神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

佐志能神社(茨城県石岡市染谷)(常陸国式外社・その5の1)

2018-09-29 23:58:42 | 神社
佐志能神社(さしのじんじゃ)。同名の神社と区別して通称:染谷佐志能神社。
場所:茨城県石岡市染谷1856。「常陸風土記の丘公園」の東北角の交差点から北へ、約450m。「石岡市営龍神山霊園」入口の手前。駐車場なし。社殿までは境内入口から約200m徒歩で上る。
当神社の創建時期は不明。第10代崇神天皇の皇子・豊城入彦命(トヨキイリヒコ)が東国鎮定の大功があり、その子孫が東国の国造に任命されることが多く、玄孫荒田別命の子・佐白公が新治国造に任ぜられたとき、祖神を鎮斎した(「佐志能」は「佐白」の転訛)ともいう。古くから「龍神山」(196m)に祀られて「龍神社」とも称され、雨の神として信仰された。現在の祭神は豊城入彦と高龗神(タカオカミ)。豊城入彦及びその子孫の事蹟はともかく、高龗神は龍神で、元は素朴な山の神、雨の神の信仰があったのだろうと思われる。社殿の横にある「屏風岩」には「風神の穴」と呼ばれる穴があって、この穴に指を入れると、雷鳴がなるまで抜けなくなってしまうという伝説があり、夏になると、ここから黒雲がまき起こって雷神が現れ雨を降らせるという。
常陸国新治郡の式内社「佐志能神社」の論社とされるが、当地は近世には「新治郡」に属したものの、古代には「茨城郡」域となるため、現・茨城県笠間市の「佐志能神社」(2018年9月15日記事)の方が有力とされている。一方、「日本三代実録」仁和元年(885年)の記事に「常陸国の従五位上羽梨神に正五位下、従五位下村上神に従五位上を授ける。」という記事があり、当神社を「羽梨神」(常陸国茨城郡の式内社「羽梨山神社」)、または「村上神」に当てる説がある。「羽梨山神社」は別にあり(別項で書く予定)、「村上神」の方はかなり有力(というより、ほぼ通説だろう。)。実は、当神社は元々「村上村」にあったが、「染谷村」を分村した際、当神社が「染谷村」の中に入った、という事情があるとのこと。


石岡市のHPから(染谷佐志能神社と十二座神楽)

石岡市観光協会のHPから(佐志能神社 染谷)


写真1:「佐志能神社」境内入口の鳥居


写真2:参道石段途中の鳥居


写真3:社殿


写真4:社殿横は岩壁になっている。これが「屏風岩」だろうか。「風神の穴」は不明。


写真5:斜面に祀られた境内社


写真6:社殿前。石碑と懸け樋があり、池のようになっているが、水はなかった。
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大黒石

2018-09-22 23:04:05 | 名石・奇岩・怪岩
大黒石(だいこくせき)。
場所:茨城県笠間市笠間。「笠間城跡」の「千人溜駐車場」入口の手前(北西)約200m(「笠間城跡」については、前項「佐志能神社」2018年9月15日記事参照)。駐車場なし。
笠間市街地から「笠間城跡」に向かって坂道を上っていくと、道路脇に巨大な石が現れて、びっくりする。この石が「大黒石」と呼ばれるもので、次のような伝説がある。「佐志能神社」(前項)で書いたように、「笠間城」があった「佐白山」には元々「正福寺」という寺院があり、百余の僧坊があった。この「正福寺」と七会村(現・茨城県城里町)の「徳蔵寺」との間で宗門争いが生じ、ある時、「徳蔵寺」の僧兵たちが大挙して押し寄せ「正福寺」を攻撃した。不意打ちにあった「正福寺」側が山頂近くに追い詰められたとき、山頂にあった巨石が突然動き出し、「徳蔵寺」の僧兵たちを追い散らした。これによって「正福寺」は何とか難を逃れることができた。元々、巨石は2つ並んでいて、1つが「大黒天」の姿、もう1つが「大黒天」が担ぐ袋に似ていた。転がり落ちたのは「袋」に似た石の方で、「大黒天」に似た石の方は、いつの間にか消えてしまったという。ところで、「大黒天」は本来、インドの神で破壊神である「シヴァ」の化身「マハーカーラ」。「マハー」が「大きい」、「カーラ」が「暗黒」を意味し、仏教に守護神として取り入れられると「大黒天」になった。「マハー」は「宇宙」、「カーラ」は「時間」や「生死」を表すともいわれ、「死神」・「地獄の神」のような存在だった。それが日本に伝わると、「大国主命」と習合し(同一視させたのは弘法大師(空海)だという説もあるが、根拠は無いようだ。)、福神となった。背負っている袋には宝物が入っていると考えられたらしい。「大黒天」が福神になったのは平安時代末期から中世と思われるので、仮に上記のような出来事が本当にあったとしても、これが「大黒石」と呼ばれるのは後世のことではなかっただろうか。
さて、「佐白山」は、ネットでみると心霊スポットとして有名らしい(怖いので、深く立ち入らない。)。しかし、この「大黒石」は「大黒天」に所縁があるということで、幸運をもたらすものとしての伝承もある。「大黒石」に小さな窪みがあって、これを「へそ」というが、これに3回続けて小石を投げ入れることができれば(ただし、その際に、既に入っている石を落とすと無効)、幸運が訪れるという。


