あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

「ドイツグラモフォン社創立111周年記念55CDセレクション」を聴いて

2010-03-16 08:28:07 | Weblog


♪音楽千夜一夜第117回


1898年の設立から2009年に至る111年間にこのクラッシックの名門レーベルが世に送り出した55枚のレコード&CDを集めた記念碑的なコレコションです。

アルファベット順にざっとご紹介しますと、まずはアバドの隠れたブラームスの名盤である「21のハンガリア舞曲集」から始まって、私のアバター名とも相通じるかのアマデウス弦楽四重奏団による「ベートーヴェンの作品59、131」。昔懐かしアルゲリッチの「ショパンの前奏曲集」、ミケランジェリの「ドビュッシー前奏曲集&映像」、私の嫌いなホセ・カレーラスをバーンスタインが徹底的に苛め抜いた「ウエストサイドストーリー」。

お次はブーレーズの「春祭&ペトリューシカ」の再録、御大ベーム翁の泣く子も黙る「モツレク」、アホバカドゥダメルの「マラ5」、ディスカウの「冬の旅」、フルニエのバッハの無伴奏、フリッチャイのヴェルディの「レクイエム」、フルベンの「シューマン&ハイドン」、ハーンの「バッハ協奏曲集」、ホロビッツの「モスクワ・ライヴ」、ギレリスのベートーヴェン、ヨッフムの「カルミナ・ブラーナ」、カラヤンのベト9、ケンプのベト協4,5番、クライバーのベト5,7番と続きます。

それからマルケヴィッチの幻想交響曲、マゼールのメンデルスゾーン、ミンコフスキーのラモー、ムターのブラームス、てんでつまらんランランのメンチャイ、ネトレプコ、ターフェル、ヴンダーリッヒ、クヴァストホフ、ヴィラゾンのアリア集、オイストラフのチャイコン、ポリーニのショパン、リヒターのロ短調ミサ曲、ロストロのドヴォコン、リヒテルのラフコン、ヴァルヒャのバッハ等々、これでもかこれでもかのてんこもりでたったの1枚208円でした!

んで55枚中のベストワンはというと、これが我ながら意外なことにイゴール・マルケヴィッチがコンセール・ラムルー管と入れたベルリオーズの「幻想」。定評あるミュンシュ、クリュイタンスのパリ管あるいはフランス国立放送管とのライブを2割は軽くしのぎます。あの陰険なカラヤンが生涯にわたってマルケヴィッチを日陰に追いやった理由がよくわかる恐るべき名演でした。

次点は初めて耳にしたヴィラゾンのアリア集、3位はわが偏愛の指揮者フリッチャイが振った一世一代の名演、ヴェルディの「レクイエム」でした。


♪百聞は一聴に如かずロバの耳に響く王様の音楽 茫洋




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鶴岡八幡宮の大銀杏見物

2010-03-15 09:18:51 | Weblog


茫洋物見遊山記第19回&鎌倉ちょっと不思議な物語第211回

遅まきながら先日の強風で倒れてしまった鎌倉八幡宮の大銀杏を見物に行ってきました。じつは鎌倉には、鎌倉時代の遺物としては大仏様とこの大銀杏くらいしか残されていませんから、今回の事件は、神社のみならず市民と世界遺産登録をめざす鎌倉市としても大きな損失だったのです。

現場は私のような物見高い見物客で大混雑。くだんの大木はすでに根元から切断されてその大部分が左側の空き地に積み重ねてありました。そしてかつて義経の妾静御前が頼朝夫妻の前で踊った舞殿では、若い新郎新婦の結婚式が何事もなかったかのように執り行われていました。

私は八幡様の階段のわきにある大銀杏を見るたびに、短刀を握りしめて木陰に隠れていた実朝の甥公暁の姿を想像したものです。しかし今日はいつも見慣れた30メートルに達する巨樹が、普段はあったその場所にありません。あるべきものがない。私たちの心にぽっかり空いた空虚さながらに……。この大いなる欠如が、逆にこの大銀杏のかつては偉大だった存在というものを、晴れ上がった青空に浮き彫りにしているようでした。

