神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

羽梨山神社(常陸国式内社・その12)

2018-11-24 23:24:42 | 神社
羽梨山神社(はなしやまじんじゃ)。
場所:茨城県笠間市上郷3161。国道355号線「上郷入口」交差点から茨城県道280号線(南指原岩間停車場線)に入り、西へ約2.7kmのところで側道に入って、直ぐ。駐車スペースあり。
創建時期は不明。社伝によれば、日本武尊が東征のため当地に布陣した際、老翁・老媼が現れて山果を捧げた。これにより兵卒の飢渇が癒されたので、名を問うと、「磐筒男」と「磐筒女」答えた。日本武尊が凱旋の折、「朝日丘」の神に羽々矢と梨の実を捧げたので、「羽梨山」と呼ばれるようになった。また、一説に、山に桜の木が多く、花が咲くと山全体が白くなるところから、「花白山」と呼ばれた。そこで、天智天皇3年(664年)に「木花咲耶姫命」(コノナハクヤビメ)の分霊を勧請して祠を建立、「花白山神社」と称した(「羽梨山」は「花白山」の転訛)という。「朝日丘」=「羽梨山」が現在の「難台山」(553m)であり、当神社はその中腹に鎮座していたとされる。「日本三代実録」では、「常陸国」の「羽梨神」について、貞観12年(870年)に従五位下から従五位上、仁和元年(885年)に従五位上から正五位下と神階を進められた記事がある。そして、延喜式神名帳に登載された式内社となっている。
延暦22年(803年)には坂上田村麻呂が陸奥征討の大任遂行の報賽として神殿二宇を建立・寄進。「平将門の乱」(938~940年)の際には平貞盛が将門征伐を祈って弓矢と砂金を献じた。また、源頼義・義家父子も武運長久を祈願したという。その後も、当地の領主に篤く庇護されたが、戦国時代に兵火に遭って「難台山」中腹から遷座し、現在地にあった「熊野権現」に合祀された。このため、近世には「熊野権現」と称されていたが、明治6年に旧社号に復し郷社に列せられたという。なお、旧社址には小祠があったが、そこがゴルフ場になって取り壊されるということになり、旧跡の記念碑を建てたという(「石岡ゴルフ倶楽部ウエストコース」13番ホールのティーグランド横にあるとのこと。)。現在の祭神は「木花咲耶姫命」...あれ、「磐筒男(神)」・「磐筒女(神)」はどうなったのかと思うが、あるいは「難台山」中腹に磐座でもあったのかもしれない。「木花咲耶姫命」も、花(桜)のイメージだが、「大山祇神」(オオヤマツミ)の娘で、姉に「磐長姫」(イワナガヒメ)がいるなど、要は山の神である。ただ、単に伝承だけかもしれないが、妙に武将の信仰が篤いのも気になる。「磐筒男(神)」・「磐筒女(神)」は「経津主神」(フツヌシ)の親神とされ、物部氏に関係がある、というのは考え過ぎか。
さて、現在、他に「羽梨山神社」を名乗る神社は無く、式内社の論社の問題は無いように思われるのだが、当神社が式内社「羽梨山神社」であることを否定する説がある。それは、天文年間(1532~1555年)に小川城主・薗部宮内大輔が書いたとされる「薗部状」という文書に、小田城主・小田政治が「羽梨之宮」に軍勢を集め、渡海して小川に着く・・・というような記載があることによる。「小田城」は現・茨城県つくば市小田(「小田城跡歴史ひろば」という公園になっている。)、「小川城」は現・茨城県小美玉市小川(「小川小学校」付近)であり、「渡海」というのは霞ヶ浦を渡ったということだろう。とすると、「小田城」から当神社へは北東に約21kmも離れているので、「小川城」に行くのは大回りになる。一方、単純に東に進めば、17~18kmほどで、恋瀬川河口で港があったと思われる「高浜」(現・茨城県石岡市高浜)に着く。で、その途中にある古社として、「胎安神社」(現・茨城県かすみがうら市西野寺433)「子安神社」(現・同東野寺220)、「鹿島神社」(現・茨城県石岡市三村5294)に比定する説があるようだ。特に、「鹿島神社」は「羽成子」という地名(字)の場所にあることも有力な論拠だろう。ただ、個人的意見で難を言えば、①「薗部状」は、攻められた薗部側の文書で、どれだけ事実に即しているのか、②「羽梨之宮」は式内社「羽梨山神社」に比定できるか(例えば、分社ではないのか)、③候補の神社から「小川城」へは、何故「渡海」が必要だったのか(陸路を行かなかったのは何故か。候補の神社からは陸路でも然程の距離ではないような気がする。)、④候補の神社で「羽梨山神社」としての伝承を聞かない、などの点が疑問だ。何より、式内社はわざわざ「羽梨山神社」と、「山」を付けている。「好字二字」の原則からすれば「羽梨神社」でも良かったはずで、やはり「羽梨山神社」は「難台山」と結びついて信仰された神社だったのだろうと思う。
蛇足。平田篤胤の「仙境異聞」によれば、仙童・寅吉が天狗の「杉山僧正(すぎやまそうしょう)」に最初に連れていかれたのが「何台丈(なんたいだけ)」の「獅子が鼻岩」というところで、この「何台丈」が現・「難台山」で、「獅子が鼻岩」という奇岩は今もある。「難台山」も「筑波山」、「加波山」、「岩間山」などと同様、山岳宗教の聖地として著名だったのだろう。



