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あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

スピルバーグ監督の「インディ・ジョーンズ魔宮の伝説」を見て

2012-02-14 16:35:03 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.200

上海のマフィアとのトラブルがインドに飛び、飛行機から命からがら脱出したり、例によって大蛇子蛇に絡みつかれたり、狂信的な邪教の徒に命を狙われたり、超高速トロッコで逃れたり、東洋少年が大活躍したり、霊験あらたかな石を持ち帰って部族の長に感激感動を与えたりするので、結局は勧善懲悪の素晴らしい映画なのだろう。

スピルバーグはこの映画のヒロイン、ケイト・キャプショーと撮影直後に結婚したそうだが、ふーんこういうタイプが好きなんだと分かってしまう映画でもある。ともかくこの監督の面白冒険活劇趣味とそれゆえの低俗さを物語る超娯楽大作です。




     温かき布団に包まれ寝た夜に南太平洋複葉郵便機のパイロットになりし夢見る 蝶人
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林望訳「謹訳源氏物語七」を読んで

2012-02-13 09:42:56 | Weblog


照る日曇る日第494回

本書に収められたのは「柏木」「横笛」「鈴虫」「夕霧」「御法」「幻」の六つの巻です。

源氏が目に入れても痛くないほど大事にしている正室の女三の宮が、かつての頭中将の息子、柏木に犯されて子をなすくだりはまことに因果応報。若き日の源氏が桐壺帝と藤壺に対して冒したあやまちを身を以て追体験させる紫式部の冷徹な断罪は、主人公のみならず現代の読者の襟をも粛然として正しめずにはおきませぬ。

自責の念に駆られてはかなくもみまかった柏木の正妻、落葉の宮を狙うのは、今は亡き葵上との間に出来た源氏の一人息子、夕霧。さうして源氏ジュニアのいかにも不器用な横恋慕をはさんで、ようやく老境にさしかかった主人公を突如襲うのが、愛妻、紫上の死であります。

そんなに大切な妻ならもう少し生前に浮気を控えて大事にしてあげればよかったのに、と思っても、後の祭りとはこのことぞ、このことぞ。若き日の輝かしい光も急激に色褪せ、五二歳の雲隠を目前に控えた我らが主人公の落日の悲哀を、作者は残酷なまでに抉りだすのでした。

林氏の現代日本語訳は、谷崎潤一郎訳等に比べるといささか格調には欠けますが、これまでのいずれの訳者をも凌ぐ分かりやすさとテンポの明快さは素晴らしいものがあります。



       太刀洗泉に二個のおたまが浮かんでる如月十日は春の訪れ 蝶人
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講談社版天皇の歴史最終巻「天皇と芸能」を読んで

2012-02-12 08:23:54 | Weblog


照る日曇る日第493回

いつの間にかつらつら全10冊に目を通してしまったわけだが、どれも天皇と天皇に付随する制度の周縁を遠回しにぐるぐる迂回しているだけの空論閑文ばかり。天皇制を歴史的にあからめてくれようかという秘かな願いが叶えられることはただの1冊もなかった中で、落ち穂拾いのこの最終巻は予想を裏切って面白かった。

第1部の「天皇と和歌」では勅撰和歌集を逐次取り上げながら王朝和歌の特徴を具体的に論じているので、天皇をから離れた本邦歌論史としても大いに参考になる。第2部の「芸能王の系譜」では声わざの帝王としての後白河院、琵琶の帝王としての後鳥羽院、両統迭立の中で秘曲伝授を争った後深草院と後醍醐天皇等をとりあげ、第3部の「近世の天皇と和歌」では寛永文化を主導した後水尾院の和歌復興運動を、第4部の「近世の天皇と芸能」では天皇の学問・和歌と並んで茶の湯の歴史を概説しているが、この最後の小論文が私にはいっとう興味深かった。

