羽梨山神社(はなしやまじんじゃ)。
場所:茨城県笠間市上郷3161。国道355号線「上郷入口」交差点から茨城県道280号線(南指原岩間停車場線)に入り、西へ約2.7kmのところで側道に入って、直ぐ。駐車スペースあり。
創建時期は不明。社伝によれば、日本武尊が東征のため当地に布陣した際、老翁・老媼が現れて山果を捧げた。これにより兵卒の飢渇が癒されたので、名を問うと、「磐筒男」と「磐筒女」答えた。日本武尊が凱旋の折、「朝日丘」の神に羽々矢と梨の実を捧げたので、「羽梨山」と呼ばれるようになった。また、一説に、山に桜の木が多く、花が咲くと山全体が白くなるところから、「花白山」と呼ばれた。そこで、天智天皇3年(664年)に「木花咲耶姫命」(コノナハクヤビメ)の分霊を勧請して祠を建立、「花白山神社」と称した(「羽梨山」は「花白山」の転訛)という。「朝日丘」=「羽梨山」が現在の「難台山」(553m)であり、当神社はその中腹に鎮座していたとされる。「日本三代実録」では、「常陸国」の「羽梨神」について、貞観12年(870年)に従五位下から従五位上、仁和元年(885年)に従五位上から正五位下と神階を進められた記事がある。そして、延喜式神名帳に登載された式内社となっている。
延暦22年(803年)には坂上田村麻呂が陸奥征討の大任遂行の報賽として神殿二宇を建立・寄進。「平将門の乱」(938~940年)の際には平貞盛が将門征伐を祈って弓矢と砂金を献じた。また、源頼義・義家父子も武運長久を祈願したという。その後も、当地の領主に篤く庇護されたが、戦国時代に兵火に遭って「難台山」中腹から遷座し、現在地にあった「熊野権現」に合祀された。このため、近世には「熊野権現」と称されていたが、明治6年に旧社号に復し郷社に列せられたという。なお、旧社址には小祠があったが、そこがゴルフ場になって取り壊されるということになり、旧跡の記念碑を建てたという(「石岡ゴルフ倶楽部ウエストコース」13番ホールのティーグランド横にあるとのこと。)。現在の祭神は「木花咲耶姫命」...あれ、「磐筒男(神)」・「磐筒女(神)」はどうなったのかと思うが、あるいは「難台山」中腹に磐座でもあったのかもしれない。「木花咲耶姫命」も、花(桜)のイメージだが、「大山祇神」(オオヤマツミ)の娘で、姉に「磐長姫」(イワナガヒメ)がいるなど、要は山の神である。ただ、単に伝承だけかもしれないが、妙に武将の信仰が篤いのも気になる。「磐筒男(神)」・「磐筒女(神)」は「経津主神」(フツヌシ)の親神とされ、物部氏に関係がある、というのは考え過ぎか。
さて、現在、他に「羽梨山神社」を名乗る神社は無く、式内社の論社の問題は無いように思われるのだが、当神社が式内社「羽梨山神社」であることを否定する説がある。それは、天文年間(1532~1555年)に小川城主・薗部宮内大輔が書いたとされる「薗部状」という文書に、小田城主・小田政治が「羽梨之宮」に軍勢を集め、渡海して小川に着く・・・というような記載があることによる。「小田城」は現・茨城県つくば市小田(「小田城跡歴史ひろば」という公園になっている。)、「小川城」は現・茨城県小美玉市小川(「小川小学校」付近)であり、「渡海」というのは霞ヶ浦を渡ったということだろう。とすると、「小田城」から当神社へは北東に約21kmも離れているので、「小川城」に行くのは大回りになる。一方、単純に東に進めば、17~18kmほどで、恋瀬川河口で港があったと思われる「高浜」(現・茨城県石岡市高浜)に着く。で、その途中にある古社として、「胎安神社」(現・茨城県かすみがうら市西野寺433)「子安神社」(現・同東野寺220)、「鹿島神社」(現・茨城県石岡市三村5294)に比定する説があるようだ。特に、「鹿島神社」は「羽成子」という地名(字)の場所にあることも有力な論拠だろう。