一巡した思考が空白へと行き着いた。
「下手な考え休むに似たり」
そのような諺が浮かんできた。次に指す一手がそれを証明してしまうことになるのでは。そう考えると恐ろしくて震えそうだった。僕は正座から胡座へ組み直した。もう何度目かわからない。1時間を超えた辺りから集中力は途切れ始めていた。そこから先は読みの迷路に迷い込んでしまったようだ。何が本筋なのだろう……。
第一感。遙か昔にそんな言葉を聞いた覚えがある。既に道を誤ってしまったのかもしれない。そう考えると更に恐ろしくなる。この道は本当に読むに値するのだろうか。冷静に形勢判断をしてみると自分に大きく劣っているところは見当たらない。最善手を指せば必ず開ける道があるはずだ。81升ほどの世界にどれだけの変化が眠っているというのだろう。それを掘り起こすことが私の仕事ではないだろうか。
私は手が届くほどの先にいる物言わぬ男と向き合ってもう何時間も座っていました。話すことも聞くこともなく、そのため見つめ合うこともなく、視線を落とし盤上を経由して別の未来を読み合っているのでした。声としての会話は成立しなくても、頭の中では駒を通していくつもの人形劇が演じられているのでした。
わかる人にはわかるでしょう。噛み合わぬ相手は不気味で恐ろしく、それぞれがあちらこちら分裂して動き出すと、たちまち劇はカオスの中に突入してしまうのです。相手の感覚を疑いながらも、一瞬でも劣勢を感じた時には疑いは自分の無知と弱さであるように思え始めるのです。
私たちには定跡という名の共通のシナリオがあったはずですが、誰かがそれを持ち去ってしまったのでしょうか。襖が開き女将さんが届けてくれたフルーツが甘く盛り上がって見えています。
金や銀ではない、苺や葡萄や林檎やキウイの色合いを膝の上に置いて、新しい着想を生み出そう。それは邪念ではない。盤上からは生まれ得ない新しい着想は、何気ない丸いお皿の上に眠っていたりするのです。激しくフォークを突き刺せば果実が飛び散って眠れる竜を刺激してしまう。
そうだ。これはタイトル戦に間違いない。俺は今大きなタイトルをかけて敵の厚い囲いを崩そうとしている。第一感は銀を強く前に進める手ではなかったか。だが、どうも上手く行かない。俺は第一感を脇に置いた。そして次の候補手を読んだ。
これも駄目。次も駄目。容易ではないようだ。俺は簡単に頓挫しない指し手を求めて感覚を研ぎ澄ませた。軽く10の候補手を読んだ。なんて手が広い局面だ。指したい手は腐るほどある。だが、そのほとんどは無意味であり無効だった。第13感から第20感までが抜け落ちていた。それは読みの穴だった。
そうだ。これはストーリーのないコミックなのだ。過去の自分の指し手にこだわっては大きなものを失う。大事なのは現局面だけだ。
評価値がどうしたって?
