防に安置して治水を祈願し、防水に努めた。そこに1人の老僧(六部)が現れ、人柱になることを申し出て、念仏を唱えながら堤防の中に埋った。そのおかげか危機を脱した。それまでは厄除地蔵尊と呼ばれていたが、爾来川除地蔵尊と呼ばれるようになった。」(要約)という。

「薩摩土手」には、かつて「人焼場」(火葬場)があり、「火屋土手(ひやんどて)」(火屋は火葬場のこと。)ともいった。現在の「田町南公園」のある辺りで、江戸時代には囚人墓地があった。「火屋土手」には奪衣婆(三途の川で亡者の衣を奪う老婆。亡者の衣の重さの軽重で業の深さを量るという。)を祀る「奪衣堂」があり、その奪衣婆像を「火屋の婆さん」といった。その表情が物凄く、子供が悪さをすると、「火屋の婆さんの所に連れて行く」と脅かされたという。この像は昭和15年の静岡大火で焼失してしまったらしい。現在、「田町南公園」には「桔梗地蔵菩薩」が祀られており、その石像の隣に、天保11年(1840年)の年号が刻まれた「火屋再建立」の石碑も立てられている。(参考文献:朝比奈清「さつま通り」(昭和53年12月))


静岡河川事務所のHPから(安倍川の歴史)。「薩摩土手」設置前の安倍川の流れの想像図を掲載:http://www.cbr.mlit.go.jp/shizukawa/01_kasen/01_abe/history.html


写真1:「井宮神社」(場所:静岡市葵区井宮町181。駐車場あり)


写真2:「井宮神社」鳥居の裏側から「薩摩土手」を見る。


写真3:巨大な「薩摩土手之碑」


写真4:水道町の「川除地蔵堂」。人柱伝説を伝える。


写真5:「田町南公園」の「桔梗地蔵菩薩」。地蔵尊の名は、元はこの辺りが「桔梗原」という荒地であったことによる。「田町南公園」は、十字路交差点の4つの角が公園になっていて、珍しい形。(場所:静岡市葵区田町五丁目)




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二丁町遊郭

2010-12-24 20:03:30 | 史跡・文化財
二丁町遊郭(にちょうまちゆうかく)。
もちろん現存していないが、かつて、現在の静岡市葵区駒形五丁目辺り、「静岡県地震防災センター」を中心とする地区にあった。このブログの趣旨からすると、寄り道が過ぎるかもしれないが、せっかく石碑などもあるので、見に行った。
有名な江戸の吉原遊郭は、駿府の遊郭の一部が移転してできたもので、駿府に5町あったうちの3町(7町のうち5町、という説もある。)が江戸に移ったので、駿府に残ったのが2町という意味で「二丁町」と称された、という説明が流布している。しかし、元々遊郭の広さが2丁四方(1丁は約109mで、約47,600㎡)だったから、というのが正しいように思う(漆畑弥一著「駿府の花街」(「ふるさと百話3」(昭和46年12月)所収))。正式には「安倍川町」だったが、もっぱら「二丁町」で通用したらしい。「二丁町遊郭」は、徳川家康公が駿府城で大御所政治を始めると、城の増築や安倍川の治水工事などで職人・工夫などが大勢集まり、女を巡る争いが絶えないようになった。その対策として、家康公が、長年仕えた鷹匠の伊部勘右衛門が高齢で退職するに当たり、安倍川町の土地1万坪を与えて遊郭を作らせ、支配させた。伊部勘右衛門は京都・伏見の出身で、伏見から遊女を呼び寄せ、自ら「伏見屋」という遊女屋を開いた、という。遊郭となった土地は、元は耶蘇寺(キリシタン聖堂)があったところで、禁制後は取り壊されて不浄の地とされていた。
家康公が亡くなると政治の中心は江戸に移り、「二丁町遊郭」の規模も縮小された。しかし、東海道の「二丁町遊郭」の名はよく知られていて、滝沢馬琴の「羈旅漫録」や十返舎一九の「東海道中膝栗毛」(いずれも享和2年(1802年)刊)にも採り上げられている(十返舎一九は駿府生まれ(現・葵区両替町一丁目に碑がある。)だから当然か。)。安永9年(1780年)の「細見」(ガイドブック)によれば、遊女屋が10軒、引き手茶屋が10軒あったという。
「二丁町遊郭」は、明治以降も存続したが、第二次世界大戦の静岡大空襲(昭和20年6月)により完全に焼失し、その後再建されなかった。現在では全く遊郭の面影はないが、駒形五丁目に鎮座の「稲荷神社」が「二丁町」町内にあったものといわれる。境内の「双街の碑」が「二丁町遊郭」の由来を伝えている。なお、この「稲荷神社」のことを、資料によっては「大鳥神社」としているものがある。前出「駿府の花街」によれば、天保の飢饉のときには駿府(府中)の人口も約1万5千人まで減少し、遊女屋も2軒だけになった。町内の稲荷神社も、残った1軒の「若松屋」の屋敷内にあったものだけとなり、これが現存する「稲荷神社」であるとする。一方、小長谷澄子著「静岡の遊郭 二丁町」(2006年12月)には町内の地図が掲載されているが、明治15年のものでは「稲荷神社」、昭和初期のものでは「大鳥神社」となっている。「11月にはくじ引きがあって、大変な人出になった」とも記されているので、昭和の初めに客寄せのために、江戸・浅草の「鷲神社」の「酉の市」を参考にして始めたことではないかと思われる。もしそうだとすれば、「新吉原遊郭」からの逆輸入、ということになろう。


