神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

新波神社

2016-09-24 23:33:41 | 神社
新波神社(あらなみじんじゃ)。通称:新波のお不動さん。
場所:秋田県秋田市雄和新波字樋口16。国道341号線から秋田県道9号線(秋田雄和本荘線)に入り、南東~南へ約660m、県道9号線と同10号線(本荘西仙北角館線)分岐の交差点付近にガソリンスタンド「コスモ石油新波SS」があり、その裏手(北西方向)、すぐ。駐車場なし。
社伝によれば、大宝2年(702年)に現在の「大正寺小学校」敷地辺りに創建、貞観3年(861年)には慈覚大師(円仁。第3代天台座主)が再興して社運隆盛となったが、永正9年(1512年)には火災に遭い、その後衰えた。永禄元年(1558年)、旅僧・行栄法印が巡錫の折に当神社に深く帰依して別当となり、本地垂迹説により「不動尊」と称してから、その名が近隣に喧伝されて社運が興隆した。江戸時代には当地が亀田藩領となり、藩主・岩城公代々の崇敬社となった。明治3年には神仏判然令を受けて「新波神社」と改称し、明治10年には村社となった。現在の社殿は明治23年に建立されたものだが、屋根を支える力士8体・竜2体の彫刻が昭和50年に秋田市指定有形文化財に指定され、平成16年には拝殿が登録有形文化財に指定されている。現在の祭神は、大国主神ほか。
地元の民話では、もともと大正寺村碇田の石行というところに「地主明神」と呼ばれる祠があった。あるとき、氏子の神太郎という信心深い人の夢枕に立ち、自ら「地主明神」(国土開発の神である大国主神の別称)と名乗ったうえで、「より良い場所に移りたい、そこに移れば、土地を開墾する人々を助けよう」とのお告げがあった。このため、村人が新宮を建立すると、遷宮の日に突然大嵐となり、旧宮のほうから御形石が飛来してきた。急いで御形石を新宮の奥に安置したところ、風雨は収まった。このような神異もあり、広く崇敬されるようになった。しかし、時代が下ると、神社も次第に衰退し、社殿が破損しても誰も顧みないようになってしまった。その頃、村に疫病が流行り、多くの死者が出た。多郎右衛門という信心深い若者の父親も疫病に罹って衰弱する一方だったので、多郎右衛門が熱心に神仏に祈ったところ、新波川の渦巻の上に大きな竜の形の雲に乗った不動尊が現れ、川に入水したところを拾い上げた夢を見た。翌朝、川端に行ってみると、実際に渦巻の中から不動尊像が浮き上がってきたので、抱き上げると、人肌のようなぬくもりがあった。この像を、再建された「地主明神」の社殿に安置したところ、疫病がたちまち収まり、多郎右衛門の父親も助かったという。因みに、雄物川の新波(あらわ)集落の先の下流には波の渦巻くところがあり、今も「不動巻」と呼ばれているとのこと。
ところで、「延喜式」には古代東山道に「白谷」という駅家があったことが記載されている。遺称地はなく、それらしい遺跡も発見されておらず、その場所については諸説あるが、現・秋田市雄和新波の雄物川河畔が有力説となっている。ここは、江戸時代には亀田藩の御番所が設けられ、上り船から船荷役銭(運上金)を徴収していたところでもある。当神社も(大宝2年創始説はともかくとして)交通の要所の守護神として建立されたものかもしれない。


秋田県神社庁のHPから(新波神社)


写真1:「新波神社」前の「不動橋」。鮮やかな赤。


写真2:鳥居と社号標


写真3:杉(スギ)の巨木も多く、当神社境内は昭和13年に市指定名勝に指定されている。


写真4:社殿


写真5:社殿の彫刻が見事で、


写真6:近くの「雄物川」河畔にある「御番所跡」(雄物川左岸(南岸)の「新波橋」詰、西側)


