川口神社(かわぐちじんじゃ)。
場所:千葉県銚子市川口町2-6378。千葉県道254号線沿い、利根川右岸の河口付近の「銚子市漁協製氷工場」の東側。駐車場なし。
社伝によれば、寛和2年(986年)の創建で、祭神は速秋津姫命(ハヤアキツヒメ)。ハヤアキツヒメは、普通、ハヤアキツヒコとセットで、「古事記」では「水戸神」、「日本書紀」の一書では「水門の神」と記し、「みなとのかみ」即ち、港の神であるという。また、港は多く河口に造られたため河口の神でもあり、穢れを川に流すところから祓除の神ともされるらしい。
銚子市に残る安倍晴明伝説によれば、晴明の偽計によって、晴明が死んだと悲観した延命姫は屏風ヶ浦の崖から海に身を投げ、その遺体は粉々に砕けてしまった。延命姫の歯と櫛だけが現・銚子市川口に流れ着いた(川口には「千人塚」があり、海難漁民慰霊塔が建立されている。かつては、銚子付近の海で遭難すると、川口に遺体が流れ着いたという。)。この歯と櫛を丘に埋めて延命姫の霊を祀り、「歯櫛明神(はくしみょうじん)」と称した。これが、いつしか「白紙明神」と呼ばれるようになり、明治3年に現在の「川口神社」と改称したという。こうした伝承から、櫛や鏡を奉納して祈願すると美人になるといわれ、また、当神社が頒布する「白粉」をつけるとアザが消えるとされていたようだ。もちろん、銚子港を見下ろす立地からして、銚子の漁民からも信仰が篤かった。有名な「銚子大漁節」にも「九つとせ この浦守る川口の 明神御利益あらわせる この大漁船」と詠われている。
さて、それにしても「銚子の安倍晴明伝説」が不思議なのは、わざわざ主人公を陰陽師・安倍晴明にしながら、全く陰陽師らしいことはしていないことである。騙されて死んだ延命姫の亡霊が怨念・妄執をもって晴明を襲い、これを晴明が呪術をもって鎮める・・・というのなら、それらしいのだが、単なる延命姫の悲恋物語で終わっている。また、晴明が銚子に来た理由は「花山天皇の失脚に身の危険を感じて」ということだったが、このとき(寛和2年(986年))、晴明は(通説によれば)既に65歳くらいである。京都を離れたという記録はなく、寧ろ翌年には一条天皇のために反閇を奉仕したという資料がある。そもそも、晴明が陰陽師としての活躍が目立つようになるのは、一条天皇や藤原道長の信頼を得たことによるもののようである。安倍晴明を主人公とする伝説は全国各地にあり、その多くは後世、在野の陰陽師の活動によって発生したものだろうが、普通は晴明の超人的な能力を宣伝するものが多いはずである。そうすると、逆に、晴明ではないにしろ、何か陰陽師と長者の娘の悲恋の物語があったのかもしれないと思えてくる。
「ちばの観光まるごと案内」のHPから(川口神社(銚子市))
写真1:「川口神社」 銚子港に面した鳥居と社号標
写真2:丘の上へと続く石段
写真3:石段を上りきり、ようやく社殿
写真4:社殿正面。北西に向いている。
場所:千葉県銚子市川口町2-6378。千葉県道254号線沿い、利根川右岸の河口付近の「銚子市漁協製氷工場」の東側。駐車場なし。
社伝によれば、寛和2年(986年)の創建で、祭神は速秋津姫命(ハヤアキツヒメ)。ハヤアキツヒメは、普通、ハヤアキツヒコとセットで、「古事記」では「水戸神」、「日本書紀」の一書では「水門の神」と記し、「みなとのかみ」即ち、港の神であるという。また、港は多く河口に造られたため河口の神でもあり、穢れを川に流すところから祓除の神ともされるらしい。
銚子市に残る安倍晴明伝説によれば、晴明の偽計によって、晴明が死んだと悲観した延命姫は屏風ヶ浦の崖から海に身を投げ、その遺体は粉々に砕けてしまった。延命姫の歯と櫛だけが現・銚子市川口に流れ着いた(川口には「千人塚」があり、海難漁民慰霊塔が建立されている。かつては、銚子付近の海で遭難すると、川口に遺体が流れ着いたという。)。この歯と櫛を丘に埋めて延命姫の霊を祀り、「歯櫛明神(はくしみょうじん)」と称した。これが、いつしか「白紙明神」と呼ばれるようになり、明治3年に現在の「川口神社」と改称したという。こうした伝承から、櫛や鏡を奉納して祈願すると美人になるといわれ、また、当神社が頒布する「白粉」をつけるとアザが消えるとされていたようだ。もちろん、銚子港を見下ろす立地からして、銚子の漁民からも信仰が篤かった。有名な「銚子大漁節」にも「九つとせ この浦守る川口の 明神御利益あらわせる この大漁船」と詠われている。
さて、それにしても「銚子の安倍晴明伝説」が不思議なのは、わざわざ主人公を陰陽師・安倍晴明にしながら、全く陰陽師らしいことはしていないことである。騙されて死んだ延命姫の亡霊が怨念・妄執をもって晴明を襲い、これを晴明が呪術をもって鎮める・・・というのなら、それらしいのだが、単なる延命姫の悲恋物語で終わっている。また、晴明が銚子に来た理由は「花山天皇の失脚に身の危険を感じて」ということだったが、このとき(寛和2年(986年))、晴明は(通説によれば)既に65歳くらいである。京都を離れたという記録はなく、寧ろ翌年には一条天皇のために反閇を奉仕したという資料がある。そもそも、晴明が陰陽師としての活躍が目立つようになるのは、一条天皇や藤原道長の信頼を得たことによるもののようである。安倍晴明を主人公とする伝説は全国各地にあり、その多くは後世、在野の陰陽師の活動によって発生したものだろうが、普通は晴明の超人的な能力を宣伝するものが多いはずである。そうすると、逆に、晴明ではないにしろ、何か陰陽師と長者の娘の悲恋の物語があったのかもしれないと思えてくる。
「ちばの観光まるごと案内」のHPから(川口神社(銚子市))
写真1:「川口神社」 銚子港に面した鳥居と社号標
写真2:丘の上へと続く石段
写真3:石段を上りきり、ようやく社殿
写真4:社殿正面。北西に向いている。