ただ、個人的意見で難を言えば、①「薗部状」は、攻められた薗部側の文書で、どれだけ事実に即しているのか、②「羽梨之宮」は式内社「羽梨山神社」に比定できるか(例えば、分社ではないのか)、③候補の神社から「小川城」へは、何故「渡海」が必要だったのか(陸路を行かなかったのは何故か。候補の神社からは陸路でも然程の距離ではないような気がする。)、④候補の神社で「羽梨山神社」としての伝承を聞かない、などの点が疑問だ。何より、式内社はわざわざ「羽梨山神社」と、「山」を付けている。「好字二字」の原則からすれば「羽梨神社」でも良かったはずで、やはり「羽梨山神社」は「難台山」と結びついて信仰された神社だったのだろうと思う。
蛇足。平田篤胤の「仙境異聞」によれば、仙童・寅吉が天狗の「杉山僧正(すぎやまそうしょう)」に最初に連れていかれたのが「何台丈(なんたいだけ)」の「獅子が鼻岩」というところで、この「何台丈」が現・「難台山」で、「獅子が鼻岩」という奇岩は今もある。「難台山」も「筑波山」、「加波山」、「岩間山」などと同様、山岳宗教の聖地として著名だったのだろう。
写真1:「羽梨山神社」前の大きな看板。「延喜式内社 羽梨山神社」とある。
写真2:正面鳥居
写真3:狛犬の横の社号標「式内 羽梨山神社」
写真4:拝殿
写真5:本殿。背後の杉は、目通り幹回り約8m、樹高約40m、樹齢推定500年という大木で、笠間市指定天然記念物(平成14年指定)。
写真6:境内の当神社由緒書の石碑(左)と旧跡地碑建立記念碑(右)
写真7:「難台山 普賢院 龍光寺」(場所:茨城県笠間市上郷3137。当神社の南、約70m)。現在は真言宗豊山派の寺院で、かつては当神社の別当寺であった。本尊の木造十一面観音立像は、菩薩形の頭部に如来系の法衣という珍しいものといい、行基作と伝承されてきたが、平成4年の解体修復の際、胎内墨書から室町時代の天正10年(1582年)作と判明した(笠間市指定文化財)。
場所:茨城県笠間市上郷3161。国道355号線「上郷入口」交差点から茨城県道280号線(南指原岩間停車場線)に入り、西へ約2.7kmのところで側道に入って、直ぐ。駐車スペースあり。
創建時期は不明。社伝によれば、日本武尊が東征のため当地に布陣した際、老翁・老媼が現れて山果を捧げた。これにより兵卒の飢渇が癒されたので、名を問うと、「磐筒男」と「磐筒女」答えた。日本武尊が凱旋の折、「朝日丘」の神に羽々矢と梨の実を捧げたので、「羽梨山」と呼ばれるようになった。また、一説に、山に桜の木が多く、花が咲くと山全体が白くなるところから、「花白山」と呼ばれた。そこで、天智天皇3年(664年)に「木花咲耶姫命」(コノナハクヤビメ)の分霊を勧請して祠を建立、「花白山神社」と称した(「羽梨山」は「花白山」の転訛)という。「朝日丘」=「羽梨山」が現在の「難台山」(553m)であり、当神社はその中腹に鎮座していたとされる。「日本三代実録」では、「常陸国」の「羽梨神」について、貞観12年(870年)に従五位下から従五位上、仁和元年(885年)に従五位上から正五位下と神階を進められた記事がある。そして、延喜式神名帳に登載された式内社となっている。
延暦22年(803年)には坂上田村麻呂が陸奥征討の大任遂行の報賽として神殿二宇を建立・寄進。「平将門の乱」(938~940年)の際には平貞盛が将門征伐を祈って弓矢と砂金を献じた。また、源頼義・義家父子も武運長久を祈願したという。その後も、当地の領主に篤く庇護されたが、戦国時代に兵火に遭って「難台山」中腹から遷座し、現在地にあった「熊野権現」に合祀された。このため、近世には「熊野権現」と称されていたが、明治6年に旧社号に復し郷社に列せられたという。なお、旧社址には小祠があったが、そこがゴルフ場になって取り壊されるということになり、旧跡の記念碑を建てたという(「石岡ゴルフ倶楽部ウエストコース」13番ホールのティーグランド横にあるとのこと。)