俺たちは数字じゃない。勝つか負けるかそれだけだ。これは人間同士の戦い。物語と物語をぶつけ合うのだ。俺はもう一度第一感を拾い直した。本当に悪い手か。大きなタイトルがかかっているのだ。だが何かよく思い出せない名前だ。ああ、なんて喉が渇く。
僕はグラスにウーロン茶を注いだ。もう何度目かわからない。時間をかけた分だけ僕はよい手を指さなければならない。でも、そんなことがあるだろうか。(長考に好手なし)最善手を追う旅はとっくに迷路の中に迷い込んでいる。きっとかなり早い段階で。第一感が誤っていたのかもしれない。そこから躓いていた。間違った道を読み進める内に、僕は狐につままれていた。そこから先の変化をどれだけ掘り下げてみても、どれほどの意味が含まれていただろう。狂った犬の助言の先でおじいさんはまだ宝物を見つけることの未練を捨てられなかった。物語のように私だってきっと上手くいくはず。
成功は信念と努力の先に必ず開けているのだから。抜け落ちた第14感の辺りを私はまださまよい続けていたのでした。きっとその辺りに難局打開の鍵が眠っているようだけれど、狐仕掛けの時間の中では望みの鍵を回復させることは困難で、こうなっては泥臭くても虱潰しで筋という筋を追っていくよりないのでした。
「何かありませんか」金銀の密集の中に。「ごめんください。誰かいませんか」銀の脇腹に、伸びた歩の背後のスペースに。金をかけた分だけの名作が生まれるなら、時をかけた分だけ名手が生み出されるなら、この時間は苦しいだけではない。どうしてこんなに喉が渇く。またグラスが空っぽになった。私は次の一手を恐れた。自らの次の一手が私の評価値を一気に下げてしまう。形勢はジェットコースターのように。
落ち葉に紛れた秋に急降下して歩を拾うことができる俺は恐竜の血を引いている。ほんの一睨みするだけで大局を見ることができる。駒の損得、働き、玉の堅さ。個々の要素は必要ない。俺は判断するのではなくただ知るのだ。
俺は鴉だ。ほんの少しのタッチの差でそれがどの画家によって描かれた作品かを見分けることができる。限られた駒によって作られた盤上の風景など何でもない。金や銀や多くの歩がどれだけ入り乱れていようとも関係ない。どれほど遠く離れたところからでも問題ない。
名人にも見えない絵が俺には見えている。先手ややよし。俺に見えるのはそこまでだ。見えたとしても読むことができないのだ。狐につままれてしまった座布団の上で俺は遙か昔に次の一手を見失っている。タイトルさえ見つけることができたなら、俺は覇者にもなれるのだが。
空っぽになったグラスに向けてウーロン茶を注ぎ入れる。もう何度目のことでしょう。私は喉が渇いたわけではなかった。果てしなく迷走していく脳内の凡手、奇手、妙手、無筋、無理筋に毒されて自身が消えてしまうことが恐ろしくなったのです。手にわかる感触と駒とは違う音を聞いて、私は現実の中の私をつなぎとめねばならなかったのです。
ゴクゴクゴク……。
最善手は、確かにここにあるのでしょうか。それは私の部屋の中にある単4電池のようなものかもしれない。あるのだとしてもいったいどこに? 見つけ出せない電池は私のものと言えるでしょうか。虱潰しに当たるには余計な物が多すぎます。埋もれたものを探し切るには人間の能力には限界があるのです。ゴクゴクゴク……。
生きている。下段の香に刺されながら、まだ角が生きているのが見えました。角というのは実に不思議な駒です。それは居る場所によって動ける範囲が大きく変わるのです。中央にて大いばりすると標的になりやすいけれど、辺境に据えて名角となることが多いのはなぜでしょうか。角は他のどの駒よりも私のものにはならなかった。
最善手にたどり着くよりも私の方が先に切れてしまう。最善手を指すことは本当に最善なのでしょうか。人に抱え切れない最善の先に幸福はあるのでしょうか。善悪は見えなくても、好きな道をただ見通すことはできる。最善よりも強いもの。私が私であるということ。
棋理に反する次の一手を見ても、相手は冷静であり続けることができるだろうか。仕掛けなければ始まらない。本筋を見失ったまま僕の手は駒台の上を何度もさまよっていた。銀か、角か。最初から読み切れる棋士はいない。指して読み。読んで指す。そうして一手一手誤りながら進んで行こう。次の一手を指せば始まる。
(終わるのかもしれない)
ただ思うままに指すだけならどれほど楽だろう。どんなに楽しいゲームだろう。指したいようには指せないのが盤上に生きるということだ。随分と長い間こうしているようだ。それでいて何も動いていないように見える。だが、目に見える変化よりもきっと大事な何かがあるのだ。わかる人にはわかるだろう。踏みとどまっていることによって、無限の可能性がまだ手の内にあった。今ここに果てしなく広がっている苦しくも楽しくもある時間。僕は「将棋の時間」の中にいた。