あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

愛の挨拶

2006-10-15 21:52:22 | Weblog
『愛の挨拶』



私は世間並みに携帯電話を1個持っている。

Auの携帯である。

昔はドコモの携帯を持っていたが、3回落とした。

1回目はお茶の水のアテネ・フランセでゴダールの「映画史」の試写会があった
ときだった。
2回目はJR中央線の中だった。

親切な若い女性が拾ってくれたというので、私は8月のカンカン照りの真昼に
三鷹警察署というところに初めて行って、無事にそいつに再会したのだった。

三鷹警察は、とても寂しい野原の中に、ひとり寂しく立っていた。

しかし、新橋で落とした3回目は、とうとう出てこなかった。

そのときに詠んだ歌を紹介しておこう。


「インド人イラン人誰かが僕のケイタイ持っているよ」


あなたは、変な歌だと思うだろう。

私もそう思うが、当時イランの人たちがどっさり東京にいたのだ。

それはともかく、私は落としてばかりいるドコモがいやになって、
Auに切り替えた。

当時鎌倉では電波とアンテナの関係でドコモが入らず
東京から急な仕事の電話が入ると、私はあわてて家を飛び出して近所の丘の上で
大声を出していたのである。

隣の家の主人はそんな私の哀れな姿を見てあざ笑っていたが、
その翌日、私は私とおんなじことをしている彼の姿を見たのだった。

それから私は、吉祥寺のとあるショップでAuの携帯を買った。

それはいつも私の机の左側に置いてある。

私が新しい携帯を買ったころ、私の仕事が急に減った。

フリーランスライターの私はどこにも行かず、朝から晩まで仕事の依頼の電話を待っていた。

しかし、携帯は鳴らなかった。

まれに鳴ると、それはろくでもないやつのろくでもない用事だった。

私は、それでも我慢した。

朝から晩まで、心優しいクライアントからの用命を心待ちにしていた。

けれども、やっぱり携帯は鳴らなかった。

毎月「あなたの携帯はあと600円無料通話ができました」と請求書には書いてあった。

それでも、私の携帯は鳴らなかった。

鳴らなかったが、私はそれを捨てようとは思わなかった。

やがて私は、節約のために夜間は電源を切るようになった。

毎朝9時半になると、私は携帯の電源を入れた。

毎晩6時になると、それを切った。

けれども相変わらず、携帯は鳴らなかった。

携帯は鳴らなかったが、私は必ず充電し、毎月1600円払い続けていた。

フリーライターのたしなみとして、家にいるときも、太刀洗に散歩に出るときも、たまに東京に出かけるときも携帯を手放さなかった。


それからずいぶん長い月日が流れた。


ある日のこと、私は新宿の文化女子大の教務の部屋にいた。

するとどこかから音楽が聴こえた。

私はじっと耳を澄ませた。

いつかどこかで聴いたことがある、懐かしい音楽だった。

英国の音楽であろうとは思ったが、しかし曲の名前は分からなかった。

やがてその音はだんだん大きくなり、静かな教務の部屋全体に響きわたった。

私はやっとこの名曲の名前を思い出し、傍らの若い教務の女性に得意そうに告げた。

「エルガーですよ。これはエルガーの『愛の挨拶』です」

すると、彼女が私に言った。

「あなたのこの黒いカバンの中で鳴っているようですわ」

そのときだった。
私は、このエルガーの着信音が気に入ってこの携帯を選んだことをようやく思い出したのだった…


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田草川弘著「黒澤vsハリウッド『トラ・トラ・トラ』その謎のすべて」を読む。

2006-10-15 19:54:57 | Weblog


『トラ・トラ・トラ』は1970年9月に世界で公開された日米合作のフォックス映画である。

プロデューサーにはエルモ・ウイリアムズ、米側監督にリチャード・フライシャー、日本側監督に解任された黒澤明に代わって舛田利雄と深作欣二を迎えて日米で撮影・製作された山本五十六と真珠湾攻撃の物語だ。