報道によれば、もういちどこの樹を立ち上げるために新芽をはやす養生を行うとか。もしその作業がうまくいったとしても、樹齢1千年を超すといわれる現在の大きさまでに成長するには何世代も要するわけですし、今日この大銀杏を取り囲んでいる群衆も私自身もとっくの昔に死に絶えているはずなのですが、それでも平気で偉大な神木の遺伝子を後世に残そうと考えるその心根の不思議さ。

思うに古代から受け継いだ私たちの心の奥底には依然として巨樹には神が宿るという原始的な信仰のような意識と心性が残存していて、それが縄文杉や屋久杉の前で自然に頭を垂れるという無意識の身体行動に出るのでしょう。今回も東京農大の植物の専門家がどうと倒れたこの大銀杏の前でしばし両手を合わせて祈っている姿がテレビで映し出されましたが、最先端の科学と前近代的な信仰との思いがけない出会は自然のようでもありながら、多少の違和感を伴って私の印象に残りました。


♪青空から忽然と消えし大銀杏甦れわれら一人一人の胸の裡に 茫洋



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佐々木秀一著「ロミー」を読んで

2010-03-14 08:15:56 | Weblog


照る日曇る日第333回


1938年にナチ占領下のウイーンに生まれ、1982年に43歳でパリ7区バルベ・ド・ジュイ通り11番地のアパルトマンで死んだ女優ロミー・シュナイダーの本格的な伝記です。

ロミーと聞いて誰もが思い出すのは、アラン・ドロンと共演したジャック・ドレー監督の「太陽が知っている」、ジョセフ・ロージー監督の「暗殺者のメロディ」、オーソン・ウエルズ監督との「審判」、クロード・ソーテ監督との「すぎ去りし日の…」「夕なぎ」、ルキノ・ヴィスコンティ監督との「ルートヴィッヒ」、ジャック・ルーフィオ監督との「サン・スーシーの女」辺りでしょうか。

特にヴィスコンティ監督の「ルートヴィッヒ」でオーストリア皇后エリザーベトに扮したロミーが、白馬に跨って乗馬服で登場するシーンは、思わず息を呑む泰西名画のような超絶的な美しさ。ワーグナーの音楽とあいまって、これぞヴィスコンティ美学の真髄、といたく感じ入ったものでした。

1961年、ヴィスコンティは当時相思相愛の仲であったロミーとアラン・ドロンを英国の戯曲家ジョン・フォード原作による舞台「あわれ彼女は娼婦」に出演させますが、この成功が、若き2人の華々しいキャリアの出発点になったようです。

もうひとつ私たちがロミーで思い出すのは、その早すぎた晩年の悲劇です。1981年7月5日の日曜日の昼下がり、ロミー最愛の息子ダヴィッドは当時の義父の両親の家に入ろうとしましたが、屋敷の正面の門は鍵がかかっていたために、囲い塀をよじ登って内庭に降りようとしたところ、薔薇の茂みに足をとられてバランスを失い、その下で待ち構えていた鉄格子の先端の槍の穂先に腹部を貫かれ、懸命の治療も虚しくその日の夕方、14歳7カ月のはかない生涯を閉じてしまいます。

この悲惨な出来事がそれでなくともエキセントリックなロミーの心身を痛々しくも直撃し、睡眠薬を乱用するようになった悲劇の女優は、それでもなお渾身の力をふり絞って遺作「サン・スーシーの女」を完成させたあと、まるで精根尽きたように、その翌年心不全で亡くなります。

小柄でフォトジェニックなロミー・シュナイダーは、わが国で一昔前に活躍した鈴木保奈美という女優にちょっと似たところがありました。2人とも、普段は道行く人が誰ひとりその存在に気付かないほど地味な女性なのに、熟練のヘアメイクの手にかかるとたちまち異様な美しさで銀幕に光り輝いたものでした。

♪普通の女性が光り輝く美女となるげに化粧とは恐ろしき道具よ 茫洋

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胸を打つソプラノとピアノの調べ 吉田秀和著「永遠の故郷 真昼」を読んで

2010-03-13 08:07:38 | Weblog


照る日曇る日第332回&♪音楽千夜一夜第116回


おそらく遺作のつもりで雑誌「すばる」で連載されている(であろう)吉田氏の最新作「永遠の故郷」の第3作です。

「夜」から始まり、「薄明」に続くこの「真昼」編は、死の亡き父君に献呈され、主としてマーラーの歌曲について述べられていますが、冒頭におかれた「愛の喜び」と題されたある女性の思い出が深く心に残ります。

