神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

保呂羽山波宇志別神社(出羽国式内社・その8)

2015-05-30 23:57:35 | 神社
保呂羽山波宇志別神社(ほろわさんはうしわけじんじゃ)。
場所:秋田県横手市大森町八沢木字保呂羽山1-1(「保呂羽山」(標高438m)山頂付近)。横手市中心部からは秋田県道29号線(横手大森大内線)を西へ向い(JR「横手」駅前から約23km)、「大木屋→」という案内板が出ているところで右折(西へ)、狭い道路に入り、約2.3kmで登山道入口(駐車場・トイレ有り)に着く。そこから未舗装道を含めて、徒歩で山頂付近にある社殿まで約30分。
社伝によれば、天平宝字元年(757年)、安閑天皇の随身の子孫・大友右衛門太郎吉親が大和国吉野金峰山の蔵王権現を勧請して現在地に創建したという。現在の主祭神は安閑天皇であるが、これは神仏混淆により蔵王権現と安閑天皇(広国押建金日命)が同一視されたことによるものとされる。安閑天皇は継体天皇の後を継いで66歳で天皇即位したが、在位は僅か4年とされる。蔵王権現は我が国独特の神格で、役小角(役行者)が感得したとされ、修験道の本尊とされる。蔵王権現=安閑天皇という思想の起源がいつからかは不明であるが、出羽国の他の式内社を考えれば、当神社は元々「保呂羽山」自体を神体山とした自然神であったと思われ、主祭神を蔵王権現(安閑天皇)としたのは修験道の影響を受けた中世以降だろう。
出羽国式内社9社のうち、現在、秋田県内にあるのは当神社を含め3社であるが、近世以前に、当神社を除く2社(「塩湯彦神社」・「副川神社」)は祭祀が途絶え、所在すら不明という状況となっていた。そこで、秋田藩主となった佐竹氏が式内社再興を企図し、唯一、祭祀を伝えていた当神社の社家に命じて再興させたという(以下、次項)。


秋田県神社庁のHPから(保呂羽山波宇志別神社)

玄松子さんのHPから(波宇志別神社)


写真1:「保呂羽山波宇志別神社」下居社。「保呂羽山」は修験道の修行の場として女人禁制であり、女性の参拝はここまでとされていた。


写真2:「子守石」。子守に気を取られ、「下居社」の上まで登って来てしまった女性が石に変えられてしまった、というもの。


写真3:「保呂羽山波宇志別神社」社殿


写真4:同上


写真5:社殿の背後、「保呂羽山」山頂(三角点がある)付近から(写真ではわかりにくいが、鳥海山が見えた。)


写真6:「坂部の境塚」。「保呂羽山」は秋田藩と亀田藩の境にあったため、境界争いが絶えなかった。文化10年(1813年)に両者が話し合って境界を定め、その印として「境塚」を14ヵ所設置したというもので、これもその1つ。
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御嶽神社(秋田県湯沢市御嶽山)

2015-05-23 23:48:15 | 神社
御嶽神社(みたけじんじゃ)。
場所:秋田県湯沢市字御嶽山6(「御嶽山」(標高318m)山頂)。国道13号線と国道398号線の「表町四丁目」交差点から、国道398号線を「栗原 小安峡」方面へ(東へ)約1.7km進むと、車道登り口に「御嶽神社」の説明板がある。そこから「御嶽山」山頂まで約1.1km(狭くて急な坂道なので注意。)。山頂付近に駐車スペースあり。なお、山麓からは他にも登山道があるようだ。
当神社の創建は保延元年(1135年)。元は、湯沢市街地の南東にある「古御嶽山」(「湯沢スキー場」のあるところ)山頂にあったが、中世以降、出羽国式内社「塩湯彦神社」が廃れた後に、現在地に遷座してきたという。即ち、式内社「塩湯彦神社」は秋田県横手市の「御嶽山」山頂に再興されているが、本来は湯沢市の「御嶽山」山頂に鎮座していたとするのである。「湯沢市史」(昭和40年12月)によれば、秋田県の式内社3社はいずれも雄物川筋道にあって、開拓が山麓部から平坦部に移ったことを示すという。そして、「塩湯彦神社」というからには温泉があったはずだが、横手市の「御嶽山」にはそれがなく、湯沢市の「御嶽山」の山麓には今も温泉が湧いている(「湯ノ原温泉」)のを証拠とする。その真偽については確かめようがないが、当神社は祭神として建速須佐之男大神(タケハヤスサノオ)を祀り、湯沢市街地から近く(湯沢市役所から直線距離で約1km)、東北の鬼門に当たることから、近世に湯沢の領主であった佐竹南家の崇敬を受けていた。今も、山頂からは湯沢市街地が見下ろせ、遠くに「鳥海山」も望むことができるため、湯沢市民に親しまれているという。


