神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

鳥海山大物忌神社 吹浦口之宮

2014-09-20 23:57:34 | 神社
鳥海山大物忌神社 吹浦口之宮(ちょうかいさんおおものいみじんじゃ ふくらくちのみや)。
場所:山形県飽海郡遊佐町大字吹浦字布倉1。JR羽越本線「吹浦」駅の北、約500m。駐車場有り。
「鳥海山大物忌神社」(出羽国式内社「大物忌神社」)は、前項に書いたように元々は「鳥海山」そのものを神としていたが、神仏混淆して薬師如来を本地仏とする「鳥海山大権現」と称されるようになり、修験道の聖地となった。そして、その登山口毎に登拝修行者の先達となる拠点が置かれたが、それぞれに宗派が異なっていた。基本的には天台宗系の本山派と真言宗系の当山派の2つに分かれるが、「吹浦」宮の別当「神宮寺」の場合、天台宗系→真言宗系→天台宗系という宗派替えがあったらしく、また、「神宮寺」として神社への奉仕という性格が強かったせいか、他に比べと修験色は弱かったらしい。宗坊は25坊であったが、ほかに社家3家・巫女1家があったという。「吹浦口之宮」の社伝によれば、景行天皇の時代に「大物忌神」が出現し、神社の創建が欽明天皇25年(564年)とするのは他の宮と同じだが、大同元年(806年)に山麓の「吹浦」に遷座したとする。山頂の「権現堂」(または「薬師堂」、現在の「御本社」)よりも、山麓で祭祀を行うことを重視するのは、そのせいだろう。また、貞観6年(864年)、東北地方から五色の光が放たれていることを見た慈覚大師(円仁)が訪ねてきたが、悪鬼が「鳥海山」に登るのを妨げたので、これを退治し、登山道を開いたという開基説話もある。なお、祭神として「大物忌大神」とともに「月山神」(祭神:月読命)も祀っているのが「吹浦」宮の特徴で、「出羽国一宮両所大菩薩」とも称した、という(このことは「月山神社」の項で書きたい。)。
江戸時代には、「蕨岡」宮が「鳥海山」山上の薬師堂(現在の「山頂御本社」)を支配して「出羽国一宮」を称し、「吹浦」宮を末社扱いにしていた。しかし、明治時代になって神仏分離令が出されると、「吹浦」宮は逸早く仏教(修験)色を廃棄し、明治4年に「大物忌神社」として国幣中社に指定された。その後、明治14年に山頂の宮を国幣中社とし、山麓の「吹浦」・「蕨岡」の2つの宮を摂社の「口之宮」とする再指定が行われた。昭和30年に、この3社を総称して現在の「鳥海山大物忌神社」というようになったが、修験色が無くなった現在では、「吹浦口之宮」が最も交通の便も良いことなどもあり、実質的に全体の社務所となっているようである。


「鳥海山大物忌神社」のHP

「やまがた庄内観光サイト」のHPから(鳥海山大物忌神社吹浦口ノ宮)

玄松子さんのHP(鳥海山大物忌神社(吹浦口之宮))


写真1:「鳥海山大物忌神社 吹浦口之宮」参道入口の一の鳥居と社号標


写真2:二の鳥居


写真3:講務所。石碑には「国幣中社大物忌神社 摂社式内月山神社 御濱出神事斎場」とある。向って左にかなり急な石段があり、社殿はその上だが、登れない場合はここで参拝しても良いらしい(「下拝殿」ともいう。)


写真4:拝殿


写真5:拝殿の背後に2つの本殿がある。向って右が大物忌大神、左が(摂社)月山大神


写真6:本殿は朱塗り
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鳥海山大物忌神社(出羽国式内社・その1)