写真1:「羽梨山神社」前の大きな看板。「延喜式内社 羽梨山神社」とある。


写真2:正面鳥居


写真3:狛犬の横の社号標「式内 羽梨山神社」


写真4:拝殿


写真5:本殿。背後の杉は、目通り幹回り約8m、樹高約40m、樹齢推定500年という大木で、笠間市指定天然記念物(平成14年指定)。


写真6:境内の当神社由緒書の石碑(左)と旧跡地碑建立記念碑(右)


写真7:「難台山 普賢院 龍光寺」(場所:茨城県笠間市上郷3137。当神社の南、約70m)。現在は真言宗豊山派の寺院で、かつては当神社の別当寺であった。本尊の木造十一面観音立像は、菩薩形の頭部に如来系の法衣という珍しいものといい、行基作と伝承されてきたが、平成4年の解体修復の際、胎内墨書から室町時代の天正10年(1582年)作と判明した(笠間市指定文化財)。
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雨引山 楽法寺

2018-11-17 23:25:09 | 寺院
雨引山 楽法寺(あまびきさん らくほうじ)。通称:雨引観音。
場所:茨城県桜川市本木1。JR水戸線「岩瀬」駅付近から茨城県道41号線(つくば益子線)を南へ約3.7km進み、茨城県道152号線(雨引観音線)に入る(東へ。角に大きな「雨引観音道」石碑がある。)。道なりに約2.4km、終点が当寺院。駐車場有り。
寺伝によれば、用明天皇2年(587年)、中国(梁)出身の法輪独守居士により開山。現在は真言宗豊山派の寺院で、雨引山(409m)中腹にあり、本尊は延命観音(平安時代前期の作で、八臂という珍しいもの。国指定重要文化財)。坂東三十三箇所観音霊場の第24番札所となっており、桜や紫陽花の名所でもある。第33代推古天皇の病気平癒により勅願寺とされ、第45代聖武天皇・光明皇后は安産祈願のため法華経を書写して納め、第52代嵯峨天皇は弘仁12年(821年)の大旱魃に当たり降雨を祈願して霊験があったことから「雨引山」との山号を賜ったという(それ以前は「天彦山」という山号だったとか。)。その後、鎌倉幕府第6代将軍・宗尊親王、室町幕府初代将軍・足利尊氏により再興された。徳川家康からは朱印地150石の寄進を受け、真言宗新義門流関東談林として10万石の格式を称するようになったとされる。現在では、雨乞いよりは、厄除け・安産・子育てに御利益がある寺院として多くの参拝者を集めている。


