
教室を離れて町へ出た。
吸い込まれるように橋の下へ降りた。釣り竿の前に釣り人は座っていた。
「いつから釣っているの?」
「生まれる前からじゃ」
老人は生まれる前から釣り人だった。前世で釣り残した獲物があるのだと言う。執念が輪廻して川の前に導いた。生まれるよりも早く、生まれてからもずっと、釣り人は釣り人だった。
「何が釣れるの?」
「何も……」
老人のバケツは空っぽだった。
「ここは駄目なんじゃないの」
「そうかもしれん」
「他にもスペースあるのに」
老人は朝からずっとその場所にいる。
「自分から動く方がずっと楽じゃ」
「だよね」
「本当なら自分から川の中に飛び込んで網を振った方がずっと話が早い」
「だったら、なぜそうしないの?」
老人は長い竿を指しながら答えた。
「わしが釣り人だからじゃ」
「ダイバーじゃないんだね」
「そうとも。あんたは何をしておる?」
「僕は物書きです」
「ふん。小説家か」
「まあそんなところかな」
「わしを書くつもりか? わしを仙人のようにするつもりか」
「違います。少し時間が空いたので」
「ふん。売れない小説家の気晴らしか」
釣り人は決めつけるように言った。
「場所を変えないの?」
「どうして?」
「ここにはいないんじゃない?」
「そうかもしれん」
「だったらどうして……」
「ここではないという不安はどこに行ってもつきまとうものだ。ここではないのでは。今ではないのでは。あなたではないのでは……。だが、ここであるかもしれないのだ」
「でももしも……」
「一度動き始めたら不安の度に動かねばならん。あんたはそのようにして書いていくのか。行きたい場所もわからないのに」
「可能性のある方に行くと思います」
「それがわかればな」
「動かないのは怖くはない?」
「わしは釣り人だ。だから、動くのはわしではない。わしの周りを水が魚が時が、世間が動くのだ」
「監督みたい」
「わしが何もしていないように見えるか?」
突然、老人はカメラをのぞき込む巨匠のように見えた。
「あなたは映画監督のようだ」
「望むものは望む時にはやってこない」
「ですね」
「だが、それは望みを捨てる理由にはならん」
「はい」
「何もなくてもわしは釣りをしているのだ」
「そうでした」
「魚は好きか?」
「うーん」
「煮えきれない奴だな」
「ふふ。釣れるといいですね」
「あんたも小説を書いているのだろう」
「えっ」
「何もしてない振りをして書いておる」
「書いていないよ」
「頭の中でわしを書いておるな」
「早くかかるといいですね」
「わしは魚だけを求めてはおらん」
「こうしているのが好きなんですか」
「目的と目標は違うということじゃ」
「微妙すぎてわからないな」
「あんたはまだ若いな」
「若くもないけど」
「ふん。まあ好きに書くことじゃ」
「はい」
「あんたはあんたのスペースで」
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