これは、戦後間もなく音楽の原稿を書きはじめた吉田氏を担当していた、ある女性誌の編集者と氏の、音楽を通じた余りにも短すぎた心と心のまじわりを、淡々とつづった掌編です。

声楽家志望だった彼女は、父も兄も戦争で失い、音楽学校も断念せざるを得なかったのですが、彼女は歌うことが大好きで、吉田氏のピアノの伴奏でヨーハン・マルティーニの『愛の喜び』を「明るく澄んだきれいな声で」よく歌ったそうです。

愛の喜びは束の間のもの
愛の悲しみは一生終わらない
私は不実なシルヴィアのためすべてを捨てた
彼女は私を捨て、別の恋人を選ぶ
愛の喜びは束の間のもの
愛の悲しみは一生終わらない(吉田秀和訳)

そして吉田氏はこの18世紀のドイツ生まれのオルガニスト兼作曲家の「都雅な趣と優しい華やかな」、「革命前夜のロココ趣味の咲かせた小さな残んの花とでも呼んでみたい」代表作を、手書きの楽譜に則して小節ごとに解説を加えた後で、このささやかな2人だけの楽興の時の終わりについて触れています。

飛び込みの仕事で忙殺されていた吉田氏が、久しぶりに銀座のはずれにあった彼女の出版社を訪ねてみると、夏の終わりに風邪をひいた彼女は、それがこじれて肺炎になり、入院したけれど「先週亡くなりました」と告げられます。

人はあっけなく死ぬけれど、歌の思い出は、ずいぶん遠くの世界まで私たちを導いてくれるものです。この短いエッセイを読んでいると、若くして死んだ女性の美しいソプラノとピアノの調べが、春浅い私の書斎に聞こえてくるような気がするのが不思議です。


♪人は死に 詩と音楽が 永遠に残る 茫洋

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三枝昂之著「啄木 ふるさとの空遠みかも」を読んで

2010-03-12 09:01:59 | Weblog
照る日曇る日第331回

明治41年4月25日、思い出多き函館の街に別れを告げてからちょうど1450日目の明治45年4月13日、天才歌人石川啄木は、折しも八重桜が満開の東京小石川区久堅町の借家の貸間で、父と妻と友人若山牧水に見守られながら、あたら26歳の命を儚く散らして果てました。

その前月に死んだ母カツも、6月に生まれた次女房江も、妻節子も、長女京子も、みな結核で死んでいます。与謝野鉄幹晶子の「明星」への接近も、「自然主義」の取り込みも、偉大な小説家への夢の挫折も、大逆事件の衝撃を受けた社会主義思想の影響も、「一握の砂」の出版と名声も、突然の発病と無念の死も、すべてがたった1450日という短い時間と空間のなかでの生成だったことをおもうと、せめてあと10年の余命あらば、とその悔しさも一入です。

それはともかく、日本短歌史上に大きな足跡を遺した石川啄木の、余りにも短すぎた生涯とその芸術活動の軌跡を丁寧に追った本書は、「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買い来て/妻としたしむ」くらいしか諳んじられない私にとって格好の解説書でした。

著者によればわが国の和歌革新運動の第1期は、佐佐木信綱、正岡子規、与謝野鉄幹晶子夫妻によって明治30年代に「自我の詩」をキーワードとして担われ、続く40年代の第2期において、第1期の代表選手である与謝野晶子の「熱情」を「平熱」に冷却して、新たな「生活の詩」を生みだしたのが石川啄木だというわけです。

啄木は「歌のいろいろ」で「忙しい生活の間に心に浮かんでは消えてゆく刹那刹那の感じを愛惜する心が人間にある限り、歌というものは滅びない」と語っているそうですが、著者が要約する通り、「二度と帰ってこない命の1秒の、その刹那刹那を愛惜する心を、実人生となんらの間隔がない心持で歌うこと」こそ、この天才歌人の短歌観だったのでしょう。

さらに啄木は単なる生活派短歌の草分けであるだけでなく、昭和に入って渡辺順三が主導したプロレタリア短歌運動や前川佐美雄を代表者とするモダニズム短歌の源流でもあると著者は説き、その余波は、綿矢りさ、金原ひとみの小説の描写にまでも及んでいると説くのですが、

