神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

常陸国の古代東海道(その3・曾禰駅)

2022-03-26 23:32:00 | 古道
「延喜式」(平安時代中期)に記載された、古代東海道の常陸国に入って2番目の駅家は「曾禰(そね)」駅になる。そして、その先は終点の「常陸国府」(現・茨城県石岡市)なので、結局、常陸国の駅家は「榛谷」駅(2022年1月22日記事)と「曾禰」駅の2つだけとなる。ただし、「常陸国府」から陸奥国や下野国に向かう連絡道もあったので、「常陸国府」内に駅家機能もあったと考えられている。
「曾禰」駅の所在地は、まだ確定されていない。遺称地もないので比定が難しいが、「そね」というのは自然堤防を指す地形地名とされていることもあり、通説は現・茨城県土浦市上高津付近とする。ここは現・霞ケ浦の西浦に注ぐ桜川の右岸(南岸)に当たり、標高20~22mの台地上に縄文時代後期~晩期の集落跡があって、「上高津貝塚」として国指定史跡に指定されている。現在は「上高津貝塚ふるさと歴史の広場」として公園化されていて、「考古資料館」も併設されている。貝塚は、明治時代に表面採取資料で知られるようになり、昭和5年以降、発掘調査等が行われてきた。貝層は1~1.5mの厚さで、淡水産のシジミを主体として、ハマグリ・アサリ・カキなど海水産を含む。つまり、この辺りが桜川の河口であり、巨大な内海だった所謂「香取海」に注いでいたと思われる。公園内に、貝層の断面が展示されているほか、縄文時代の竪穴住居や掘立柱建物等が復元されている。貝塚のほか、土偶・腕輪・製塩土器なども出土しているが、集落区域については、未発掘のままとなっている。
さて、当地付近が「曾禰」駅の所在地と推定されているのは、上記の通り、「そね」という地形(桜川の自然堤防である台地)、前後の駅家推定地との距離などの理由によるが、他に、「上高津貝塚ふるさと歴史の広場」の西端を南北に通る通称「鎌倉街道」の存在も挙げられる。「鎌倉街道」は、有事(「いざ鎌倉」)の際に、各地から鎌倉幕府があった現・神奈川県鎌倉市に向かう古道の総称で、当地のもその1つの可能性がある。この道を北に向かうと、平安時代に開基の伝承があり、鎌倉時代に栄えた「龍王山 釈迦院 般若寺」(次項予定)の前を通ることから、古代にまで遡る可能性があるとされている。
なお、「常陸国風土記」行方郡条に、「曾尼(そね)」駅家についての記述がある。かつては、これが「曾禰」駅家と同じものかどうかについて、説が分かれていた。それによって想定ルートが大きく変わってくることになるのだが、現在では「曾禰」駅と「曾尼」駅は別地であることが通説になっている(「曾尼」駅については、いずれ書きたいが、かなり先になりそう。)


「上高津貝塚ふるさと歴史の広場」のHP

文化遺産オンラインのHPから(上高津貝塚)


写真1:「上高津貝塚ふるさと歴史の広場」内の「土浦市立考古資料館」


写真2:同上、「上高津貝塚」


写真3:同上、貝塚の地層の断面


写真4:同上、竪穴住居など(復元)


写真5:同上、「鎌倉街道」と称される道。江戸時代末の絵図に、土浦藩の巡検路として記載されているが、古代まで遡る可能性があるとされる。
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羽黒山 今泉院 大聖寺