笠間市のHPから(大黒石のいわれ)

佐白山 正福寺のHP


写真1:「大黒石」。幅約5m、高さ約3m。


写真2:山側(写真1の裏側)に窪み(「へそ」)がある。


写真3:「笠間城跡」大手門跡の前の駐車場(「千人溜り」)の向かい側にある「笠間百坊旧跡」石碑


写真4:写真3の石碑の後ろの小道を上ったところ。石塔や卒塔婆がある。
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佐志能神社(茨城県笠間市)(常陸国式内社・その10)

2018-09-15 23:01:17 | 神社
佐志能神社(さしのうじんじゃ)。
場所:茨城県笠間市笠間3613。国道355号線「荒町角」から東に進み(途中に「笠間稲荷神社」がある。)、突き当りを左折(北へ)して直ぐ右折(東へ。「佐白山→」の案内標識あり)、約850m進んで右折(「→笠間城跡)の案内柱あり)、約350mで「笠間城跡」の駐車場。そこから徒歩で「佐白山」山頂へ約5~10分。
当神社の創建時期は不明。伝承によれば、白雉年間(650~654年)には「佐白山」(182m)に「佐志能神社」と「三白山 三白寺」(現・「佐白山 正福寺(観世音寺)」。同寺の開基は白雉2年という。)があったという。「続日本後紀」承和4年(837年)に「常陸国新治郡の佐志能神と真壁郡の大国玉神が官社に預かる。この年、特に霊験があったためである。」という記事がみえる。また、「延喜式神名帳」に新治郡小社として登載されている(所謂「式内社」)。なお、現在、「佐志能神社」を名乗る神社が当神社を含め4社あるが、他の3社はいずれも現・石岡市にあり、古代「茨城郡」域に当たるため、当神社が式内社「佐志能神社」論社の中で最有力とされる。しかし、中世以降、いろいろ変転があったようだ。
鎌倉時代初期、「佐白山」には「佐志能神社」と「正福寺」の百坊があったという。この「正福寺」と現・茨城県城里村(旧・七会村)の「布引山 徳蔵寺」三百坊とが争いとなった。元久2年(1205年)、「正福寺」側が下野国(現・栃木県)の宇都宮氏に援軍を乞い、「徳蔵寺」勢力を打ち破ったが、結局、双方とも破却された。そして、笠間を領有した宇都宮氏によって「笠間城」が築かれ、「佐白山」山頂(特に「阿武山」と称する。)にあった「佐志能神社」は麓に下され、天守が造られた。宇都宮氏は「宇都宮明神」(下野国一宮「宇都宮二荒山神社」)を「笠間城」内に勧請し、「佐白山権現」・「三白権現」などと呼ばれた。これと「佐志能神社」との混同・混乱が生じたらしく、祭神もよくわからなくなったようだ。その後、笠間城主は目まぐるしく変わったものの、長らく笠間藩の藩庁として機能していたが、明治期に入って廃城令により「笠間城」は廃城となり、その楼閣の材を用いて、元々の鎮座地とされる「阿武山」(「佐白山」山頂)に当神社が「佐志能神社」として再建されたという。現在の祭神は「豊城入彦命」・「建御雷之神」・「大国主神」となっている。「豊城入彦命」は第10代崇神天皇の皇子で、東国の平定に当たったといわれ、下野国一宮「宇都宮二荒山神社」の祭神でもある。「豊城入彦命」の子孫である「佐白公(佐代公)」が茨城国造、あるいは新治国造に任命されたという伝承があり、「佐白公」(「佐志能」は「佐白」の転訛)が新治国と茨城国の境となる「佐白山」に祖神を祀ったともいわれている。
ところで、当神社の背後に「石倉」と呼ばれる、巨石が連なった場所がある。これを「磐座」と捉え、元々は素朴に山の神を祀った、ということはないのだろうか。


笠間市のHPから(笠間城の歴史)

同(笠間城跡)


写真1:「史蹟 笠間城大手門跡」の石碑。ここから徒歩で上る。


写真2:「笠間城跡」石碑。左手奥の石段が旧・天守、「佐志能神社」への道。


写真3:「笠間城天主跡」石碑


写真4:「佐志能神社」前の石段


写真5:「佐志能神社」社殿。当神社周辺は東日本大震災により崩壊の危険があり、立入禁止になっている。


写真6:神社裏手への道


写真7:巨石がゴロゴロ。


写真8:同上。道も花崗岩が風化した真砂土で、滑りやすい。


写真9:神社背後の鎖場
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だいだら坊の背負い石

2018-09-08 23:18:58 | 名石・奇岩・怪岩
だいだら坊の背負い石(だいだらぼうのせおいいし)。
場所:茨城県桜川市平沢。「大神台遺跡」(前項)から道なりに北へ、約1km。「平沢高峯展望台」に行く途中。入口に案内板あり。駐車場なし。
関東地方には「ダイダラボウ」という巨人の伝説が多い(「大串貝塚」2018年7月14日記事参照)。特に、茨城県では「筑波山」と関連付けられた伝説があり、例えば「ダイダラボウが筑波山に縄を掛けて持ち上げたところ、縄が切れて落っこちた。そのとき、山が2つに割れたので、筑波山は男体山と女体山の2峰になった」とか。
「だいだら坊の背負い石」も、そうした伝説の1つで、石造の現地説明板によれば「だいだら坊が背負ってきた巨石の縄がここで切れ、足で蹴って動かそうとしたが動かないので、そのまま置いて立ち去った。巨石には、そのときの縄目と蹴った時にできた足跡が今でも風化せずにくっきりと確認できる」ということである。よく見ると確かに、縄目のような線(浮き彫りだが)と足跡のような窪みがある。説明板では「大神台遺跡」付近に住んでいた人々も、この巨石に神が宿るものとして畏敬の念をもっていだろうとしている。この巨石がいつ頃から知られていたかはわからないが、整備されたのは最近(説明板は平成21年銘)のようで、今もこうした事物が大事にされていることに感銘した。


写真1:「だいだら坊 背負い石」入口


写真2:飛び石と門柱がある。


写真3:「だいだら坊の背負い石」。よく見ると、斜めに線が走っている。


写真4:反対側に回ってみると、こちらにも線がある。石造の説明板も。


写真5:だいだら坊の足跡?


写真6:石祠


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大神台遺跡(大神駅家跡比定地)

2018-09-01 23:47:44 | 史跡・文化財
大神台遺跡(おおかみだいいせき)。大神駅家跡比定地(おおかみうまやあとひていち)。
場所:茨城県桜川市平沢字大神台265ほか。国道50号線と茨城県道257号線(西小塙真岡線)の「羽黒」交差点から県道を北へ(途中、茨城県道289号線(富谷稲田線)との交差点も直進)、約4km。駐車場なし。
「大神台遺跡」は、「常陸国風土記」(ただし、「萬葉集註釈」所収の逸文)に「新治郡の駅家を「大神」というのは、大蛇(おおかみ)が多くいたためである。」とある「大神駅家」跡の比定地とされる史跡(埋蔵文化財包蔵地)である。また、「和名類聚集」によれば、新治郡に「巨神郷」があったとされている。名前の由来はともあれ、おそらく「巨神郷」に「大神駅家」があったのだろう。従来、「大神駅家」跡は現・茨城県笠間市大郷戸付近に比定されてきたが、これは発掘調査によるものではく、「大郷戸(おおごと)」という地名が「大神門」から転訛したものと考えられたかららしい。それが、現・桜川市平沢に「大神台」、「大神東下り」、「大神西下り」、「衛門台」などの小字があることが注目され、発掘調査までは行われていないものの、土師器・須恵器などの破片が多数採取されているという。なお、当地は「雨巻山」(533m)、「高峯(山)」(520m)の南麓に当たる標高約100mの舌状台地にある。「大神」と書いて「おおみわ」と読む説もあって、これが「蛇」に関係あるといえば、大和国一宮「大神神社」(現・奈良県桜井市)が想起される。「高峯(山)」は別名「竜神山」ともいうそうで、当地の地形から大和国の三輪山になぞらえたのではないか、とも言われているようだ。そして、「大神駅家」は、「下野国」(国府は現・栃木県栃木市にあった。)と「常陸国」を結ぶ連絡路の途中にあり、そのまま西へ進むと「河内駅家」(現・水戸市)、方向を変えて南~南東に進むと(途中、式内社「鴨大神御子神主玉神社」(前項)付近を通る?)「常陸国府」(現・茨城家石岡市)(2018年1月6日記事)に行き当たることになる。が、「延喜式」(平安時代中期)には「大神駅家」の名は無く、いつしか廃止されてしまったらしい。
さて、蛇足。「伽婢子」(浅井了意・著、寛文6年(1666年刊行))に次のような話が語られている。少し長いが、概要を記すと「常陸国笠間郷の野原に小さな社があった。この社の前を通る者が供物を捧げないと祟りがあり、村人は誰も通らなくなった。明徳年間(1390~1393年)、性海という僧が北陸での修行の後、相模国(ママ)の足利学校に行こうとして常陸国に到り、その小社の前を通る際、何も捧げる物がないので、法施として礼拝読経した。行き過ぎると道に迷い、後ろを見ると、たくさんの化け物が追いかけてくる。観音経を必死に唱えながら逃げ、ようやく鹿島明神の社の前に辿り着いた。ここでも礼拝読経し、笠間の社ではなぜ化け物に追いかけられるようなことになったのか教えて欲しい、と祈って寝た。すると、夢の中に鹿島明神が現れ、取り次ぎの官人から、明神は法施を喜ばれ、性海の願いを聞き届ける、と言われた。忽ち、老人が連れてこられ、なぜ法施した僧を苦しめるのか、と詰問された。老人(笠間の小社の神)が言うのには、年を経た大蛇に社殿を奪われ、その大蛇が悪さをしているのだと釈明した。これを聞いた鹿島明神が5千の神兵を派遣し、暫くすると、神兵が巨大な白蛇の首を持ってきた。官人が、鹿島明神は常陸国第一の神として公正な裁きをした、と告げたところで目が覚めた。翌日、再び、笠間の小社の前に戻ると、社殿や鳥居は焼け焦げ、巨大な白蛇の胴体が転がっていた。」というのである。夢の中に出てきた官人や神兵の描写は、いかにも中国風だが、それもそのはず、この物語は中国の怪異小説「剪燈新話」の中の「永州野廟記」という話の翻案だということらしい。また、笠間から鹿島まで1日で歩いたというのはひとまず措くとしても、相模国の「足利学校」、というのもおかしい。東洋文庫版の註では、「金沢文庫」との混同ではないか、としているが、(確かに現・神奈川県横浜市にあるが)「金沢文庫」の所在地は武蔵国になる。道順もおかしい。北陸方面(「越の国」と書いてある。)から笠間に来るなら、「下野国府」や「下野国分寺」のあった現・栃木県栃木市、「下野薬師寺」があった現・栃木県下野市の方面から、「新治郡衙跡」(平成30年8月4日記事)・「新治廃寺跡」(平成30年8月11日記事)付近、それから「大神駅家跡」付近を通って、西から東に進めばよい。「足利学校」(現・栃木県足利市)では反対方向である。いや、長々と引用したのはそういうことではなく、茨城県の民話の1つとして語られることがあり、その際「笠間の野社」というのを「稲田神社」(2018年7月21日)のこととしているものがあるからである。「笠間郷」というのは中世の郷名で、現・茨城県笠間市の笠間・稲田地区を指すとされる。そうした中で、「大神駅家」=蛇が多い、「稲田神社」=スサノオの八岐大蛇退治神話や中世における衰退ぶり・・・などから連想したものかもしれないが、もちろん「伽婢子」では特定されていない。


写真1:「大神台遺跡」説明板。右にある石碑は「たかみね山桜」と刻されており、この道路を北へ向かうと「高峯(山)」の登山口があり、桜の名所になっているらしい。


写真2:説明板の後ろの台地。現状は麦畑など。
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