はたらけど/はたらけど/猶わが生活楽にならざり/ぢっと手を見る
こみ合える電車の隅に/ちぢこまる/ゆふべゆふべの我のいとしさ
「石川はふびんな奴だ。」/ときにかう自分で言いて/かなしみてみる。
空家に入り/煙草にみたることありき/あわれただ一人居たきばかりに
あたらしき心求めて/名も知らぬ/街など今日もさまよいて来ぬ

などの作品をほとほとと朗読してみると、確かにそういう形跡があるような気配もしてくるのでした。

 啄木の遺言により土岐哀果の手で出版された歌集「悲しき玩具」は、啄木の言葉「歌は私の悲しい玩具である」から採られたそうですが、自在に創造することができた和歌を「へなぶり」と見下していた啄木の心根がかえって悲しみを誘います。
ちなみに「悲しき玩具」の巻頭におかれた啄木の生涯最後の歌は、次のようでした。

眼とづれど、/心にうかぶ何もなし。/さびしくも、また、眼をあけるかな。


♪もう二度と帰ることなきいまのいまをわが生の証とて歌にとどめむ 茫洋


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梟が鳴く森で 第1部うつろい 第38回

2010-03-11 08:00:55 | Weblog
bowyow megalomania theater vol.1

「カレーおいしいですか」

「おいしいです……。えーと、えーと、岳君桜木町のドリームランド行きたい」

「え、ドリームランドって桜木町のどこにあるの?」

「えーと、えーとね、桜木町にある」

「駅のそばですか?」

「駅のそばです」

「ドリームランドでなにするの?」

「乗り物に乗りたいお」

「どんな乗り物?」

「わかりません」

「じゃあ今度お父さんとドリームランド行こうね」

「はい。今度お父さんとドリームランド行きます」

「どうやって行く?」

「えーと新型の京浜東北線に乗る」

「どこから?」

「大船から」

「いつ行くの?」

「今度です」

「誰と行く?」

「お母さんとお父さんと行く……。もうお話終わりです」


♪なのでなのでを連発すれどなのでの前がてんで分からん 茫洋


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ハイティンク指揮ベルリン・フィルで「マーラー第3番」を視聴する

2010-03-10 08:20:36 | Weblog


♪音楽千夜一夜第115回


マーラーのニ短調交響曲は、全部で6つの楽章で構成されています。はじめの3つの楽章は、じゅげむじゅげむちんぷんかんぷん、一体何が言いたかったのかマーラー自身もよく分からなかったと思いますが、アルトが深々と「おお人間よ、気をつけよ!」と神秘的な第一声を発するやいなや、複雑怪奇な楽想はがぜん精気を取り戻し、続く子供たちの天使の歌や女声合唱が、彼岸へのあこがれを高らかに歌い上げるのです。

そうしてこの興奮が一段落してから、現世を生きる事の喜びと悲しみがニ長調4/4拍子で奏される終曲で切々と歌われるのですが、ここにこそ彼の本領が発揮されるのです。

最初の3章こそいささか平板な演奏にとどまったとはいうものの、ベルナルド・ハイティンクは海千山千のベルリンフィルを率いて、この屈指の難曲を見事に演奏してのけます。長らくベイヌムの薫陶を受けて老成したこのオランダ人は、かつてギュンター・ヴァントの晩年がそうであったように、ただ書かれた楽譜を忠実に辿るだけで、作曲者の夢見た世界をありのままに私たちに手渡してくれる融通無碍の境地に到達したようです。

フローレンス・クイヴァーのアルト独唱、テルツ少年合唱団、エルンストゼンフ女声合唱団のアシストを得たベルリンフィルが、1990年12月にベルリンのフィルハーミニーで演奏した映像を、いまはなきフィリップスレコードがライブ収録したものです。


わが息子指差し「あんな児には近づかないのよ」と教える母親 茫洋

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ジョン・フォード監督の「わが谷は緑なりき」を見て

2010-03-09 08:50:40 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.26

 名匠ジョン・フォードが監督したこの映画の原題は「How Green Was My Valley」です。
直訳すれば「私の谷はなんと緑色だったことよ!」という意味なのでしょうが、これを
「わが谷は緑なりき」とさらりと文語体で言い表したところが見事です。「ここに泉あり」と並ぶ名ネーミングではないでしょうか。