2022-03-19 23:33:03 | 寺院
羽黒山 今泉院 大聖寺(はぐろさん こんせんいん だいしょうじ)。通称:土浦大師不動尊。
場所:茨城県土浦市永国203。国道354号線「東小学校下」交差点から北東へ約220m。駐車場あり(境内入口から山門横に進んだところ。)。
寺伝によれば、長徳元年(995年)、京都「醍醐寺」の成尊僧都により「今泉寺」として現在地の東、約500mのところに創建された。応安7年(1374年)、当地を治めていた小田城主・小田孝朝が、城の守りとして定めた「小田領常陸四箇寺(普門寺、大聖寺、法泉寺、南円寺)」の1寺となり、現・茨城県つくば市西平塚に移されたが、その際に「大聖寺」と改めた。小田家滅亡前の大永6年(1526年)には現在地に戻り、貞享2年(1685年)には堂宇を焼失したが、同年、土浦城主・松平信興が山門を寄進するなどし、貞享4年(1687年)には再建された。延享2年(1745年)には門末合わせて160ヶ寺を擁する檀林所格の本寺として大名と同格の格式を持つ寺院として栄え、伝法灌頂道場も開設した。しかし、文久3年(1863年)には再び本堂など伽藍が焼失、そのまま明治維新を迎え、ようやく再建されたのは昭和60年になってからという。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は大聖不動明王。北関東三十六不動尊霊場第31番札所となっている。なお、本尊については、運慶作とされる不動明王を火災で失って以来、大日如来を本尊としてきたが、新本堂落慶を機に再び不動明王(室町時代の作とされる。土浦市指定文化財)を本尊に戻し、大日如来は背後の宮殿に納めて「奥本尊」とした(因みに、不動明王は大日如来の化身とされる。)。この大日如来(胎蔵界)は、解体修復の際に頭部裏面の墨書から江戸幕府第5代将軍徳川綱吉のために惣検校・三嶋安一によって造立されたものであることが判明したという。
さて、当地(土浦市永国)は、元は信太郡永国村で、花室川左岸(北岸)の微高地に当たり、縄文時代~古墳時代頃の集落跡が多く発見されている。伝承では、日本武尊が東国平定のためにやって来たとき、上総国に渡るときに荒れた海に身を投げた妻の弟橘媛の霊を慰めるため、現在の「大聖寺」付近に「吾妻神社」を建立し、大和から従ってきた役人に「瑞穂の国として永く治めるように」と命じたというのが「永国」という地名の由来とされる。明治22年には、永国村は中村・右籾村等と合併して信太郡東村の一部となったが、村名は「吾妻神社」に因んで東村と名付けられた。その後、「吾妻神社」は「日先神社」(2022年3月5日記事)に合祀されたという。「日先神社」のある現・土浦市右籾から北西に少し進めば現・国道6号線(水戸街道)に接続し、そこで方向転換して北東へ向かうと、花室川手前で国道6号線と同354号線に分かれるが、国道354号線はほぼ直線的に現・土浦市街地に入っていく。古代官道が通っていた場所に日本武尊の伝説が残るケースが多々あり、あるいは当地付近を古代東海道が通っていた可能性があるのかもしれない。


「土浦大師不動尊 大聖寺」のHP



写真1:「大聖寺」参道入口、寺号標(「常陸四箇寺 大聖寺」)。自動車も、ここから中へ。


写真2:境内入口、寺号標(「土浦大師不動尊 羽黒山大聖寺」)


写真3:山門。「参詣者下車処」とあるが、第一駐車場は向かって右へ、第二駐車場は左で進む。第二駐車場の方が、寺務所・本堂に近い。山門は貞享2年(1685年)、土浦城主・松平信興が寄進したものという。土浦市指定文化財。


写真4:大師堂。山門の向かって左側の小高いところにある。


写真5:四脚門。応安2年(1369年)建立のものとされ、これも土浦市指定文化財。


写真6:「大杉殿(大杉神社)」。現・茨城県稲敷市の「大杉神社」の分祠。なお、境内には他に、稲荷祠と弁財天祠がある。


写真7:「大聖寺のカサマツ(笠松)」。土浦市指定名木。


写真8:水掛不動尊。本尊のお前立ちとして、まずこの石仏に水をかけて祈願し、その後、本堂に参詣するとよいとのこと。


写真9:本堂(大聖殿)


写真10:護摩堂。文久3年(1863年)に本堂を焼失したときに、古材を使って仮本堂として建立されたもの。昭和60年に現・本堂が完成した後、護摩堂となった。


写真11:平和観音(上)と羽黒権現(台座)。本堂の東、境内で最も高いところ(「羽黒山」と称する。)にある正観世音菩薩(羽黒権現の本地仏)のブロンズ像と、当寺院の鎮守・羽黒権現(石造)。
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鹿島神社(茨城県土浦市右籾)

2022-03-12 23:31:37 | 神社
鹿島神社(かしまじんじゃ)。通称:右籾神社。
場所:茨城県土浦市右籾1897。茨城県道48号線(土浦竜ケ崎線、バイパスではない方)と国道125号線(阿見美浦バイパス)の交差点から、県道を南へ約230m。駐車スペース有り(境内)。
社伝によれば、当地は古くは「志多の里」と称し、「右籾二郎」という名の部族長が支配していた。天慶元年(938年)に悪疫が流行したとき、部族長・右籾が「馬場」に神床を設け、天神・地神に毒気払いを祈願した。暁の頃に饒速日神(ニギハヤヒ)が降りて「速やかに鹿島大神宮に誓願すべし」との霊告があったため、常陸国一宮「鹿島神宮」(2017年10月7日記事)に参籠し、分霊を奉持して帰村。各家で修祓したところ、忽ち悪疫は収まった。翌年、社殿を建立し、祭事には「鹿島神宮」から禰宜を招き、その後、その子孫が代々神職を務めたという。明治15年に村社に列格、昭和24年には火災により社殿焼失、昭和26年再建。現在の祭神は、武甕槌命。
当神社の社伝によれば、当地の地名である「右籾」は悪疫退散に功績のあった部族長の名を採ったことになっている。一方、同じ右籾の「日先神社」(前項)の社伝に登場する「鹿島神社」宮仕・宮本権太夫は、当神社の神職だったと思われる。当神社の社伝では源義家らには言及が無いが、常陸国では国土開発の神として鹿島神(武甕槌命)が他国の大国主神の役割を果たしており、古代官道の要所に鎮座していることも多い。当神社の西側の道路を南下すると、現・自衛隊土浦駐屯地北門に突き当たる。道路はそこから東に進むのだが、北門から更に南に線を引くと、概ね直線的な字境となり、茨城県阿見町から北西に伸びる直線的な道路(字境でもある)にぶつかる。逆に、当神社の西側の道路を北へ向かうと、これが茨城県道48号線(土浦竜ケ崎線)で、現・土浦市市街地に至る。途中に「小松」という町名があるが、これは「駒津」から変化したもので、古代官道に関連しているとする説がある。こうしたことから、当神社の近くを古代東海道が通っていた可能性もあるのではないかと思われる。


写真1:「鹿島神社」鳥居


写真2:社殿


写真3:由緒碑


写真4:境内社。「八幡神社」と思われる(祭神:誉田別命)。


写真5:石碑。梵字の板碑(多分、不動明王の種字)と思われる。
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日先神社(茨城県土浦市)