 というのも家の近くに茶道宗徧流不審庵があったり、親戚にお茶の師匠で生計を立てている人がいたりするのだけれど、私はどうも当節の表層儀礼作法と門閥利権商売化した現代茶道というものに抜きが難い不信と偏見を抱いているからである。

かつて私は裏千家の千宗室氏が主宰する茶会なるものに臨席し、彼らが主導する作法通りに和菓子を頂いてわび茶を喫し、利休15代目の宗匠より有り難い講話?なぞも拝聴したのであるが、これが正統の茶道なりという感触のかけらすら体得できなかった記憶がある。

2畳か3畳の狭い茶室に閉じこもってちょん切られた朝顔や古臭い茶器をひっくり返して褒め殺したり、たかが1杯の茶を喫するのに長時間しびれを切らして正座したり、年代物の茶碗をぐるぐる回したり、宗匠の下らない人生訓を聴かされるのが正式な作法だと思っていたら大間違いだよ。

堺の商人や信長、秀吉、家康などがよってたかってもっともらしい禅の修行まがいに陰湿に歪めてしまったわび茶だが、茶道には平安初期の団茶、滋養茶、中世以来の衣冠を付けず裸行での乱遊飲茶や賭け茶、闘茶、嗅ぎ茶、酒席における能や少女歌舞音曲付きの回茶など、もっともっと奥が深くて開放的な楽しい喫茶文化があることを、改めて本書で学び直してほしいものである。


小泉岡松伊藤大木年明けてどんどん死ぬなり十二所村住人 蝶人
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マリオ・バルガス=リョサ著「悪い娘の悪戯」を読んで

2012-02-11 12:14:40 | Weblog


照る日曇る日第492回


ノーベル賞作家の2006年度の作品を読みました。

作家自身を思わせるペルー生まれのうぶな青年がリマ、パリ、ロンドン、東京、マドリッドを転々としながら運命の悪女を少年時代から激愛し、徹底的に入れ上げ、渇望しながら終始追いもとめ、たまにはセックスさせてもらいながらもまた逃げられ、翻弄され、日本ではヤクザのフクダに全部いいとこを持っていかれ、あまつさえ虎の子の貯金を入れ上げてもてんで悔いず、籍を作るために結婚してやり、またしても他の男に逃げられ、頭にきて娘ほど年の離れた若い女と浮気をしたり、それで頭に来た女が怒鳴りこんできたり、そうこうしているうちに2人ともどんどん歳をとり、とうとう万骨枯れて死病に取り付かれた女と再会した主人公は半世紀に及ぶ大恋愛の最後の瞬間をかのポウル・ヴァレリーが「海辺の墓地」を書いた南仏セトの海のほとりで大団円を迎えるのです。

モデルのような容姿、いたずらめいた濃いはちみつ色の瞳、ぽってりした小さな唇の持ち主にいちころで魅了された男性の半生記なのですが、そういう経験のないわたくしにはあんまり感情移入が出来ないし、このヒロインの魅力がいまいちのみこめない。でもきっとよっぽどチャーミングな小悪魔のようなファム・ファタールだったんでしょうな。

プルーストが言うように、あばたもえくぼ、すいたはれたも病のうち、虚仮の一念岩をも通す。信じる者はとうとう思いを遂げるんでしょう。されどよく出来た恋愛小説だとは思いますが、わたしにはてんで思いを馳せることすらできない絵空事の世界でした。


奇声上げらあらあ泣きながら走る人憎んでいるのはこの私とは 蝶人

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黒木和男監督の「父と暮らせば」を見て

2012-02-10 07:15:12 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.199


私は仕合わせになってはいけないのですと恋人との結婚を拒む宮沢リエの娘。いやいやそんなことをしたって死んだ者は生き返るわけじゃない。その分まで幸福になっておくれと譲らぬ原田芳雄男の父。まるで歌舞伎の名場面のように江湖の紅涙をぐっしょり絞るこの映画最大の愁嘆場です。

1945年8月6日午前8時15分のその瞬間、父はまともにその光を身に受けたのですが、娘はお地蔵様の陰になって九死に一生を得る。これは近所にある鎌倉十二所の光触寺に安置された頬焼地蔵の逸話と同じです。

その父親が一人娘の身の上が心配で、死んでも死にきれない亡霊となって懐かしの我が家を出たり消えたりするという原作者井上ひさしの設定が心憎い。キャメラが家の上に移動していくと、それが原爆ドームの天井になるというラストシーンもことのほか印象的で、松村禎三の控えめな音楽もそれがかえって心を打つ。

わたしはこの秀作を世界中の人々に見てもらいたいと願わずにはいられませんでした。


         雲見れば心哀しむまして愛犬ムクの形なればなおさら 蝶人
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2011年大晦日のベルリンとウイーンの音楽会を視聴して

2012-02-09 11:05:39 | Weblog



♪音楽千夜一夜 第245回


去年の大晦日に欧州の2つの首都で行われた年越しコンサートとオペラを録画で見物しました。

ベルリンンフィルを率いてジルベスターコンサートを振ったのはお馴染みのサイモン・ラトル。エフゲニー・キーシン迎えて演奏したグリーグの協奏曲を中心にストラビンスキーの火の鳥やラベル、ドボルザーク、ブラームス、シュトラウスなどいいとこどりのアラカルトでしたが、さしたる感銘を覚えず。

ひところの低迷を脱したかに見えたこのコンビですが、ティーレマンやヤンソンスの大活躍に比べるとそうとう格が落ちる。そろそろ別の指揮者に全トッカエしてもいいのではないでしょうか。

いっぽうウイーンでは正指揮者フランツ・ウエザー・メストを迎えた国立歌劇場で恒例の「こうもり」が上演されましたが、どこでどの曲をやってもつまらないこの謹厳実直だけが取り柄のこの人物の棒では、到底かつてのミュンヘンの夜のクライバーのシャンパンが沸騰するような喜悦感は皆無でした。

ゆいいつの目玉はその演出が当地生まれの名人オットー・シェンクだったことで、なんと御年81歳の当人が終幕のカーテンコールに登場すると、ここぞとばかりに嵐のような歓呼の声が劇場に渦巻きました。表層だけの薄っぺらな演出家が跋扈するなかで、彼のようなオーソドクスなやり方の値打ちをようやく世界のオペラファンも分かってきたのではないでしょうか。


貧乏人から情け無用にむしり取る鎌倉税務署に災いあれ 蝶人
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コスタ・ガヴラス監督の「ミッシング」を見て

2012-02-08 08:16:53 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.198


1973年に米国が軍部と結託して南米チリのアジェンダ政権をクーデターで圧殺して事件の内幕物。行方不明になった息子を案じて現地にやって来た保守的な父親が嫁と一緒に捜索するうちに米国大使館の陰謀に気づき、次第に事の真相に肉薄していく。

結局息子は米国の同意の元でチリ軍に虐殺されていたのであるが、無数の犠牲者が血まみれで横たわるサッカー場を2人が一人一人確認する場面は凄絶そのもの。おそらくこの映画が暗示するような問答無用の拉致、逮捕、拷問、処刑、殺戮が全土で繰り広げられたに違いない。

恐るべき国家犯罪の犠牲者となった息子のために父親は「われわれは、ひとつの国がその国民が無責任なせいで、共産主義化するのを無為に見ている必要はない」と述べたと言われるキッシンジャー大統領補佐官以下の政治家を訴えるのだが、結局彼らを裁くことはできなかった。

ジャック・レモンとシシー・スペイセクの渋い演技が心に残る。昔この映画の撮影監督に巴里に来たら遊びに来給えと言って名刺を貰ったがとうとう行かなかった。というのはやはり同じことを言われてノコノコ出かけた「エマニュエル夫人」のフランシス・ジャコベッティという監督が、若いスタイリストの尻ばかりを追っかけていて東洋人のわたしにつれない対応をしたからである。


       ただひとりバーキン乗せてエアフラは放射能の島に舞い降りたり 蝶人
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ルネ・クレマン監督の「海の牙」を見て

2012-02-07 08:18:29 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.197

第2次大戦末期の北海を舞台に、あくまでも第3帝国の勝利を目指す人々のUボートの中での戦いと離反を名匠が最後までスリルとサスペンスを保ちながら演出しています。

敗色濃厚のスエーデンのオスロ港から南米脱出を図る潜水艦に乗り合わせたのはナチスドイツの将軍やゲシュタポ、ムソリーニ支持のイタリア財界人夫妻やノルウエーの学者と娘、途中で誘拐されたフランス人の医師(アンリ・ヴィダル)たち等の国際色豊かな顔ぶれが興味深い。呉越同舟の呪われた敵味方を乗せたUボート内部の息詰まる人間関係と最後の対決がみものだが、将軍の妾に扮したフロランス・マルリーが妖艶。

たった一人で潜水艦に取り残された医師が米軍によって救助され、1947年製作のこの映画のネタを執筆するという筋立てになっているが、いずれにしても潜水艦が登場する映画はすべて面白い。



一匹の山猫となりて巣に潜む 蝶人
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ルキノ・ヴィスコンティ監督の「ベリッシマ」を見て

2012-02-06 07:02:06 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.196


戦後間もない1951年製作の巨匠の初期の作品。チネチッタが映画に出演させる少女をローマ市内で公募したので、主人公の母親が愛娘を女優にしてやろうとなけなしのお金をはたいて懸命に奮闘する。

コネを作ってやると称するいんちきな青年に新居の建築資金をだまし取られたり、なぜか求愛されたり、夫に怒鳴られたりと、まるでリエママのように涙ぐましく滑稽などドタバタ劇が続くが、どういう風の吹きまわしか最終候補に勝ち残り一躍トップスターへの道が開かれるはずだったのに、それが娘の本当の仕合わせにならないと知ったイタリアのタレントママ第1号は、正気にたちもどって巨額の契約金を拒否するのでした。めでたし、めでたし!?

されど母も娘も美しい(ベリッシマ)が、あれだけ苦労した役をどぶに捨てるとはなんだかもったいない話じゃないか、という気がしないでもない。母親役のアンナ・マニャーニが強烈な存在感を発揮して今夜の夢に出てきそう。


マレーシアと中国の女子学生に「日本人なんかに負けるな」と就活アドバイスしている微妙なわたし 蝶人
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角田光代著「空の拳」を読んで

2012-02-05 08:34:08 | Weblog


照る日曇る日第491回

日本経済新聞の夕刊に連載されていた拳闘小説がついに大団円を迎え、私は感動と一掬の涙と共にその最終回を読み終わった。小説を読んで感動の涙を流したのは遠くはロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」、近くは高橋源一郎の「官能小説家」以来だから久しぶりだが、涙は小説以外でも毎日のように大量に噴出させているからたいした話ではありませぬ。

それよりも角田光代は凄い。なんたって女だてらに草食男も三舎を避ける後楽園ホールへ日参して見事ボクシング小説を書きおおせたのだから。

ジャブ、ジャブ、ストレート、アッパーカット!

リングの上では血湧き肉躍り、鍛え抜かれた肉体と肉体が激しく切りむすぶ。
主人公の立花はじめこの未聞の格闘技に魅入られた無名の青年たちが黙々と真剣勝負に挑む姿を、著者はやわな編集者空也の視線を借りてなんと生き生きと、美しく、チャーミングに造形することに成功したことか。

 立花のトレーナー、萬羽の姿もかの丹下段平をそこはかとなく忍ばせ、これは名作漫画「あしたのジョー」の平成小説版かと思う読者もいるだろうが、これはもっと身近でもっと切なく、もっともっと卑小な人間が精一杯戦い、生きる姿がいとおしくなるような、そんな素敵な現代のロマンなのである。

ジャブ、ジャブ、ストレート、アッパーカット!

この作品を通じて角田光代は、苦難に満ちた現代の日本に生きている私たちに力強いエールを贈ってくれたと言うべきだろう。それにつけても、一日も早い単行本化が待たれる。 


ジャブ、ジャブ、ストレート、アッパーカット! さあ生き抜くんだ俺たち!! 蝶人

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村山由佳著「放蕩記」を読んで

2012-02-04 09:20:31 | Weblog


照る日曇る日第490回

挑発的な題名に惹かれて手に取ってみたが、いったいこの小説の主人公のどこが放蕩なのかさっぱり分からなかった。

放蕩とは広辞苑によればほしいままにふるまうこと。特に酒食に耽って品行が修まらないこと等とあるが、ヒロインは少女時代にちょっぴりレスビアンの真似をしたり、高校時代に2人のクラスメイトと先輩と致したり、大学時代に出版社勤務のリーマンとラブホテルへ行ったりするくらいで、この定義のいずれにもあてはまらない。

その後もいろんな男と寝まくったというのだが、よしんば彼女が毎晩違う男と床入りしたからといってそれを色情狂と称しても放蕩娘とは言えないだろう。それはこのヒロインンがきわめて意志強固な倫理的な志操の持ち主であり、肉欲に溺れて男を漁らざるをえないマンイーターとは鋭く一線を画しているからである。

それでも彼女は粋がって自分を放蕩娘と命名したいのかもしれないが、彼女が放蕩するのはより深く人世を知り生き抜くための方法的放蕩であって、肉が肉に溺れるほんたうの放蕩とは似て非なるものである。

本作では関西弁で饒舌に自己表現する主人公の母親が登場して大活躍するが、どこの家庭でも母と娘とはまあこんな関係だろう。そう大騒ぎして書きこむほどのことはない。花村萬月ばりの波乱万丈の放蕩記を期待したのに、出てきたのは世間でよくある母娘の葛藤話。これを平凡な文体で延々と書き連ねられると読むほうもうんざりしてくる。こんな作家がよく直木賞をもらったものだ。



鬼は外福は内!無限の闇に投げました 蝶人

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五味文彦著「西行と清盛」を読んで

2012-02-03 07:32:28 | Weblog


照る日曇る日第489回

奇しくも元永元年(1118年)に生まれた文武2つの領域に激しく生きた人物の生涯をその生誕から死亡まで淡々と叙述した書物である。ちなみに清盛は治承5年(1181年)に64歳で、西行は文治6年(1190年)に73歳で亡くなっている。両者とも当時としてはかなり長寿であり、長きにわたって本邦の武家政治と歌道に決定的な影響を与えた偉人といえるだろう。

清盛については最近毎回6千万円の製作費を投じて製作されたという大河ドラマが始まったので逐次そちらを見物して頂くとして、この本では元は清盛と同じ武人で後に出家して勧請僧兼歌僧となった佐藤義清(のりきよ)こと西行法師の和歌を年代ごとに紹介、解説しているので参考になった。

彼の歌は「山家集」「聞書集」「残集」の3つの家集や後鳥羽上皇が勅撰した「新古今和歌集」などに治められており、とりわけ「年たけて又越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山」、「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」、「こころなき身にもあわれは知られけり鴫立澤の秋の夕暮」などが名歌として知られている。

その他にも「死出の山越ゆる絶え間はあらじかし亡くなる人の数続きつつ」、「あはれあはれこの世はよしやさもあらばあれ来ん世もかくや苦しかるべき」、「きりぎりす夜寒に秋のなるままによわるか声のとほざかりゆく」などが現代に生きる私たちの心情にも響く繊細な歌心を伝えているが、それ以外の膨大な和歌の大半は今日の私(たち)の目で見れば、正岡子規の習作と同様ほとんど月並みの凡歌であり、天才実朝の鋭い感性に及ぶべくもない平凡な作風である。

 ところで偉大な歌人や芸術家にとって最も大切な要件は、富士の高嶺を人知れずゆるやかに支える広大な麓を備えていることであって、その枢要さは天を突き刺す一点の錐におさおさ劣らない。彼に高貴な頂点あることを熟知している私たちは、彼の広大な中下層ヒンターランドのゆるく凡庸な世界に安んじて遊ぶことができるのである。


凡歌あり駄作の山ありて秀歌あり 蝶人
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吉川一義訳プルースト「失われた時を求めて3」を読んで

2012-02-02 07:11:00 | Weblog


照る日曇る日第488回

スワンとオデットの恋が冷める果て凡庸そのもののサロン生活が開始されると、彼らの娘オデットと主人公との恋物語が延々と繰り広げられる。

そして知的な男性の片割れであるところの私は、スワンと同様その常として相変わらずおのれの前頭葉でひねくりまわした恋人の幻像に翻弄され、疲労困憊し、とうとう念願の恋を成就することなく自縄自縛に陥って自爆する。浅はかと言うも愚かで哀れな男子の所業である。

恐るべきは著者のその真情と心情に対する通暁であって、これはやはりみずからの恋愛体験とその心理的解剖の微分積分のなせるわざであろう。頁をはぐって読むだに恐ろしく涙ぐましい所業の数々がミクロの決死圏で描破され、当時の巴里の社交界ではこういう恋愛ごっこが競うように実践されていたことをうかがわせる。

されど虚飾と退廃の陰に咲く絵画や文学や演劇への愛はつねに私たちをこの世の果てへの旅に誘う。フェルメールの恐らくは最初の理解者であったプルーストのするどい審美眼が、この奇跡の書物を誕生させたのである。


               どうしようもなく牡どうしようもなく牝  蝶人
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エリア・カザン監督の「紳士協定」を見て

2012-02-01 07:27:11 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.195

監督がエリア・カザン、プロデューサーはダリル・ザナック、主演がグレゴリー・ペックというハリウッド映画史上最強の黄金コンビによる堂々たるユダヤ擁護映画である。

すぐる大戦の前から私たちの先輩が故なく同じアジアの同胞をチャンコロとかチョウセンジンなどと嘲罵して故なき優越化に耽ったように、碧眼紅毛どもは短足黄班の私共をジャップと故なく蔑んだ。非民民ユダヤ人アイヌイヌイットその他もろもろを問わず世界中で階級階層民族差別は古くから存在し、そしていまなお存続しているのである。

さうしてこの差別の真因がどこにあるのかは、その不条理を完膚なきまでに解剖し尽くしたこの映画を観終わっても、まだしかとは把握できない。非ユダヤの身でユダヤ人になりかわってその隠微な差別の根の深さを体験したグレゴリー・ペックのように、私たちも一生に何回かは民族や身分や地位を舞台衣装のように脱ぎ着できたら差月史観を肉体的に相対視できてよろしかろうが、眼前の人生劇場がそれほどドラマ仕立てに出来ていないのがまことに残念である。

新聞記者のペックの恋人が映画の最後でようやくおのが人種差別の当事者であったことに遅まきながら気がついてその差別に反対する行動を取るに至り、ついに価値観を共有するにいたった恋人がひしと抱き合うところで本作は終わるが、このいかにもヒューマニズムと理想主義の残滓芬芬たるカザンらしいエンディングを「甘い甘い」とせせら笑いながらも、かの鬼のザナックはフィルムに鋏を入れなかったのである。

ペックの恋人役のドロシー・マクガイアはつまらないが、母親役のアン・リヴィアの風貌が忘れ難い。この映画を観終わった私は、わが国が生んだ一代の梟雄豊臣秀吉が尾張名古屋の村落のしがない針売りであったことをはしなくも思い出した。


耕君と雪の下の小林理髪店に行き同級生の小林君に散髪してもらいました。蝶人
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