2014-09-06 23:38:16 | 神社
鳥海山大物忌神社(ちょうかいさんおおものいみじんじゃ)。
場所:山形県飽海郡遊佐町大字吹浦字鳥海山1(「鳥海山」山頂)。登山ルートはいくつもあるが(鳥海国定公園観光開発協議会のHPでは9つの登山口が紹介されている。)、最も初心者向けとされるのが「象潟口(鉾立)ルート」。国道7号線から「鳥海ブルーライン」に入り、鉾立駐車場(5合目:1,150m)から登山道を約4時間半歩く。
社伝によれば、景行天皇の御世(71~130年?)に出羽国に「神」が出現し、欽明天皇25年(564年)に「鳥海山」山上に鎮座したとする。祭神は「大物忌大神」であるが、この神は「記紀」には登場しない。「大物忌」というのは清浄を保つことを意味するとし、通説では倉稲魂命(ウカノミタマ)または豊受姫命(トヨウケヒメ)と同一神とする。古くから(ヤマト政権の支配が及ぶ前から)五穀豊穣の神として信仰され、後に北辺の神として国家守護の神となったらしい。「鳥海山」(2,236m)は現在も活火山とされているが、6世紀後半から8世紀初めにかけて盛んに噴火しており、それを鎮めるために祀られたともいう。噴火は戦乱の予告とされたほか、「続日本後紀」によれば石鏃を降らせたり、海賊に襲われた遣唐使船を助けたり(その根拠が不明だが)といった神威を現したとされ、噴火のたびに神階が上がり、「本朝世紀」天慶2年(939年)条の時点で既に正二位勳三等という極めて高い神階を受けていた。
ところで、「鳥海山」という山名が何時頃から使われていたか、また、山名の由来も、よくわかっていないらしい。古代には専ら「大物忌神」と呼ばれており、鳥海山自体が信仰の対象であったことがわかる。「日本三大実録」貞観13年(871年)の条に「従三位勲五等大物忌神社在飽海郡山上。巌石壁立。人跡稀到」とあって、一般に、このときには既に鳥海山山頂に神社があったとされる。ただし、原文には句読点は無いから、「大物忌神社は飽海郡の山上に在り」ではなく、「大物忌神社は飽海郡に在り、山上は巌石が壁立し、・・・」と読むことも可能。個人的には、後者の読み方のほうが良いように思う。小祠くらいはあったかもしれないが、冬には雪で道が閉ざされ、参拝などできない(現在でも10月下旬~4月下旬まで冬季閉鎖)。よって、常設の神社は山麓にあったと思う。そもそも山自体が信仰の対象なのだから、敢えて山上に神社を建てる必要はないのではないだろうか。
「延喜式」神名帳では、出羽国9座(9社)のうち、「月山神社」と並び「名神大」社とされている。また、出羽国では最も神階の高い神社で、出羽国一宮とされることに異論はない。ただし、中世以降は神仏混淆し、特に修験が隆盛して「鳥海山大権現」と称され、「薬師如来」が本地仏とされた。近世には、山麓(登山口)での祭祀に宗派の争いなどが絡んで紛争が生じ、山頂の当神社が出羽国一宮と定められた経緯がある(別項で書く予定)。現在では、「鳥海山」山頂の「御本社」と、山麓の「吹浦」・「蕨岡」の2つの社を「口之宮」として、3社一体で「鳥海山大物忌神社」となっている。


遊佐鳥海観光協会のHPから(鳥海山大物忌神社)

鳥海国定公園観光開発協議会のHPから(鳥海山登山ガイド)

玄松子さんのHPから(鳥海山大物忌神社)


写真1:「鳥海山」7合目の「鳥ノ海」(鳥海湖)。「鳥海山」噴火によってできたカルデラ湖で、湖面標高1,575m、満水時面積0.7ha、最大水深3m。「鳥海山」の名の由来になったともされる。


写真2:「鳥ノ海」の少し上にある「御浜神社」(御浜小屋)


写真3:山頂付近の「鳥海山大物忌神社」鳥居。登り口の駐車場では晴れていたのだが、登山中は殆ど霧。


写真4:「鳥海山大物忌神社」社号標


写真5:同上、社殿。背後に最高峰「新山」があり、登山者は神社前にザックをデポして登る。


写真6:「鳥海山大物忌神社 中の宮」。「国民宿舎 大平山荘」(鳥海ブルーライン四合目)に隣接。昭和49年に噴煙が上がったため全山入山禁止となり、「鳥海山」中腹に造営された「中の宮」に一時遷座したという。
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