月曜日。できるだけ休みたいと思っていましたが「勉強を教えてほしい」ということでした。こうなったら仕方ない。こちらが集めて「勉強しろ」というのではなく「自分から勉強したい」というのであれば断る理由はありません。
個別に勉強を教える時間を確保しました。質問があれば直接聞きに来るようにと。こちらから「教える」というスタイルは取りません。自分のための勉強です。自分で聞きに来なければ与えません。この夏でとにかくこの部分は徹底していこうと感じました。自分のためにならない。与えられることに慣れてしまってやってもらえないと「なんでやってくれないのか」と不満を示すようになる。これは明らかに間違い。こうならないようにしっかりと育てていかなければいけないなと。
が、実際勉強を教えようと思っていたら別件が。前日にあった「非常に気分を害すること」の続きが。冗談じゃない。こんなことがまかり通るのかどうか。勘違いも甚だしい。これが許されるようなら学校教育は成立しないのではないなという憤りさえあります。こうやって書いたら「何があったのか」と思われるかもしれません。今回に関してはかなりです。結局これまで「許されてきた」から助長されるのだと思います。
この流れで翌日にはさらに気分を害することも。こんなことがあり得るのか?学校教育って何ですか?私自身、これが許されるのであれば今後二度と生徒指導をしなくてもいいなと感じているくらいです。そこまでいうなら今の仕事ができないのではないかという気はしますね。が、実際問題「生徒指導」をどれくらいやるのかは「感覚の違い」だと思います。私は「将来のため」にやります。が、場当たり的な「その場しのぎ」の指導をする場合もあるでしょう。どちらが「本当に必要か」という話です。
私自身は「良い学校にしたい」と思っています。それがどれだけ一般的なのかわかりません。競技さえやればいいという気持ちはありません。そういう部分も含めて選手には指導しています。「部活動不要論」も出ます。実際問題、「やらなくてもいんじゃない?」と思う場面もあります。それでも教室の中で椅子に座っているだけではわからないことが山のようにあります。師匠に相談すると「自分の手の届く範囲にしっかりと力を注ぐ」ことの大切さを教わりました。まさに。
性格的にいろいろなものが目につきます。「許せない」と思うことも多い。その中で自分自身が生きにくくなっているのは間違いない事実です。もっと同じ方向を向いて育てていく感覚が持てれば変わっていくのかなと感じる部分があります。こういう性格ですから色々な場面であれこれ言います。一人ではなく周囲の人に状況を作っています。何かあったら「こんなことがあった」と声を大にして言います。「現状の認識」という部分でいろいろな人に「起きている事実」を知ってもらう必要があります。そうやって自分がどのようにやろうとしているのかを伝える。
とにかく「気分を害すること」があった。本当は勉強を教える時間をもっともっと確保したかったのですがそれが十分ではありませんでした。面白くありません。本当にやるべきことに時間とエネルギーを注げないという現状は決していいものではない。かなりのストレスですね。体調が悪くなるのは間違いなくストレス。同じモノをみても見え方が違ってくる。せめて自分のテリトリーだけでもしっかりとやりたい。選手には「私が他者を指導することの意味」も話します。うちの選手がしっかりとやってくれなければ「自分のところがきちんとやってないくせに偉そうに」といわれることになります。誰のためにもならない。
とにかく尋常ではないくらいのストレスに囲まれています。本当にすべてをblogに書いたら小説以上のものになると思います。自信があります・・・。
疲れ果てる。この言葉に尽きます・・・。