秋田県神社庁のHPより(御嶽神社)


写真1:湯沢市の「御嶽山」山頂にある「御嶽神社」。鳥居は見かけなかった。


写真2:「御嶽神社」社殿


写真3:境内にある蔵王権現と観音の石像


写真4:山頂から西に湯沢市街地と「鳥海山」を望む。なお、「御嶽山」山頂にはテレビ・FMラジオの中継局が設置されており、写真下側に写り込んでいるのは、そのアンテナの一部と思われる。
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黒沼(秋田県横手市)

2015-05-16 23:03:44 | 伝説の地
黒沼(くろぬま)。
場所:秋田県横手市山内大松川。国道107号線から県道273号線(外山落合線)に入り(大松川ダム方面へ)、約4km。「大松川公園 芝桜園」入口の先(北)、約200mのところ。駐車場あり。
「黒沼」は、天長4年(827年)の大地震により出現したと伝えられる陥没湖で、水深は12m、あるいは17mという。旱魃のときも水位が下がらないとされ、傍らの「黒沼神社」は別名「蛇王神社」といって、古来から竜神信仰による雨乞いの神として平鹿・仙北地方の農家の信仰を集めたという。また、この「黒沼」と、南西約5kmにある「鶴ヶ池」(横手市山内土渕字鶴ヶ池。「塩湯彦神社 鶴ヶ池里宮」(2015年4月18日記事参照))とは水底で繋がっているというトンデモな伝説もある。
「黒沼」に関する伝説は他にもある(というか、こちらが本筋。)。伝説であるから、いろいろなヴァリエイションがあるが、最も簡単なものは「貧しい旅人が南部(旧・南部藩領?)で若い女から黒沼に住む妹に手紙を渡すように頼まれ、手紙を届けたお礼に三角形の重たいものをもらった。それは黄金の塊で、旅人は忽ち大金持ちになった。」というものである。ここで示唆されるのは、当地に金の鉱山があったことと、その富に由来する長者が居たということだろう。注目されるのは、この長者の名が「地福長者」というところである。かつて、「黒沼」の更に奥に、「大松川ダム」建設によって集団移転した「福万」という、めでたい地名の集落があった。江戸時代の紀行家・菅江真澄は、「地福長者」の福と、「満徳長者」の満(万)を合わせた地名ではないかとしている。「満徳長者」は、出家して保昌坊と名乗り、「湯ノ峰白滝観音」(2015年4月11日記事)の施主になったと伝えられている。


秋田県観光連盟のHPから(伝説の黒沼)


