神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

川口神社(千葉県銚子市)(銚子の安倍晴明伝説・その4)

2014-06-28 23:05:30 | 神社
川口神社(かわぐちじんじゃ)。
場所:千葉県銚子市川口町2-6378。千葉県道254号線沿い、利根川右岸の河口付近の「銚子市漁協製氷工場」の東側。駐車場なし。
社伝によれば、寛和2年(986年)の創建で、祭神は速秋津姫命(ハヤアキツヒメ)。ハヤアキツヒメは、普通、ハヤアキツヒコとセットで、「古事記」では「水戸神」、「日本書紀」の一書では「水門の神」と記し、「みなとのかみ」即ち、港の神であるという。また、港は多く河口に造られたため河口の神でもあり、穢れを川に流すところから祓除の神ともされるらしい。
銚子市に残る安倍晴明伝説によれば、晴明の偽計によって、晴明が死んだと悲観した延命姫は屏風ヶ浦の崖から海に身を投げ、その遺体は粉々に砕けてしまった。延命姫の歯と櫛だけが現・銚子市川口に流れ着いた(川口には「千人塚」があり、海難漁民慰霊塔が建立されている。かつては、銚子付近の海で遭難すると、川口に遺体が流れ着いたという。)。この歯と櫛を丘に埋めて延命姫の霊を祀り、「歯櫛明神(はくしみょうじん)」と称した。これが、いつしか「白紙明神」と呼ばれるようになり、明治3年に現在の「川口神社」と改称したという。こうした伝承から、櫛や鏡を奉納して祈願すると美人になるといわれ、また、当神社が頒布する「白粉」をつけるとアザが消えるとされていたようだ。もちろん、銚子港を見下ろす立地からして、銚子の漁民からも信仰が篤かった。有名な「銚子大漁節」にも「九つとせ この浦守る川口の 明神御利益あらわせる この大漁船」と詠われている。
さて、それにしても「銚子の安倍晴明伝説」が不思議なのは、わざわざ主人公を陰陽師・安倍晴明にしながら、全く陰陽師らしいことはしていないことである。騙されて死んだ延命姫の亡霊が怨念・妄執をもって晴明を襲い、これを晴明が呪術をもって鎮める・・・というのなら、それらしいのだが、単なる延命姫の悲恋物語で終わっている。また、晴明が銚子に来た理由は「花山天皇の失脚に身の危険を感じて」ということだったが、このとき(寛和2年(986年))、晴明は(通説によれば)既に65歳くらいである。京都を離れたという記録はなく、寧ろ翌年には一条天皇のために反閇を奉仕したという資料がある。そもそも、晴明が陰陽師としての活躍が目立つようになるのは、一条天皇や藤原道長の信頼を得たことによるもののようである。安倍晴明を主人公とする伝説は全国各地にあり、その多くは後世、在野の陰陽師の活動によって発生したものだろうが、普通は晴明の超人的な能力を宣伝するものが多いはずである。そうすると、逆に、晴明ではないにしろ、何か陰陽師と長者の娘の悲恋の物語があったのかもしれないと思えてくる。


「ちばの観光まるごと案内」のHPから(川口神社(銚子市))


写真1:「川口神社」 銚子港に面した鳥居と社号標


写真2:丘の上へと続く石段


写真3:石段を上りきり、ようやく社殿


写真4:社殿正面。北西に向いている。
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晴明堂(千葉県銚子市)(銚子の安倍晴明伝説・その3)

2014-06-21 23:35:34 | 寺院
晴明堂(せいめいどう)。真言宗智山派「明王山 眞福寺」境内。
場所:千葉県銚子市親田町767。国道126号線沿い、コンビニ「セブンイレブン銚子親田町店」の西、約200mのところから狭い道路に入り、道なりに約380m。駐車スペースあり。
千葉県銚子市に伝わる陰陽師・安倍晴明の伝承では、「垣根の長者」根本義貞の娘・延命姫との結婚を一度は承諾した晴明が、一夜経って思い直し、逃げ出すが、あきらめきれない延命姫から追われるという流れになる(この辺り、歌舞伎の「娘道成寺」で有名な、所謂「安珍・清姫伝説」のような趣)。晴明は、現・銚子市垣根町から「飯沼観音」(前項参照)などを経て、現・銚子市小浜町に逃げてきたが、ここで一計を案じ、太平洋に面した「屏風ヶ浦」の崖の上に着物と履物を置き、「眞福寺」に身を隠した。そうとは知らぬ延命姫は、晴明が海に身を投げて死んだと思い込み、自らも断崖から海に身を投げたという。「屏風ヶ浦」は、約10kmに及ぶ断崖絶壁(海食崖)で、英仏間のドーバー海峡にある白い崖に似るところから、「日本のドーバー」あるいは「東洋のドーバー」とも称されているところである。今も「眞福寺」から更に1.5kmほど南に進めば、海に出る。その崖の中腹に「通漣坊」あるいは「通漣洞」という海食洞窟があり、延命姫が身を投げたときにできた、などと伝えられてきたが、現在は崩落して、見ることができない。
さて、この伝説では、小説や漫画などでのイメージと異なり、晴明は、呪術ではなく、策略で危機を脱したのだが、聊か姑息の感が否めない。また、延命姫の死を招いたことは重大で、晴明も気が咎めたのだろう、「眞福寺」境内の小堂に籠もり、罪滅ぼしのための行をしたとされ、それが「晴明堂」であるとされる。現存の「晴明堂」は、思ったよりも小さく、ここに籠もる、というのもよくわからないが、それで伝説の真偽を云々するのは野暮というものだろう。


写真1:「明王山 眞福寺」入口


写真2:本堂? 現在は無住のようである。


写真3:「晴明堂」
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長者山 阿弥陀院 根本寺(銚子の安倍晴明伝説・その2)

2014-06-14 23:06:40 | 寺院
長者山 阿弥陀院 根本寺(ちょうじゃさん あみだいん こんぽんじ)。通称:垣根の仁王尊(かきねのにおうそん)。
場所:千葉県銚子市垣根町1-338-1。国道356号線「柴崎町」交差点から東に進み、突き当りを左折(北へ)、約180m。駐車スペースあり。
銚子の安倍晴明伝説には多くのヴァリアントがあるが、それらを総合すると次のようになる。即ち、花山天皇の失脚によって身の危険を感じた晴明は、生まれ故郷の常陸国筑波に逃れたが、そこから更に下総国に行き、海上郡三宅郷垣根村にあって海上郡随一の長者と呼ばれた根本右兵衛義貞の屋敷に身を寄せた。根本義貞は鮭を捕る名人で、それで財を成したともいわれるが、娘の延命姫の顔には鮭の「はらご(卵)」のような赤痣があり、鮭の祟りかと噂されていた。この延命姫が晴明を恋い慕うようになり、長者の懇請によって、晴明も一度は婚約を承諾したが、思い直して長者屋敷を逃げ出した。追ってきた延命姫から逃れるため、晴明は屏風ヶ浦の断崖の上に着物と履物を脱ぎ捨て、海に飛び込んだと見せかけた。そうとも知らぬ延命姫は、自ら海に身を投げ、亡くなった、という。
当寺は、この延命姫の菩提を弔うため根本義貞が営んだ庵が創始であり、「長者屋敷」の跡であって、山号・寺号はこの伝説に因むという。そして、境内には「長者屋敷跡之碑」と「延命姫供養塔」の石碑が建てられている。

(注)銚子の安倍晴明伝説は、陰陽師の名を「清明」としているのが普通だが、ここでは「晴明」と表記した。


写真1:「根本寺」仁王門


写真2:本堂


写真3:境内の「史跡 長者屋敷跡之碑」


写真4:同じく、「延命姫供養塔」
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清明稲荷(銚子の安倍晴明伝説・その1)

2014-06-07 23:34:21 | 神社
清明稲荷(せいめいいなり)。
場所:千葉県銚子市陣屋町。「飯沼観音」こと「圓福寺」本堂の門前(西側)に「新生仲通り」という道路があり、その中央緑地帯の端に鎮座。「圓福寺」仁王門から徒歩2分程度。駐車場なし。
明和元年(1764年)、旧飯沼村の森田家により建立されたものとされ、平安時代の有名な陰陽師・安倍晴明所縁の神社というのだが、どういう契機で創建されたのかは明らかでない。ただ、銚子港にも近く、当神社に祈願すると大漁になったとされ、土地の漁師達の信仰が篤かったという。
実は、現・千葉県銚子市には安倍晴明にまつわる伝説があり、関係する史跡もいくつかある。それについては次項以降に書く予定だが、まず、安倍晴明に関する基礎情報から。
安倍晴明の名が概ね信頼できる史料に初めて登場するのは天徳4年(960年)で、このとき晴明は「天文得業生」(陰陽寮で天文道を学ぶ官職)であった(「中右記」による。)。それ以前の動静は不明で、そもそも生年・生地もわかっていない。多くの年表で生年が延喜21年(921年)とされているのは、寛弘2年(1005年)に85歳で亡くなったとされているところからの逆算である。生地は一般に摂津国阿倍野(現・大阪市阿倍野区)とされるが、讃岐国(現・香川県)・常陸国(現・茨城県)など諸説ある。系譜も必ずしも明らかでないが、孝元天皇の皇子・大彦命を祖先とする阿倍氏(平安時代から「安倍」と称する。)に連なり、父は大膳大夫(朝廷で臣下に対する饗膳を供する役所の長官)・安倍益材であるとされる。遣唐使・阿部仲麻呂(中国で憤死し、鬼となって吉備真備を助けたという伝説で有名。)の子孫であるとか、母が白狐であるとかの話もあるが、晴明を神秘化するための伝説に過ぎない。しかし、晴明が狐の子であるという伝説は広く流布しており、狐の正体がバレて母子別れのときに残した「恋しくば 尋ね来てみよ 和泉なる 信太(しのだ)の森の うらみ葛の葉」というのに因んで「信太妻伝説」または「葛の葉伝説」などともいう。
ところで、「清明稲荷」もそうだが、「晴明」ではなく、伝説では「清明」という名になっていることが多い。「晴明」を「せいめい」と読むのは有職読み(慣例に従った読み方)で、本来どう称していたかは不明だが、「はれあきら」か「はるあきら」と読んでいただろうと思われる。そうすると、「清明」は単なる誤字等ではない。伝説や浄瑠璃等では、天皇から「清明節」に因んで「清明」の名を賜ったとか、清浄の意味を込めて自ら「清明」に改名したということになっているが、確実な史料はなく、史実とは言い難い。どうやら、陰陽道の秘伝書「三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集」、略して「簠簋内伝」または「金烏玉兎集」には、巻頭に「天文司郎 安部博士 吉備後胤 清明朝臣 撰」とあり、晴明自身が著者(あるいは編纂者)と伝えられたことが大きいようだ。この書物は鎌倉時代末期~南北朝時代頃の偽書だが、晴明の子孫が陰陽道を支配して一種の「家元」となり、「土御門家」という公家の地位まで登りつめる一方で、在野の陰陽師達が自らの権威付けのために(勝手に)晴明を始祖として盛んに喧伝したことの反映であろうと思われる。そこでは、晴明が狐の子であるという伝説も、超能力を説明する根拠として使われたのだろう。
さて、慶長年間(1596~1615年)頃に成立したとされる「簠簋抄」(「簠簋内伝」の注釈書)の冒頭の「由来」に晴明伝が記載されている。上記の「葛の葉伝説」も記されているのだが、晴明の生地を常陸国猫島(現・茨城県筑西市(旧・明野町)猫島)としている。現・千葉県銚子市の北西、約90km(直線距離)のところである。また、常陸国には「信太(しだ)郡」があった。「常陸国風土記」によれば、白雉4年(653年)に物部河内・物部会津らの請願によって筑波郡・茨城郡から七百戸を割いて設置されたという、古くからの地名である。現在の茨城県稲敷郡阿見町・美浦村を中心とする霞ヶ浦南岸の地域らしい。上記の歌では、わざわざ「和泉なる」(和泉国にある)としているので、「信太の森」は常陸国ではないはずだが、混同されたかもしれない。なお、常陸国南部~下総国北部は平将門(903?~940年)の本拠地であるところから、晴明が将門の子であったとする説もあるようだが、これは流石に「トンデモ」の類であろう。

(参考文献)
斎藤英喜「安倍晴明」(ミネルヴァ書房)
藤巻一保「安倍晴明」(学習研究社)
田中貴子「安倍晴明の一千年」(講談社)
沖浦和光「陰陽師の原像」(岩波書店) ほか多数


写真1:「清明稲荷」。実は、何回か訪問しており、以前は木造の鳥居だったが・・・


写真2:同上。再訪したところ、立派な石造の鳥居に建て替えられていて吃驚。


写真3:(参考)「安倍晴明生誕の地」(場所:茨城県筑西市猫島。「明野ゴルフクラブ」の東、約600m)。安倍晴明が架けたという「晴明橋」(どんな大水が出ても、水位が橋を越えることがなかったと伝える。)の一部を復元した「晴明橋公園」になっている。駐車場もある。


コメント (2)
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