写真1:「安倍川公園」内にある「キリシタン聖堂跡」の石碑(場所:静岡市葵区川越町1。「静岡県地震防災センター」の西側)


写真2:「稲荷神社」(祭神:保食神。場所:静岡市葵区駒形通5-10-16。「静岡県地震防災センター」の東側)


写真3:境内にある「双街の碑」。「双街」は「二丁町」を指す。撰文は当時(明治27年)の静岡県知事小松英太郎による。

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舟山神社(静岡市駿河区向敷地)

2010-12-21 23:35:48 | 神社
舟山神社(ふなやまじんじゃ)。祭神:住吉大神?(瀬織津姫命という説もある。)。
場所:静岡市駿河区向敷地962(「神明宮」の住所)。県道207号線(奈良間手越線、通称:長田街道)から「徳願寺」参道の案内板が出ているところを入り、登り口入口のところで右折(北へ)、そこから約200m。駐車場なし。
式内社「中津神社」は、静岡市葵区一番町に鎮座の「住吉神社」に比定されている(2010年12月10日記事)。しかし、江戸時代中期以降の資料では、安倍川と藁科川が合流する河川敷内の「舟山」山上にあった小社を式内社「中津神社」とする伝承を伝えるものが多い。例えば、富田左近泰好の「駿河国式内社再拝記」(安永2年、1773年)、新庄道雄の「駿河国新風土記」(天保6年、1835年)、安倍正信の「駿河雑志」(天保13年、1842年)など。ただし、これらの文献は書きぶりが似ていて、同じ原資料を参考にしたようにも思われる。
「舟山神社」は、「善然寺」(静岡市葵区新通一丁目)の末寺の弁天祠であったらしいことは前項(2010年12月17日記事)で書いた。その弁天祠の本尊である弁財天像は「善然寺」境内の弁天堂に移されたが、小社はしばらく残っていたようだ。現在でも、「舟山」山上には「元舟山神社境内」の石碑が建てられている(写真1)。
また、「舟山神社」は安倍川(藁科川)右岸の猿郷に氏子がおり、「舟山」が川中の小島となった後でも参拝者があったが、安倍川の増水時には渡ることができなくなるので、明治22年に向敷地の「神明宮」に遷座されることとなったという(写真2~4)。


写真1:「舟山」山上の「元舟山神社境内」の石碑


写真2:向敷地の「神明宮」鳥居


写真3:「神明宮」正面。向かって右が境内社の「舟山神社」


写真4:「舟山神社」
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二尊山 引接院 善然寺

2010-12-17 21:12:43 | 寺院
二尊山 引接院 善然寺(にそんさん いんせついん ぜんねんじ)。本尊:阿弥陀如来。
場所:静岡市葵区新通1-2-31。県道208号線(藤枝静岡線)「本通6丁目」交差点の一本北の交差点を東に入ってすぐ。駐車場なし。
浄土宗の寺院で、大永2年(1522年)、増誉上人(善然大和尚)の開基。はじめ上清水村にあったが、駿府に移り、その後、駿府の寺町(現・「常盤公園」がある場所を中心に、東西に寺院が並んでいた。)の最も西端に移転した。寺町にあった寺院は昭和15年の静岡大火により殆どが移転したが、当寺は西端にあったせいか、元の場所に残ったようだ。
さて、式内社「中津神社」は、同項(2010年12月10日記事)で、現・「住吉神社」(静岡市葵区一番町)に比定されていると書いた。しかし、安倍川と藁科川の中洲に鎮座していたという由緒から、現在、その2つの川の合流点(川の中)にある小さな岩山「舟山」(標高43m)山上にあったという「舟山神社」が式内社「中津神社」ではないか、という説がある。確かに、大きな川の真ん中に小山があって、夏には(写真のように)草木が生い茂るので目立つし、しかも「舟山」は安倍川と藁科川の合流点にあるということで、何だか神秘的である。
元々「舟山」は静岡市駿河区向敷地側から藁科川に突き出した山の端の部分で、藁科川はここで「舟山」を巡るように蛇行していたが、後に「舟山」西側が切り離されたものらしい。独立した島になった時期は不明だが、安倍川と藁科川が合流したのは徳川家康公が「薩摩土手」を築いて安倍川の流れを変えたことによるもので、現在の安倍川の河口は本来、藁科川のものだったという。藁科川に安倍川が合流してきたので、「舟山」が切り離されたのは安倍川からの水流によるものだったのではないだろうか。
また、「舟山神社」とされるものは、「舟山」にあった「善然寺」の末寺「雲竜軒」の鎮守の弁天祠(「弁財天女社」)だったらしい。その祠に祀られた弁財天像は弘法大師作であるというが、「雲竜軒」が安倍川の増水によって享保年間(1716~1735年)に廃寺となったため、「善然寺」に移されたという。
以上のようなことから、「舟山神社」が式内社「中津神社」であることは否定されるのだが、この弁財天は、駿府の通称「ニ丁町」遊郭の遊女たちに篤く信仰を受け、「二丁町」から「善然寺」までの花魁道中も行われたという。


静岡教区浄土宗青年会さんのHPから(善然寺):http://www.jodo-ss.com/2010/09/094.html


写真1:「善然寺」。通称:赤門の寺


写真2:境内(正面の門から入ってすぐ右)にある弁財天堂


写真3:安倍川と藁科川の合流点にある「舟山」。かつて山上に小社があって、社前に「弁財天女社」と刻した石灯籠があったという。
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