写真7:同上、御番所跡付近の「雄物川」
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唐松山天日宮

2016-09-17 23:31:09 | 神社
唐松山天日宮(からまつさんあまつひのみや)。
場所:大仙市協和境字下台86。「唐松神社」(前項)境内にあるが、秋田県神社庁のHPでも独立した神社となっている。
元は物部氏の氏神で、社家である物部氏の邸内社であったという。現在の祭神は、饒速日命(ニギハヤヒ)、登美夜毘売命(トミヤビメ)ほか。60数代続く社家・物部氏に伝わるという「物部文書」によれば、神武天皇が大和(ヤマト)に入る以前に、物部氏の祖神である饒速日命が現・秋田・山形県境にある「鳥海山」(「鳥見山」)に降臨し、当地に居住して「天日宮」を建てた。その後、大和へ移り、長髄彦(ナガスネヒコ)の妹・登美夜毘売を妻とした。長髄彦が磐余彦尊(イワレヒコ、後の神武天皇)と戦って敗れた後、饒速日命は磐余彦尊に帰順したという。饒速日命と登美夜毘売命の子が宇摩志麻遅命(ウマシマジ)で、天皇家に仕え、物部連、穂積臣などの祖となったとされる。
さて、当神社の社殿は、延宝8年(1680年)に久保田(秋田)藩主・佐竹義処が「唐松神社」社殿を現在地に移したとき、「唐松山 光雲寺」別当社として現在地に祀ったとされる。現在の社殿は、崇敬者の寄進による玉石を使って大正3年に改築、仏教伝来以前の様式で建立したという。社殿の背後に「抱石男石」(子宝)、「玉鉾石」(結縁)、「女石」(安産)の三石を祀り、縁結びや子授けの神様として崇敬を受けている。


秋田県神社庁のHPから(唐松山天日宮)

写真1:「唐松神社」境内、社号標の前に駐車場があるが、その南側に鎮座。


写真2:社号標と鳥居


写真3:入口


写真4:社殿。池の中に玉石を多用した島(築山)があり、その上に建立されている。池の中に、というよりは、濠に囲まれているというべきか。


写真5:社殿裏


写真6:社殿の後ろの池の中にも石が祀られている。
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唐松神社

2016-09-10 23:49:58 | 神社
唐松神社(からまつじんじゃ)。
場所:秋田県大仙市協和境字下台94。国道13号線「上淀川」交差点から北、約800mのところ(「日進モータース」の向かい)から狭い道路を西へ進めば、当神社参道正面に出るが、ややわかりにくい。「上淀川」交差点から西に入って突き当りを右折(北へ)、つまり国道の1本西の道路(旧道?)を約800m進むほうがわかりやすい。自動車の場合は、当神社「一の鳥居」を通り過ぎ、更に約100mのところ(交番のすぐ先)を西へ入ると、駐車場に行ける。
社伝によれば、当神社は本来「韓服宮」といい、三韓征伐を行った神功皇后に因む宮とされる。新羅征討に参加した物部膽咋連(もののべいくいのむらじ)が神功皇后の腹帯を拝受し、当社を創建したという。あるいは、膽咋連の子孫に当たる物部守屋の子・那加世が物部氏滅亡に際して東北地方に落ちのびて当地で祖先神を祀り、後に、深く崇敬した神功皇后を合祀したともいう(現・社家の物部氏は那加世を初代として60代以上続いているとのこと。)。また、現社殿の南西、「唐松山」山頂(標高約88m)に元宮があるが、ここには「唐松山勝軍権現(愛宕権現)」が祀られていたらしい。伝説によれば、「前九年の役(前九年合戦)」の折、八幡太郎こと源義家が当地で敵・安倍貞任の軍勢に囲まれて窮地に陥ったとき、大男が現れて義家を救った。この大男こそ「唐松山権現」であり、義家は戦勝後の康平6年(1063年)に社殿を修復したという。現在の社殿は平地より低いところにあり、石段を下りて参拝するが、近世、久保田(秋田)藩第3代藩主・佐竹義処(さたけよしずみ)が当神社前の下馬札を無視して通り過ぎようとして落馬したことに怒り、社殿を平地に下させた。ところが、その後も同様のことがあったため、平地より下の窪地に社殿を移させたのだという。ところが、義処の娘・久姫が難産で苦しんでいたところ、当神社に祈願したところ無事安産となったことから、以来厚く庇護されるようになった。現在も参道に立派な杉並木があるが、これは義処が植えさせたものという。また、こうした由来から、女性一代の守り神、授子安産子安の神様として庶民にも信仰され、「唐松講」(「八日講」)と呼ばれる講が多数組織された。現在の祭神は、軻遇突命(カグツチ)、息気長足姫命(オキナガタラシヒメ=神功皇后)ほか。


秋田県神社庁のHPから(唐松神社)

玄松子さんのHPから(唐松神社)

写真1:「唐松神社」参道入口、一の鳥居


写真2:参道途中の鳥居


写真3:社殿前の鳥居


写真4:社殿。石段を下がって参拝する。


写真5:元宮の参道入口の鳥居。「唐松神社」の南、淀川を渡ったところにある「まほろば唐松 能楽殿」の背後から山道を登る。


写真6:山上にある「唐松城」石碑


写真7:「唐松神社」元宮


写真8:同上、内部



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諏訪神社(秋田県大仙市協和中淀川)