 しかし、かつては豊かな自然に恵まれていたという英国ウエールズ地方の美しい谷間は、ほとんど顔を出しません。その谷底に生きるモーガン一家をはじめとする労働者たち、そして彼らに生活の糧を与え、彼らの暮らしを支えるとともに時として彼らの命を奪う谷底の下の炭坑そのもの、最後に全編を彩るウエールズの民衆の合唱が、この映画の主人公なのです。

 そこで描かれるのは育ちゆく多感な少年の内面、男と女の宿命の恋と悲劇、貧しい家族同士や近隣、友人たちの間の友愛の絆とその断裂、労働者同志の連帯と対立、家族炭坑主と労働者たちとの階級的対決、正義感やプライドを持ちながらも信仰心薄く品性下劣な民衆の複雑怪奇な心根ですが、ウエールズではないもののアイルランド出身のジョン・フォード監督は、あたかもそこが自分の故郷であるかのように、この谷間に生きる人々の清濁を併せ呑むように、すべての喜怒哀楽に対していつくしみを懐きながら、美しい白黒の映像を繰り出します。

 主演は少年ヒューを演じたロディ・マクドウオール、少年の姉でヒロインを演じたモーリン・オハラ、その恋人役の牧師を演じたウオルター・ピジョンなどですが、ウキペデアによれば、当時あんなにかわいらしかったロディ・マクドウオールは、後年「猿の惑星」でコーネリアス博士を演じたというので驚きました。そして清純な美貌を誇ったモーリン・オハラは当年とって90歳でまだ存命だというのですから、これまたびっくりです。

 さらにウキペデアには、長男のイヴォールの妻であるブローウィン役のアンナ・リーが撮影当時妊娠していたのにフォードはそのことを知らずに、彼女を階段から転げ落ちるシーンを撮影したために流産させ、生涯このことを悔やんだと書かれているのですが、私が見たNHKの映像にはこのくだりは登場しませんでした。
思うに例によって2時間を超える長尺物をつくってしまったフォードのオリジナルを、20世紀フォックスの帝王と称されたこの映画のプロデューサー、ダリル・F・ザナックが自分でずたずたにカットしたに違いありません。


♪梅の花花との間に萼ありて 茫洋
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ビリー・ワイルダーの「アパートの鍵貸します」を見ながら

2010-03-08 13:18:24 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.25

まず原題は確か「アパートメント」というのですが、これを「アパートの鍵貸します」とした宣伝マンは偉い。こっちのほうが事の本質をとらえています。
それから誰もがいうように、名優ジャック・レモンとシャリー・マクレーンの持ち味をフルに生かしきった名匠ビリー・ワールダーの演出の冴えは見事です。

私が勝手に思うのには、演出は指揮と同じで、思い切って速くするかうんとテンポを遅くすると効果的です。中途半端がいちばんつまらない。
例えばワイルダーやジョンフォードやトリュフォーは、トスカニーニに似て物語をキビキビ進行させ、観客に生理的な快感を与えます。小津はその正反対で、私の大好きなチエリビダッケのように些細なデテールの描写に時間をたっぷりかけるのですが、そこから普段は見えない世界が見えてくる。いわば映像と音響のミクロの決死圏ですね。

さて、この映画の冒頭は主人公が勤務する生命保険会社で、巨大なオフィス空間に大勢の社員たちが整然と並んでいます。それはアメリカ資本主義特有のテーラーシステムが猛威をふるう非人間的な管理体制を象徴しているようですが、物語はそういうカフカの「審判」的状況を踏まえながらも、この会社資本主義のアホらしさを漫画批評的に描き出すことによって笑い飛ばし、最後は等身大の愛のある生活を取り戻した恋人たちにフォーカスを当てて、ワイルダー一流の「泣き笑い人生の応援歌」をララバイしながら閉幕するのです。

酒も涙も温かい……アメリカの古く良き理想主義なるものが、まだマンハッタンのそこここに確かに存在していた時代の懐かしい置き土産といってもよい映画ではないでしょうか。