雨引観音のHP

桜川市のHPから(雨引観音)


写真1:「雨引山 楽法寺」寺号石碑。ここから更に少し上る。


写真2:薬井門(通称:黒門)。「真壁城」の城門だったもので、今も刀疵が残っているという。雨引山一山はかつて26坊・末寺6ヶ寺・門徒43ヶ寺あり、「楽法寺」はその本山(別当寺)で、薬井門が表門として本山の権威の象徴であったという。


写真3:磴道(とうどう)。145段の石段で、一段上るごとに「南無観世音菩薩」と唱えると、登り終えたときに厄が落ち長命になるのだとか。


写真4:仁王門(茨城県指定文化財)


写真5:本堂(観音堂)


写真6:多宝塔。元は光明皇后が建立した三重塔で、嘉永6年(1853年)に多宝塔として再建されたもの。


写真7:地蔵堂。通称:子安地蔵として、安産・子育て祈願の参拝者が多いという。


写真8:東照山王権現宮。元は東照権現と山王権現を別々に祀っていたが、享保12年(1727年)に合祀されたものという。真言宗寺院で山王権現社は珍しいと思うが、毎年4月には「マダラ鬼神祭」(「摩多羅神」(天台宗玄旨帰命壇の本尊)を祀る祭礼)も行われており、元は天台宗の時期があったのではないかと思われる。
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大國玉神社(茨城県桜川市)(常陸国式内社・その11)

2018-11-10 23:01:09 | 神社
大國玉神社(おおくにたまじんじゃ)。
場所:茨城県桜川市大国玉1。茨城県道148号線(東山田岩瀬線)から「大国小学校」の北側の狭い道路に入り(火見櫓?があるところから西へ)、約200m。駐車場有り。
社伝では養老年間(717~724年)の創建とするが、一説に天長年間(824~834年)ともいう。六国史においては、「続日本後紀」の承和4年(837年)の記事に、「新治郡佐志能神」とともに「眞壁郡大國玉神」が「特に霊験があった」として官社に預かる、とある。また、同じく承和12年(846年)の記事では常陸国の无位(無位)「大國玉神」に従五位下の神階が授けられている。その後、「日本三代実録」貞観3年(861年)に「常陸国従五位下主玉神」が従五位上に昇叙の記事があり、これも当神社のこととする説がある。ただし、現・茨城県桜川市の式内社「鴨大神御子神主玉神社」(2018年8月25日記事)のことなどとする説もあり、確実ではない。とはいえ、「延喜式神名帳」に真壁郡鎮座の小社として登載された「大國玉神社」に比定される「式内社」となっている。
現在の主祭神は「大国主命」で、「武甕槌命」と「別雷命」を配祀する。近世までは「鹿島大明神」とも呼ばれており、東に「男体宮」、西に「女体宮」があったとされるが、明治期に入り「男体宮」のみとなったという。「大国玉」といえば、武蔵国総社「大國魂神社」が想起されるが、要するに国土開発の神を祀った、ということだろう。そこで、祭神は「大国主命」ということになるのだが、常陸国においては「武甕槌命」が国土開発の神というイメージがあり、「鹿島大明神」と呼ばれたらしい。因みに、当神社は「新治郡衙跡」(2018年8月4日記事)の南東約3km(直線距離)のところにあって、近い(なお、古代「真壁郡」は7世紀後半頃に「新治郡」から分離・独立したとされる。)。「常陸国府跡」へは南東約23km(同)離れている。上記の式内社「佐志能神社」は、論社が4つあるがいずれも「豊城入彦命」を主祭神としている(2018年9月15日記事ほか)。「豊城入彦命」は東国平定の功労者として上野国二宮「赤城神社」や下野国一宮「宇都宮二荒山神社」などでも主祭神として祀られており、「新治廃寺跡」(2018年8月11日記事)などをみると、下野国(現・栃木県)方面との結びつきが深い。とすれば、少なくとも現・茨城県西部は、西から国土開発が進んできたのだろうと思われる。


茨城県神社庁のHPから(大國玉神社)


写真1:「大國玉神社」鳥居と社号標「式内 □(郷?)社 大國玉神社」


写真2:境内。広くはないが、清浄な感じが好ましい。


写真3:拝殿


写真4:境内の社号石碑


写真5:本殿
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笠間稲荷神社

2018-11-03 23:08:50 | 神社
笠間稲荷神社(かさまいなりじんじゃ)。別名:胡桃下稲荷、紋三郎稲荷。
場所:茨城県笠間市笠間39。国道355号線「荒町角」交差点から東に約240m。駐車場は、「荒町角」交差点から東へ150mの「高橋町」交差点を左折(北へ)して直ぐのところから境内に入る(無料)。
社伝によれば、白雉2年(651年)の胡桃(クルミ)の大樹の下に創建されたという。しかし、どの「稲荷神社」から勧請されたかは不明。「常陸国風土記」に「笠間」という村のあることが記されているが、「稲荷神社」のことは触れられていない。現在の祭神は宇迦之御魂神(ウカノミタマ)で、「日本三大稲荷」の1つとされ、茨城県内では初詣客が最も多いことで知られる。「日本三大〇〇」の大方の例に漏れず、全国約3万社の「稲荷神社」の総本宮とされる山城国式内社(名神大)「伏見稲荷大社」(現・京都市伏見区)は決まりとして、ほかの2つは諸説あるが、神道系では当神社と「祐徳稲荷神社」(現・佐賀県鹿島市)が有力。なお、「豊川稲荷」(曹洞宗「円福山 豊川閣 妙厳寺」、現・愛知県豊川市)、「最上稲荷」(日蓮宗「最上稲荷山 妙教寺」、現・岡山県岡山市)は仏教系である。
社伝の創建時期は古いが、その後、近世までの沿革は不明。江戸時代になると、「稲荷神社」は本来の農業の神だけではなく、殖産興業の神として商家や武家まで信仰を集めるようになり、江戸名物として「火事、喧嘩、伊勢屋、稲荷に犬の糞」という言葉があるくらい、江戸の町には「稲荷神社」が多かった。今でも大企業のビルの屋上とかにも祀られているのを見かける。当神社については、まず歴代の笠間藩主が篤く信仰した。笠間から転封になった大名も新たな領地で分霊を祀るなどして、「笠間稲荷神社」の名を広めた。こうして、少なくとも関東地方では、「稲荷神社」といえば、まず当神社の名が挙がるようになったのだろうと思われる(東京では「王子稲荷神社」(現・東京都北区)の方が有名だろうか?)。


笠間稲荷神社のHP

茨城県神社庁のHPから(笠間稲荷神社)


写真1:「笠間稲荷神社」境内入口の大鳥居。東日本大震災により花崗岩製の鳥居が損壊したため、2016年に建立されたもの。鉄骨造で高さ約10m。


写真2:東門。文化13年(1816年)再建。


写真3:楼門(「萬世泰平門」)


写真4:万葉歌碑。表面に「春へ咲く 藤の葉末の うら安に さ寝る夜そなき 児ろをし思へば」(「万葉集」第14巻3504)、裏面には「父母が 殿の後方の ももよ草 百代いでませ 我が来るまで」(同第20巻4326)の歌が刻されている。境内の「大藤」(樹齢約400年)と「笠間の菊まつり」に因んだものという(「ももよ草」は野路菊(ノジギク)のことだとされる。)。


写真5:拝殿


写真6:本殿。江戸末期のもので、国の重要文化財。彫刻がすごい。
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