2022-03-05 23:36:01 | 神社
日先神社(ひのさきじんじゃ)。
場所:茨城県茨城県土浦市右籾2202。茨城県道48号線(土浦竜ケ崎線)「阿見住吉」交差点から北東へ約850m、スーパーマーケット「スーパーまるも まりやま店」角の交差点を左折(北へ)、約180m。駐車場有り。(「スーパーまるも」は、2021年4月に「クスリのアオキ」に事業承継されたので、業態・店名等が変更になっている可能性があります。)
社伝によれば、天喜5年(1057年)、源頼義・義家父子が奥州の安倍貞任征伐のため軍勢を引き連れて向かう途中、当地で父子が同じ霊夢を見て、賊徒征伐の祈願を行ったのが始まりという。即ち、父・頼義は「西峰山 高野寺」に、子・義家は志太(信太)長者宅を陣所としたが、その夜、それぞれの枕頭に神が現れて「我汝を待つこと久し、今汝に力を添へん、必ず賊を平らげ名を天下に輝かさん。」という御告があった。翌朝、父子が同じ夢を見たことを不思議に思い、「高野寺」長老や志太長者に尋ねたが分からず、「鹿島神社」の宮仕・宮本権太夫に聞くと、「それこそ鹿島・香取・息栖の三神なり」と言うので、「日先峯(ひのさきのみね)」に丸太4本を並べ、四方に青竹注連を張って、賊徒平定の祈願祭を厳修した。翌年の康平元年(1058年)、社殿を建立し、「丸四天権現宮」として武甕槌命(タケミカヅチ)、経津主命(フツヌシ)、衝立船戸大神(ツキタテフナト)の3神を祀った(それぞれ「鹿島神宮」(2017年10月7日記事)、「香取神宮」(2012年3月3日記事)、「息栖神社」(2017年12月2日記事)の主祭神)。康平6年(1063年)には、頼義・義家父子が征奥からの帰途、甲冑・県・弓等を奉納した。中家郷信太庄の鎮守として崇敬され、近世には「摩利支天権現」と称していたが、明治4年に「日光神社」、明治5年に「日先神社」と改めた。また、同年、右籾・摩利山新田・中村・中村西根・乙戸・荒川沖・荒川本郷・沖新田の8ヶ村の村社に列格した。因みに、「摩利支天」は、元はインドの神で、仏教の守護神として取り入れられて日天の眷属となったものである。梵語で「マリチー」、意味は陽炎(かげろう)とされる。「摩利支天」は常に太陽の前を進み、実体がないため傷つけられることがない。こうしたことから、中世以降、楠木正成、毛利元就、前田利家などといった武将らが信仰した。なお、当神社は茨城県阿見町にあった霞ケ浦海軍航空隊基地に近かったので、戦時中は戦勝祈願・生還祈願などが盛んであったという。
さて、当神社で注目されるのは、源義家及び信太長者に絡む創建伝承である。常陸国では、源義家が奥州征伐の折に長者宅に泊まり、盛大なもてなしを受けたが、これを却って脅威に感じて焼き討ちにしてしまうという伝承が多いのだが、このような伝承のあるところに古代官道の駅家比定地が多く、長者というのが駅長の後身ではないかという説に繋がっている(例:「一盛長者」など。「台渡里官衙遺跡群」(2019年3月16日記事)参照)。当地の長者は焼き討ちに遭っていないが、仮に古代東海道が現・阿見町飯倉字向坪辺りから方向転換して西へ向かうと、ちょうど旧・霞ケ浦海軍航空隊基地=現・陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地の南側を通る(直線的な行政界がある。)。「右籾(みぎもみ)」という地名は珍しいと思うが、一説には、昔、日本武尊が当地を訪れた際、黄色に光る塚を見て、何かと問われたとき、稲の籾を積み上げた「籾塚」であると村人が答えたので、「籾塚」という地名になったという。現在も、右籾の北端、花室川右岸に「籾塚」という小字が残っているようであり、「籾塚橋」という名の橋が架かっている。「籾塚」というのは、籾を塚のように積み上げることができるような(裕福な)長者の存在を示すものであり、この辺りも古代東海道の「曾禰」駅家の候補地かもしれない。因みに、当地から「土浦城」を越えてかなり先になるが、現・土浦市中貫には「龍開長者」の伝説がある。龍開長者は、元は修験者だったが還俗して長者になったという。前身は駅長だったともされており、旧・日立電線東山アパートの場所(現・土浦市板谷7丁目)に館があり、元は土塁や堀が巡らせてあったとされる。龍開長者の方は、他所の伝承のように、源義家に焼き討ちにあったといわれている(なお、「中根長者の屋敷跡」(2020年7月11日)も参照。)。


写真1:「日先神社」境内入口。向かって左手に駐車場がある。


写真2:大きな社号標


写真3:鳥居


写真4:狛犬と拝殿。桜の木などが覆いかぶさってきている。


写真5:拝殿正面


写真6:拝殿前に御神木の杉(南西側から見る。)


写真7:拝殿・本殿(南東側から見る。)


写真8:裏参道の鳥居。台地の下の谷に下りる。


写真9:裏参道前にある「日先神社 御手洗池の跡」石碑。台地下に泉が湧いていたのだろう。
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