2016-09-07 23:48:12 | 神社
諏訪神社(すわじんじゃ)。
場所:秋田県大仙市協和中淀川字白井沢111。国道341号線と秋田県道319号線(雄和協和線)の交差点(県道終点)から、県道側に(北西へ)約60m入り、右折(北東へ)して約150m。駐車スペースあり。
社伝によれば、延暦21年(802年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂が東夷征伐のとき、現・大仙市協和町中淀川の小田地という所に休息し、その地に祠を建てて建御名方神を祀ったのが始まりとされる。伝承では、この神は、淀川の上流、現・大仙市協和荒川の奥から流れてきたのを、中淀川の白岩(小田地)で拾われ、当地の村人により産土神として祀られた、ともいう。祭神である健御名方神は風の神であり、風鎮めの神として農民らの信仰が篤かったとされる。
なお、境内に大きな砂岩で作られた「庚(いぬい)さん」が建っている。この「庚さん」は年と共に成長して大きくなり、2~3年毎に大きな御堂を建て替しなければならなかったという伝説があるらしい。
ところで、「日本三代実録」貞観12年(870年)の記事によれば、「白磐神」とともに「須波神」が従五位下の神階を授与されているが、その「須波神」がいずれかの「諏訪神社」であろうという説がある。それが当神社ではないか、という説を唱えたのは、江戸時代の紀行家・菅江真澄である。「日本三代実録」の記事で「白磐神」と「須波神」が並んでいるところから、当地に「白岩」という地名があり(かつては有名な「千手観音」堂があったらしい。)、川を挟んで当「諏訪神社」があることをもって、これらに比定したもののようだ。ただし、菅江真澄自身が認めているように、「白磐(岩)」という地名も、「諏訪神社」も各地に多数あり、当地とする根拠は甚だ薄いと言わざるを得ないだろう。


秋田県神社庁のHPから(諏訪神社)


写真1:「諏訪神社」鳥居


写真2:社殿


写真3:境内の「庚さん」
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秋田諏訪宮

2016-09-03 23:41:57 | 神社
秋田諏訪宮(あきたすわぐう)。
場所:秋田県仙北郡美郷町六郷字本道町19。国道13号線「側清水」交差点から南東へ約500mのところ(「手づくり工房 湧子ちゃん」の案内標識がある。)で左折(北へ)、直進(途中で右へカーヴするが)約700m。駐車スペースあり。
社伝によれば、延暦21年(802年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂が東征のとき諏訪大神に国家鎮護を祈願し創建。寛治元年(1087年)には、後三年合戦に参戦した信濃国(現・長野県)一宮「諏訪大社」の大祝為仲が当神社で祭祀を行ったという(当時、「諏訪大社」の大祝は神官であるとともに地方豪族・武士の一族でもあった。)。中世~近世には時の領主に厚く崇敬され、江戸時代には社家大頭役である出羽国式内社「保呂羽山波宇志別神社」に次ぐ格式があった。明治2年には「羽後国総鎮守諏訪宮」を名乗るが、「羽後国」がなくなり、「宮」号が使用不可となったため、単に「諏訪神社」となった。昭和62年には「秋田諏訪宮」と改称し、現在の宮司は第40代「諏方祝子(すわほうり)」という。なお、創建以来、仏教寺院の支配を受けず、純粋な「神社」・「神主」として続いた数少ない例とされる。また、祭神は建御名方富命と八坂刀女命であるが、かつては2社あって、それぞれの神を祀っていた。そして、八坂刀女命を祀る社の「祝子」は女性で、「旭の神子(あさひのみこ)」と称したともいう。
因みに、「日本三代実録」貞観12年(870年)の記事によれば、「白磐神」とともに「須波神」が従五位下の神階を授与されているが、その「須波神」がいずれかの「諏訪神社」であろうという説がある。所謂「式外社」の1つであるが、出羽国の他の式内社・式外社の殆どが山や温泉など自然神を祀っているのに対して、建御名方富命等を祀るというのは違和感がある。一方、逆に、「諏訪神社」であるとすると、出羽国の中でも数多く、どの神社に比定すべきか迷うところである。当神社は、由緒や社格などからみて、その有力候補たり得ると思われるが、当神社のHPなどをみても、特段そういう話はないようである。


秋田諏訪宮のHP

秋田県神社庁のHPから(秋田諏訪宮)


写真1:「秋田諏訪宮」正面鳥居


写真2:社殿


写真3:社号標(大正8年建立)


写真4:境内の「諏訪清水」
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