写真1:「黒沼」。写真の左手奥に見える白い線は県道のガードレール。


写真2:美しい水面


写真3:同上


写真4:「黒沼」畔の小高いところにある「黒沼神社」の鳥居


写真5:同上、社殿
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大鳥井山遺跡

2015-05-09 23:18:46 | 史跡・文化財
大鳥井山遺跡(おおとりいやまいせき)。大鳥井柵跡(おおとりいのさくあと)ともいう。
場所:秋田県横手市大鳥町7。現在はテニスコート、プール等が整備された「大鳥公園」となっている。横手市役所付近から秋田県道272号線(御所野安田線、旧・羽州街道)を北上し、約1.5kmのところに「横手大鳥公園」の案内板が出ているところで左折(西へ)、突き当たりを右折(北へ)約100mで公園入口。駐車場有り。
「大鳥井山遺跡」は、横手川とその支流である吉沢川の合流点の東側に位置する「大鳥井山」・「子吉山」という2つの丘(いずれも標高は70~80m程度)を利用した平安時代の山城の跡である。横手市の市街地を見下ろし、横手川を自然の堀とした要害で、永承・天喜年間(1046~1058年)に清原光頼・頼遠(大鳥山ノ太郎)父子が築城したと伝えられてきた(確実な証拠は無いとのこと。)。東北地方で平安時代の山城は極めて珍しく、国指定史跡となっている。
清原氏は、俘囚(律令政府に服属していた蝦夷)の長で、武力を蓄え、出羽国山北地域を中心に強大な勢力を張っていた。清原光頼は清原氏の宗主であり、陸奥守・鎮守府将軍となった源頼義の要請を受けて弟の清原武則を総大将として援軍を派遣し、奥羽国の俘囚長であった安倍氏を滅ぼした。これが所謂「前九年の役(前九年合戦)」(1051~1062年)であるが、これにより清原武則は従五位下・鎮守府将軍に補任され、安倍氏に代わって清原氏が奥羽の覇者となった。俘囚出身者が鎮守府将軍になるということは前代未聞の出来事であり、清原氏の盛衰が平安時代の終焉~中世の始まりと直結していくことになるのだが、それは省略。
「大鳥井山」山上には清原光頼・頼遠父子の居館があったとされるのだが、そこに今は「大鳥井山神社」が鎮座している(住所:秋田県横手市新坂町6)。社伝によれば、延宝7年(1679年)、戦国時代に当地の領主であった小野寺氏の城門の部材を使って社殿が建立されたという(残念ながら、この社殿は昭和31年に焼失。)。祭神は月夜見大神であるが、その由緒は不明。あるいは、中世以降の浄土信仰を受けて「月山神社」から勧請されたものかもしれない(「月山神社」2015年1月17日記事参照)。さて、現・「大鳥井山神社」社殿付近の発掘調査によれば、ここに四面庇を持つ大きな掘立柱建物があったことが明らかになった。「大鳥井山遺跡」全体としては土塁や空堀、物見櫓の跡とみられるものがあるから、「城」と称して差し支えないのだが、「大鳥井山神社」付近の建物跡はその格式の高い形式から、居館というよりも、政庁、あるいは寧ろ宗教的施設ではなかったか、とする説もあるという。実は、前々項「(明永山)熊野神社」(2015年4月25日記事)の鳥居として「大鳥井山」の鳥居を移したという伝承があり、その「大鳥井山」の鳥居とは「塩湯彦神社」の鳥居である、とも伝えられているとのこと。とすれば、ひょっとしたら、現・「大鳥井山神社」の場所に式内社「塩湯彦神社」が鎮座していたのかもしれない。


横手市のHPから(大鳥公園)


写真1:「大鳥井山神社」一の鳥居


写真2:同上、参道途中にある「大鳥山頼遠居館跡址」の石碑


写真3:同上、二の鳥居(社殿正面)


写真4:同上、社殿。鳥居も社殿も黒塗り


写真5:「十三塚」。中世~近世頃の墓らしい。


写真6:二重の土塁と空堀


写真7:「小吉山火葬墓跡」。11世紀頃の築造とされ、方形の土盛に石を葺いたもので、内部には凝灰岩製の石櫃が置かれ、人骨が納められていたという。

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元熊野堂跡(秋田県横手市)