♪古き良きアメリカの黄金時代二度と帰らず 茫洋


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「網野善彦著作集別巻」を読んで

2010-03-07 09:53:33 | Weblog


照る日曇る日第330回

マルクスは「ドイツイデオロギー」の中で、「古代が都市から出発したのに対して、中世は農村から出発した」と述べましたが、網野善彦氏の駆け足の精力的な生涯は、この有名なテーゼをあくなき文献調査と実証的研究の積み重ねを通じて、よしんば西欧の中世がそうであったとしても「我が国の中世はむしろ都市と都市的なものから出発した」と完全に逆転させるために蕩尽されたと言えるのかもしれません。

戦後間もなく日本共産党の過激な政治闘争に加担するなかで氏が1951年に書いた最初の学術論文「若狭における封建革命」と「封建制度とはなにか」(本巻に収録)では、当時のマルクス主義の公式を絶対化し、歴史の中で浮き沈みする民衆の個別具体的な存在と生活を完全に捨象する傾向が端的にあらわれていました。

こうした若書きを徹底的に自己批判し、あらゆる空虚なイデオロギーと決別して輻輳する現実のただなかに沈潜した氏は、中世荘園や荘園公領制の構造、職能民の生業と流通、列島の都市や海川山野に生きる百姓(ひゃくせい)のライフスタイルの実像を摘出する作業を通じて、列島の政治経済社会が14世紀終盤の中世前期で根本的に転換し、その構造的転換がつよく現在に及んでいることをあきらかにしながら、2004年2月に肺がんによってその試行の大成の道を余儀なく絶たれるまで、偉大な歴史学者としての本領を遺憾なく発揮し続けました。

ほとんど徒手空拳の試行錯誤を断行するなかから、氏はマルクスを疑い、石母田正、松本新八郎を疑い、「農民」を疑い、「封建制」を疑い、やがて「日本」そのものを疑い、「戦後」を疑い、「天皇」を疑うことになったのです。
学界のすべての既成の権威と秩序を疑い、世の常識のすべてを疑い尽くした人が不毛の荒野の上に構築した巨大な城塞を仰ぎ見ながら、あとに続く私たちがなすべきことは、この強固な城と構築者そのものをも徹底的に疑うことによって大胆に乗り越えていくことではないでしょうか。

        ♪己も世界も疑え疑えすべてを疑え 茫洋




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東博で「長谷川等伯展」を見る

2010-03-06 10:52:33 | Weblog


茫洋物見遊山記第18回

没後400年を記念して東京国立博物館で開催中の「長谷川等伯特別展」を見ました。
彼の代表作として有名な6曲1双の「松林図屏風」はこの博物館の所蔵品なのでこれまでも何回か見物してきたのですが、まずは再晩年の傑作から鑑賞しておこうと第7室に足を運びました。

これはやはり東洋西洋すべての絵画の中でも極め付きの名品です。
等伯がこの屏風に描こうとしたのは、もはや現実の松林ではなく、その松林の彼方にある彼の心象風景です。この松や霧や風が象徴するものは、法華経の教えを胸に秘め、信長、秀吉、家康という戦国時代の領袖の御機嫌をとり結びながら必死で生きた天才絵師の、権力と抗い、己の理想を求め、激しく律動する心の軌跡そのものなのです。

私たちがここで見出したものは、墨の濃淡の限りもないバリエーションの裏側に潜んでいる人間存在の強烈な光と影、地上の欲望から脱して善悪の彼岸に遊びたいと願う孤独な魂の彷徨、そして絵筆1本でこの世にあらざる究極の美を目指そうとした絵師の、もはやなにものにもとらわれない自由奔放な藝術的理想の境地、すなわち安土桃山時代が生み出した孤高のパンクの精神なのです。

能登の絵仏師として若くして頭角をあらわした長谷川信春の武器は、その写実的な造形力と華麗な色彩力でした。会場の最初に陳列されている「十二天像」はその最良の証です。
やがて京に出て等伯と名乗った田舎絵師は、法華経ゆかりの羅漢像や達磨像、中国伝来の山水画の技法を身につけ、あの有名な大徳寺山門の壁画や千利休像など幾多の佳作を製作し続けます。

