新波神社(あらなみじんじゃ)。通称:新波のお不動さん。
場所:秋田県秋田市雄和新波字樋口16。国道341号線から秋田県道9号線(秋田雄和本荘線)に入り、南東~南へ約660m、県道9号線と同10号線(本荘西仙北角館線)分岐の交差点付近にガソリンスタンド「コスモ石油新波SS」があり、その裏手(北西方向)、すぐ。駐車場なし。
社伝によれば、大宝2年(702年)に現在の「大正寺小学校」敷地辺りに創建、貞観3年(861年)には慈覚大師(円仁。第3代天台座主)が再興して社運隆盛となったが、永正9年(1512年)には火災に遭い、その後衰えた。永禄元年(1558年)、旅僧・行栄法印が巡錫の折に当神社に深く帰依して別当となり、本地垂迹説により「不動尊」と称してから、その名が近隣に喧伝されて社運が興隆した。江戸時代には当地が亀田藩領となり、藩主・岩城公代々の崇敬社となった。明治3年には神仏判然令を受けて「新波神社」と改称し、明治10年には村社となった。現在の社殿は明治23年に建立されたものだが、屋根を支える力士8体・竜2体の彫刻が昭和50年に秋田市指定有形文化財に指定され、平成16年には拝殿が登録有形文化財に指定されている。現在の祭神は、大国主神ほか。
地元の民話では、もともと大正寺村碇田の石行というところに「地主明神」と呼ばれる祠があった。あるとき、氏子の神太郎という信心深い人の夢枕に立ち、自ら「地主明神」(国土開発の神である大国主神の別称)と名乗ったうえで、「より良い場所に移りたい、そこに移れば、土地を開墾する人々を助けよう」とのお告げがあった。このため、村人が新宮を建立すると、遷宮の日に突然大嵐となり、旧宮のほうから御形石が飛来してきた。急いで御形石を新宮の奥に安置したところ、風雨は収まった。このような神異もあり、広く崇敬されるようになった。しかし、時代が下ると、神社も次第に衰退し、社殿が破損しても誰も顧みないようになってしまった。その頃、村に疫病が流行り、多くの死者が出た。多郎右衛門という信心深い若者の父親も疫病に罹って衰弱する一方だったので、多郎右衛門が熱心に神仏に祈ったところ、新波川の渦巻の上に大きな竜の形の雲に乗った不動尊が現れ、川に入水したところを拾い上げた夢を見た。翌朝、川端に行ってみると、実際に渦巻の中から不動尊像が浮き上がってきたので、抱き上げると、人肌のようなぬくもりがあった。この像を、再建された「地主明神」の社殿に安置したところ、疫病がたちまち収まり、多郎右衛門の父親も助かったという。因みに、雄物川の新波(あらわ)集落の先の下流には波の渦巻くところがあり、今も「不動巻」と呼ばれているとのこと。
ところで、「延喜式」には古代東山道に「白谷」という駅家があったことが記載されている。遺称地はなく、それらしい遺跡も発見されておらず、その場所については諸説あるが、現・秋田市雄和新波の雄物川河畔が有力説となっている。ここは、江戸時代には亀田藩の御番所が設けられ、上り船から船荷役銭(運上金)を徴収していたところでもある。当神社も(大宝2年創始説はともかくとして)交通の要所の守護神として建立されたものかもしれない。
秋田県神社庁のHPから(新波神社)
写真1:「新波神社」前の「不動橋」。鮮やかな赤。
写真2:鳥居と社号標
写真3:杉(スギ)の巨木も多く、当神社境内は昭和13年に市指定名勝に指定されている。
写真4:社殿
写真5:社殿の彫刻が見事で、
写真6:近くの「雄物川」河畔にある「御番所跡」(雄物川左岸(南岸)の「新波橋」詰、西側)
写真7:同上、御番所跡付近の「雄物川」
場所:秋田県秋田市雄和新波字樋口16。国道341号線から秋田県道9号線(秋田雄和本荘線)に入り、南東~南へ約660m、県道9号線と同10号線(本荘西仙北角館線)分岐の交差点付近にガソリンスタンド「コスモ石油新波SS」があり、その裏手(北西方向)、すぐ。駐車場なし。
社伝によれば、大宝2年(702年)に現在の「大正寺小学校」敷地辺りに創建、貞観3年(861年)には慈覚大師(円仁。第3代天台座主)が再興して社運隆盛となったが、永正9年(1512年)には火災に遭い、その後衰えた。永禄元年(1558年)、旅僧・行栄法印が巡錫の折に当神社に深く帰依して別当となり、本地垂迹説により「不動尊」と称してから、その名が近隣に喧伝されて社運が興隆した。江戸時代には当地が亀田藩領となり、藩主・岩城公代々の崇敬社となった。明治3年には神仏判然令を受けて「新波神社」と改称し、明治10年には村社となった。現在の社殿は明治23年に建立されたものだが、屋根を支える力士8体・竜2体の彫刻が昭和50年に秋田市指定有形文化財に指定され、平成16年には拝殿が登録有形文化財に指定されている。現在の祭神は、大国主神ほか。
地元の民話では、もともと大正寺村碇田の石行というところに「地主明神」と呼ばれる祠があった。あるとき、氏子の神太郎という信心深い人の夢枕に立ち、自ら「地主明神」(国土開発の神である大国主神の別称)と名乗ったうえで、「より良い場所に移りたい、そこに移れば、土地を開墾する人々を助けよう」とのお告げがあった。このため、村人が新宮を建立すると、遷宮の日に突然大嵐となり、旧宮のほうから御形石が飛来してきた。急いで御形石を新宮の奥に安置したところ、風雨は収まった。このような神異もあり、広く崇敬されるようになった。しかし、時代が下ると、神社も次第に衰退し、社殿が破損しても誰も顧みないようになってしまった。その頃、村に疫病が流行り、多くの死者が出た。多郎右衛門という信心深い若者の父親も疫病に罹って衰弱する一方だったので、多郎右衛門が熱心に神仏に祈ったところ、新波川の渦巻の上に大きな竜の形の雲に乗った不動尊が現れ、川に入水したところを拾い上げた夢を見た。翌朝、川端に行ってみると、実際に渦巻の中から不動尊像が浮き上がってきたので、抱き上げると、人肌のようなぬくもりがあった。この像を、再建された「地主明神」の社殿に安置したところ、疫病がたちまち収まり、多郎右衛門の父親も助かったという。因みに、雄物川の新波(あらわ)集落の先の下流には波の渦巻くところがあり、今も「不動巻」と呼ばれているとのこと。
ところで、「延喜式」には古代東山道に「白谷」という駅家があったことが記載されている。遺称地はなく、それらしい遺跡も発見されておらず、その場所については諸説あるが、現・秋田市雄和新波の雄物川河畔が有力説となっている。ここは、江戸時代には亀田藩の御番所が設けられ、上り船から船荷役銭(運上金)を徴収していたところでもある。当神社も(大宝2年創始説はともかくとして)交通の要所の守護神として建立されたものかもしれない。
秋田県神社庁のHPから(新波神社)
写真1:「新波神社」前の「不動橋」。鮮やかな赤。
写真2:鳥居と社号標
写真3:杉(スギ)の巨木も多く、当神社境内は昭和13年に市指定名勝に指定されている。
写真4:社殿
写真5:社殿の彫刻が見事で、
写真6:近くの「雄物川」河畔にある「御番所跡」(雄物川左岸(南岸)の「新波橋」詰、西側)
写真7:同上、御番所跡付近の「雄物川」