。現在の祭神は「木花咲耶姫命」...あれ、「磐筒男(神)」・「磐筒女(神)」はどうなったのかと思うが、あるいは「難台山」中腹に磐座でもあったのかもしれない。「木花咲耶姫命」も、花(桜)のイメージだが、「大山祇神」(オオヤマツミ)の娘で、姉に「磐長姫」(イワナガヒメ)がいるなど、要は山の神である。ただ、単に伝承だけかもしれないが、妙に武将の信仰が篤いのも気になる。「磐筒男(神)」・「磐筒女(神)」は「経津主神」(フツヌシ)の親神とされ、物部氏に関係がある、というのは考え過ぎか。
さて、現在、他に「羽梨山神社」を名乗る神社は無く、式内社の論社の問題は無いように思われるのだが、当神社が式内社「羽梨山神社」であることを否定する説がある。それは、天文年間(1532~1555年)に小川城主・薗部宮内大輔が書いたとされる「薗部状」という文書に、小田城主・小田政治が「羽梨之宮」に軍勢を集め、渡海して小川に着く・・・というような記載があることによる。「小田城」は現・茨城県つくば市小田(「小田城跡歴史ひろば」という公園になっている。)、「小川城」は現・茨城県小美玉市小川(「小川小学校」付近)であり、「渡海」というのは霞ヶ浦を渡ったということだろう。とすると、「小田城」から当神社へは北東に約21kmも離れているので、「小川城」に行くのは大回りになる。一方、単純に東に進めば、17~18kmほどで、恋瀬川河口で港があったと思われる「高浜」(現・茨城県石岡市高浜)に着く。で、その途中にある古社として、「胎安神社」(現・茨城県かすみがうら市西野寺433)「子安神社」(現・同東野寺220)、「鹿島神社」(現・茨城県石岡市三村5294)に比定する説があるようだ。特に、「鹿島神社」は「羽成子」という地名(字)の場所にあることも有力な論拠だろう。ただ、個人的意見で難を言えば、①「薗部状」は、攻められた薗部側の文書で、どれだけ事実に即しているのか、②「羽梨之宮」は式内社「羽梨山神社」に比定できるか(例えば、分社ではないのか)、③候補の神社から「小川城」へは、何故「渡海」が必要だったのか(陸路を行かなかったのは何故か。候補の神社からは陸路でも然程の距離ではないような気がする。)、④候補の神社で「羽梨山神社」としての伝承を聞かない、などの点が疑問だ。何より、式内社はわざわざ「羽梨山神社」と、「山」を付けている。「好字二字」の原則からすれば「羽梨神社」でも良かったはずで、やはり「羽梨山神社」は「難台山」と結びついて信仰された神社だったのだろうと思う。
蛇足。平田篤胤の「仙境異聞」によれば、仙童・寅吉が天狗の「杉山僧正(すぎやまそうしょう)」に最初に連れていかれたのが「何台丈(なんたいだけ)」の「獅子が鼻岩」というところで、この「何台丈」が現・「難台山」で、「獅子が鼻岩」という奇岩は今もある。「難台山」も「筑波山」、「加波山」、「岩間山」などと同様、山岳宗教の聖地として著名だったのだろう。
写真1:「羽梨山神社」前の大きな看板。「延喜式内社 羽梨山神社」とある。
写真2:正面鳥居
写真3:狛犬の横の社号標「式内 羽梨山神社」
写真4:拝殿
写真5:本殿。背後の杉は、目通り幹回り約8m、樹高約40m、樹齢推定500年という大木で、笠間市指定天然記念物(平成14年指定)。
写真6:境内の当神社由緒書の石碑(左)と旧跡地碑建立記念碑(右)
写真7:「難台山 普賢院 龍光寺」(場所:茨城県笠間市上郷3137。当神社の南、約70m)。現在は真言宗豊山派の寺院で、かつては当神社の別当寺であった。本尊の木造十一面観音立像は、菩薩形の頭部に如来系の法衣という珍しいものといい、行基作と伝承されてきたが、平成4年の解体修復の際、胎内墨書から室町時代の天正10年(1582年)作と判明した(笠間市指定文化財)。