次第に実力と名声を兼ね備えてきた等伯が飛ぶ鳥を落とす勢いの狩野派と対抗して取り組んだのは、桃山時代を代表する豪華絢爛な金碧画でした。会場狭しと並べられている京都智積院所蔵の「楓図壁貼付」や「松に秋草図屏風」には、等伯の破綻を恐れない大胆な構図と奔放な色彩が全面展開されており、彼のシュトルムウントドランクな自立精神と鬼神も恐れないアバンギャルドな実験精神は、わが国の絵画史始まって以来の破格のものであったことがよく理解されます。

「柳橋水車図屏風」のポップや「萩芒図屏風」の象徴主義、「波濤図」のアールデコなど同時代の西洋絵画にはるか先駆ける斬新さと迫力は、守旧派の狩野派にはけっして見られないていのもので、これら作品を眺めていると、彼らがなぜあれほど執拗に等伯派を敵視したのかという理由も、おのずと得心できるというものです。

一代の英雄秀吉が死んで治国平天下を目指す家康の時代に入ると、等伯の関心は水墨画に向かいますが、「瀟湘八景図屏風」や「竹林七賢図屏風」などの気宇壮大な構図と植物や岩山のまるで動きだそうとするような生き生きした表現は、私があまり評価しない雪舟の山水画とは正反対の光彩陸離の素晴らしさです。
また「山水図襖」の怪奇幻想、「竹林猿猴図屏風」や「竹虎図屏風」における動物の愛すべきユーモラスな表情も逸することができないでしょう。

このように時代とともに微妙に変化した彼の作風でしたが、彼が多年にわたって培ってきた多種多様なジャンルにおける色・柄・デザインの技法が集大成され、6曲1双の小さな世界に炸裂したものが、冒頭で触れた「松林図屏風」の巨大な精神世界でした。

次第に混雑してきた会場を去る前に最後の一瞥をくれた私の脳裏に浮かんだのは、現世をすみやかに解脱し、宇宙における栄枯不滅の生命の透明な輝きを願う、かの桃山のパンクアーチストの見果てぬ夢でした。
 

   ♪今日も元気だ桃山パンク黒墨捲れば紅蓮の炎 茫洋
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塚原琢哉写真展「シレジア」を見て

2010-03-05 08:53:40 | Weblog


茫洋物見遊山記第17回

シレジアというのはポーランドの地名です。かつてこの地方には、19世紀の終わりから20世紀の終わりごろまで、欧州の重化学工業を支える巨大な炭坑がありました。しかしシレジアは、現在ではわが国の三井三池と同様、生産施設も工場も住宅も誰ひとり訪れることもない見捨てられた廃墟となっています。

塚原琢哉がレンズを向けたのはその第1次産業と労働運動のかつての栄光の拠点でした。しかし黄昏の光にセピア色に照らし出された作業塔やコンベアや事務所や集会場や職員住宅には過去へのノスタルジーは感じられません。不在の労働者たちへの懐旧や悲嘆の情も皆無です。それらはいまはやりの建築遺産などでは断じてなく、時空を超えた物質それ自体なのです。かつて己をつくった人間からは遠く離れて、ただ一個の物として屹立している物たちを眺めていると、「物の生命は人間よりも長い」という不滅の真理を、ここでもまた思い出さないわけにはいかないのでした。

なお本展は今月いっぱい東京工芸大学写大ギャラリーで開かれていて、来る3月6日にはフォトグラファー自身によるギャラリートークもあるようです。


 ♪人よりも物の命は長ければ物に過ぎぬと驕るなかれ人 茫洋


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梟が鳴く森で 第1部うつろい 第37回

2010-03-04 08:29:05 | Weblog


bowyow megalomania theater vol.1


「岳君、南武線に乗ったことある?」

「ないお。ありません」

「南武線に乗りたい?」

「乗りたいです」

「岳君、京浜東北線乗った?」

「乗りました」

「新型ですか旧型ですか」

「旧型です」

「新型は乗った?」

「乗れなかったお」

「新型に乗りたいですか?」

「乗りたいです」

「新型に乗ってどこへ行きたいですか?」

「えーと、えーと、桜木町行きたい」

「桜木町のどこですか?」

「健康福祉センター」

「そこでなにしたいの?」

「えーと、えーと、お昼ごはん食べたい」

「どんなご飯ですか?」

「カレーですよ」


♪欠陥車作りし咎を身に負いて謝り続けるトヨタ社長 茫洋


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梟が鳴く森で 第1部うつろい 第36回

2010-03-03 06:53:22 | Weblog


bowyow megalomania theater vol.1


「そうか、西武新宿線は南武線に似ているのか。岳君、西武新宿線に乗ったことある?」

「ありますよ」

「いつ?」

「9月3日に武蔵療養所へ行って広瀬先生に会いに行ったお」

「広瀬先生はなんておっしゃった?」

「こんにちは、っておっしゃった」

「武蔵療養所は何駅?」

「萩山駅です」

「鎌倉駅から萩山駅はどうやって行くの?」

「えーと、横須賀線に乗って山手線に乗って、高田馬場から西武新宿線に乗って小平まで行って、小平で西武拝島線に乗り換えて萩山まで行って、駅から歩くの」


♪金メダルが2つあったら良かったのにねと語る焼肉屋の柔らかな心 茫洋

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「新版クラシックCDの名盤演奏家篇」を読んで

2010-03-02 08:58:59 | Weblog


照る日曇る日第329回&♪音楽千夜一夜第114回


音楽評論家の宇野功芳、中野雄、福島章恭の3氏によるクラシックCD批評です。私の好き嫌いや評価とは異なる部分もありますが、小沢征爾の音楽の程度がいかに低いか、アイザック・スターンを中核とするユダヤ・マフィアがチョン・キョンファなどの異端分子をいかに過酷に弾圧したか等々、あっと驚く音楽談義が満載です。

さて本邦に音楽評論家多しといえども、吉田秀和氏と宇野功芳氏ほど我が国のクラシックファンに決定的な影響を与え、今なお与え続けている人物はいないでしょう。
前者は当時無名だったグレン・グールドを世に送り出し、晩年のホロビッツの演奏を「壊れた骨董品」と評したことで、後者は偉大な指揮者朝比奈隆の令名を一躍高めたことによって、凡百のヒョーロン家どもがロバの耳の持ち主であることをあざやかに証明してみせました。朝比奈氏本人がつねづね「自分の今日あるは宇野氏のお陰です」と語っていたことがなによりの証拠です。

しかしそれだけではありません。クナパーツブッシュやシューリヒト、ムラビンスキーの指揮の素晴らしさを声を大にして唱え続け、ついにその「洛陽の音価」を高からしめたことも宇野氏ならではの大きな功績でしょう。既成の権威や固定観念に左右されず、ただ自分の耳だけを信じて演奏の良し悪しを断固として下す氏には幾百万の敵がいるのでしょうが、熱狂的な信者やファンもまた多いようです。

その宇野氏が、本書で耳寄りな話を書いています。なんでも私の大嫌いな元N響音楽監督のシャルル・デュトワはめっぽう女性にもてる色男で、(かつてはアルゲリッチと結婚していたことは私も知っていましたが)、韓国の天才的ヴァイオリニストのチョン・キョンファ、そして最近ではわが国の諏訪内晶子と付き合って子をなしたために、それがもとで夫からのDVに遭ったというのです。あくまでも噂話だと断ってはありますが、もし本当ならそれが彼女の長期にわたる低迷の理由ではないでしょうか。

ケンウッドの代表取締役を務めてから音楽プロデューサーとして世界を駆け回っている中野氏のお好みが、かつてロイヤル・コンセルトヘボウで長くコンマスを務めたヘルマン・クレバースとは我が意を得たりの思いでした。このクレバースとウイーンフィルのヘッツエルこそ、わが偏愛してやまないヴァイオリニストでしたから。
また中野氏がハーゲンやエマーソン、アルバンベルクSQなどを評価せず、歴史に残るカルテットは、ブッシュ、バリリ、ウイーン・コンツエルトハウス、アマデウスSQと断言しているのもさすがです。

最後に、宇野、中野両氏にくらべて30歳程も若い福島氏が、「CDの寿命はおよそ30年だ!」と断言しているのには驚きました。実際つい先日私が昔買ったグラモフォンのホロビッツの盤面が陥没崩壊しているのを目のあたりにして衝撃を受けたばかりだからです。3度の食事を2度にしてせっせと買い集めた数万枚の私のコレクションの運命やいかに?

♪美しきヴァイオリニストをたぶらかす希代の色事師とく本業に戻れ 茫洋

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