2015-05-02 23:15:15 | 史跡・文化財
元熊野堂跡(もとくまのどうあと)。
場所:秋田県横手市睦成字城付。「横手公園」の東、「みずほの里ロード」沿い「横手公園スキー場」入口から「山の上GOLFクラブ」に向って未舗装道路を上り(道幅が狭いので注意)、突き当たり、車止めの前に駐車スペースあり。そこから、舗装路を徒歩で約800m上り、遊具がある広場の裏側にある。なお、横手南小学校の北側を北東に道なりに進み、砂防ダムの横を通り過ぎたところに駐車場があり、そこから徒歩約800m、というルートもある(こちらの方がわかりやすいかもしれない。)。
秋田県横手市睦成字明永町に鎮座する「(明永山)熊野神社」(前項)は、役小角(役行者)が「泣子沢」に創建したとされるが、その元鎮座地とされる場所が「元熊野堂跡」とされる。「(明永山)熊野神社」の東の山の上で、現在は「横手いこいの森」として整備されており、散策路の途中にある。今では樹木が繁り、イメージがつかめないが、伝承では本殿が7間(=約13m)四面、拝殿が12間(=約22m)あったという。現在では、一般に横手市の「御嶽山」山頂にある「塩湯彦神社」が式内社であると認められているが、中世には所在不明になっていたのを、正徳4年(1714年)に久保田藩の指示により式内社「保呂羽山羽宇志別神社」(久保田藩領内で唯一廃絶していなかった式内社)社家の大友氏が鎮座地を定めた経緯がある。もちろん、それなりの根拠があって決めたのだとは思うが、確実性には疑問も残る。ひょっとすると、こちらのほうが元々の式内社「塩湯彦神社」の鎮座地だったのではないか、ということも絶対無いとは言えないのでないだろうか。
なお、この山の北側に「長者森」(横手市睦成字長者森)という地名があるが、ここに「満徳長者」の館があったといわれている。「満徳長者」は後に出家して「(湯ノ峰)白滝漢音」の施主になったという人物である。実は、他にも長者伝説がある。それは、「昔、現在の横手盆地は全て水に覆われ、広大な湖だった。鳥たちが集まり、「鳥の海」と呼ばれていた。あるとき、陸奥国塩竃(現・宮城県塩竃市)からやって来た塩竃大明神の子孫である「明永長者」・「明保長者」という兄弟が「鳥の海」の水を日本海に落とし、干拓することを企図した。大工事の末、湖は肥沃で広大な平野となり、農地に変えられていった。」というものである。これらの伝説は中世に形成されたと思われるが、当地の地方豪族の出自が陸奥国にあったことを示唆するものかもしれない(実は無関係で、単に塩竃神社の権威を借りたかったのかもしれない。式内社「塩湯彦神社」の塩湯彦=塩竃大明神と結びつけただけかも?)。それと、考えすぎかもしれないが、「長者」というのは、元は郡司、あるいは駅家(うまや)の長だった者が地方で大きな経済力を持ったケースが多いとされるので、この付近に郡家または駅家があった可能性はないだろうか。因みに、「長者森」に隣接して「糠塚」(横手市杉沢字糠塚)という地名もある。伝説では、長者は白米を食べるので、長者の館の隣には米糠の山が出来た、というのが定番だが、米糠は駅家の馬に食べさせるもので、これに関連するという説もあるらしい。郡家や駅家であれば、もう少し現在の市街地に近い場所か、と思われるけれども、興味をそそられる場所である。


横手セントラルホテルさんのHPから(横手いこいの森)


写真1:「(明永山)熊野神社」裏から東、「明永沼」越しに「かんぽの宿 横手」(休業中)が見える。その背後の山の上に「元熊野堂跡」がある。因みに、「かんぽの宿 横手」は天然温泉で、ナトリウム塩化物泉とされていた(まさに塩湯?)


写真2:この上に「元熊野堂鳥居跡」がある。三等三角点が設置されている。


写真3:「元熊野堂鳥居跡」。何故か「元熊野堂跡」より高いところにあり、とても狭い場所。


写真4:「元熊野堂跡」


写真5:「鞍かけの石」。参拝者がここで馬を下り、鞍を置いた場所という。
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