本書は黒澤を敬愛する作者が、燃えるような探究心に突き動かされつつ敢行した周到厖大な日米両国での調査をもとに、黒澤がなぜフォックス社のザリル&リチャード・ザナック父子から解任されたかという謎に迫る。

ザリル・ザナックはハリウッド映画界に君臨した大プロデューサーで、かつてジョン・フォードの名作のオリジナルフィルムに遠慮なくハサミを入れた豪腕編集者としても知られる。

本書によればザリルと黒澤はお互いに気に入っていたようだ。英雄肝胆あい照らすというところか。

またエルモ・ウイリアムズは「ザ・ロンゲストデー」(邦題史上最大の作戦)の総監督兼プロデューサーで、彼もまた世界の黒澤を尊敬し、『トラ・トラ・トラ』の日本側監督にクロサワを推薦・指名したのは彼であった。

本書によれば黒澤解任に至った最大の原因は、日米双方の当事者間の恐るべき誤解、そしてお互いの文化の違いである。

そもそも黒澤は(日本古来の習慣に従って)契約書に目を通してもいなかった。契約書には、黒澤の任務は「単なる職人仕事」であり、日本撮影部分だけの映像処理にすぎなかった。それだのに黒澤は日本のみならず米国部分の監督も自分が行うものだと、勝手に解釈していたのである。

この最初の段階でのボタンの掛け違いが最後に仇となる。天才的な映像作家の黒澤が自分の契約書を目にしたのは、彼が解任された後で、しかも自分の手元を探しても見つからず、なんと契約相手のフォックス社のコピーを見せてもらったというのだから驚く。

契約や米国との交渉はすべて彼が盲目的に信頼していた青柳プロデューサーが担当していた。お人よしの黒澤は自分の飼い犬の青柳にだまされだけだともいえるし、黒澤は映像産業に従事するビジネスマンとして失格であるともいえる。

法律や契約などを無視して自分勝手に相手側の意図を忖度し、「世界の中心がおのれである」という夜郎自大で無思想かつ情動的な行きかたが、わが国をかつて大きな戦争に巻き込んでいったが、これと軌を一にする無知で、粗野で、没論理で、尊大な芸術至上主義が、世界のクロサワを自爆に追い込んでいったのである。(この間の事情をわが国の昭和史や村上隆の「芸術起業論」と比較研究すると興味深いものがあるだろう)

全部で500ページになんなんとする大著も、最後まで読むと、「なあーだ」で終ってしまいそうだが、本書ではあちこちで思いがけない指摘に出会い、黒澤に関する旧来の見方を改める機会が多々ある。

例えば日米の医師の診断書を精査した著者は、黒澤の器質的障害がゴッホやドストエフスキーにも共通するもので、こうした先天的な疾患があったからこそ彼は独創的な作品を生み出すことができたのだし、その同じ欠陥が東映京都撮影所で致命的なトラブルを引き起こしたのだ、と語っている。

そういえばかつてこの私も、保津川と嵐山に臨むこの著名な撮影所で仕事をしたことがあるが、魔都京都などで大切な作品を撮影してはいけない。そのタブーを例えば京都人の大島渚ですら理解していたのに、お馬鹿な黒澤が慣れた東宝を蹴ってヤクザが徘徊するこの伏魔殿を選んでしまったことが敗因のひとつになってしまったことは疑いをいれない。

 黒澤解任後改めて20世紀フオックスが完成させた『トラ・トラ・トラ』は、真珠湾攻撃の迫真の大活劇シーンをのぞくと、まるで人間のドラマを欠いた中途半端な駄作だが、悲劇の司令官山本五十六を主人公と考えた黒澤が、もしも、もしも、彼の思い通りの『トラ・トラ・トラ』を創り上げていたとしたなら、それは未完の「暴走機関車」と同様、素晴らしい作品になったことだけは間違いないだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする