きんちゃんのぷらっとドライブ&写真撮影

「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

中国・天津 魯迅が愛した内山書店復活 日本から輸入した本も 日中交流の懸け橋に

2021-10-05 07:38:04 | 文化・芸術・演劇など
中国・天津 魯迅が愛した内山書店復活 日本から輸入した本も 日中交流の懸け橋に
中国の文豪、魯迅(ろじん)が愛した書店として知られる「内山書店」が7月10日、中国・天津に開店し、盛況です。同書店はもともと1917年に日本の内山完造と妻の美喜が上海で開業。45年の日本の敗戦後に閉店し、中国では76年ぶりに復活しました。同書店を運営する趙奇(ちょう・き)社長(38)は「先達に学び、中日交流の懸け橋にしたい」と語ります。



9月下旬、天津市内のモールにある内山書店を訪ねました。明るい店内には魯迅の書籍や日本の文化に関する本、絵本などが並んでいます。日本から輸入された本や雑貨もあり、親子連れや若者でにぎわっていました。


店内に掲げられている写真を説明する趙奇さん

当時の外観再現
壁にはかつての内山書店の写真や書店に関係する文化人の写真が並んでいます。奥に入ると、当時の書店の外観が再現され、著名な泥人形職人、張宇氏が作成した魯迅像が飾られています。店内にはカフェもあり、コーヒーの香りが漂います。
趙さんは「開店して2カ月半、予想以上に多くの人が訪れてくれ、歓迎されている。天津だけでなく、北京や上海、広州など各地から来た人もいた」と笑顔で話します。
上海の内山書店は、晩年の魯迅や日中の文化人、社会活動家らが集まる場となっていました。店内にはテープルと椅子が置かれ、高級宇治茶「雁が音(かりがね)」が無料で飲めましたした。「文芸漫談会」と呼ばれるサロンがときどき開かれ、単に本を売るだけではなく、日中民間人の交流の場でした。
内山書店の精神は、上海にある内山夫妻の墓碑に刻まれた「以書騨為津梁、期文化之交互(書店を懸け橋として、文化交流を期する)」という言葉に表れています。この言葉は新しい書店にも掲げられています。
「内山書店」は東京にもあります。完造の弟、嘉吉(かきち)が1935年に開業し、いまも営業が続いています。趙さんは天津のテレビ局のディレクターだった2013年に同書店を取材してドキュメンタリーを制作。その精神に感銘を受けました。
天津で書店を復活させたいと奔走。同市当局の協力を得て、東京の内山書店が商標使用を認める形で開店が実現しました。趙さんは「内山完造の精神を受け継ぎ、中日相互理解の窓口・懸け橋にしたい。さらに中日の友好と交流の場にしたい」と意気込みを語ります。
天津の内山書店はサロン「漫談会」を週末などに開催。内山書店や魯迅、日中の文化などに関係する講師を呼び、参加者との交流の場としています。



書店内でくつろぐ人たち

友人と出会う場
趙さんは「コーヒーも良いものを安く提供している。お客の要望で日本酒も置くことにした。昔の本や資料なども展示している。訪れた人が新たな本や友人に出会い、楽しんでもらう場にしたい。完造の内山書店も楽しいからこそ、毎日のように魯迅やさまざまな人たちが通ってきた」と語ります。「何十年、何百年と愛される書店にしたい。いずれは上海はじめ北京など中国各地に出店したい」と夢を膨らませます。
日中関係の悪化が指摘されていますが、趙さんはこう強調しました。「対話が多ければ、対立は少なくなる。内山書店は相互理解と交流の場として小さくても役割を果たしたい」

「しんぶん赤旗」日刊紙 2021年10月1日付掲載


かつての内山書店は上海にあったと。晩年の魯迅や日中の文化人、社会活動家らが集まる場に。高級宇治茶「雁が音(かりがね)」が無料で飲めたといいます。
今は、コーヒーも良いものを安く提供している。お客の要望で日本酒も置くことに。
日中関係の悪化が指摘されていますが、趙さんはこう強調。「対話が多ければ、対立は少なくなる。内山書店は相互理解と交流の場として小さくても役割を果たしたい」
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生誕140年 魯迅、日中友好 揺るぎない意志 「多喜二虐殺」知り怒り

2021-10-03 07:10:56 | 文化・芸術・演劇など
生誕140年 魯迅、日中友好 揺るぎない意志 「多喜二虐殺」知り怒り
北京魯迅博物館副館長 黄喬生(こうきょうせい)さんに聞く

9月25日は、中国の文豪、魯迅(ろ・じん、1881~1936年)の生誕140周年でした。魯迅は日本への留学経験もあり、上海にあった内山書店を通じて多くの日本人と交流するなど日本との関係も深い作家です。日本が中国への侵略を始める中、魯迅は当時の日本の人々とどのように親交を深めたのか、魯迅研究者である北京魯迅博物館の黄喬生副館長に聞きました。(北京=小林拓也)



北京魯迅博物館の魯迅像の前に立つ黄喬生副館長(小林拓也撮影)

魯迅はどのような時でも、平和的で誠実な態度を保ち、尊大に振る舞うことも自分を卑下することもありませんでした。魯迅の生きた時代は、日清戦争(1894~95年)、満州事変(31年)、第1次上海事変(32年1月28日)など、中日関係が緊張状態にありました。
魯迅は青年時代に日本に留学し、藤野先生(注1)らと関係を築きました。帰国してから亡くなるまで、日本の民間人との交流の際、誠実で率直な態度を持ち続けました。例えば、増田渉氏(注2)とは深い師弟関係を結びました。また、野口米次郎氏(注3)に対しては誤解や歪曲(わいきょく)を批判し正しました。
魯迅が書いた「題三義塔」(33年)という詩の中にこういう一節があります。
「劫波(ごうは)を度(わた)り尽くして、兄弟在り。相逢(あ)いて一笑すれば、恩仇混(ほろ)ばん」(大災厄の波を渡り終えたさきに、両国の兄弟がいる。めぐりあって一笑すれば、古い仇恨〈きゅうこん〉は消滅するだろう)日本の軍国主義による侵略に憤慨する一方、民間の友好的な交流に希望を寄せ、平和を追求していたのです。
魯迅は、揺るぎない意志を持ちながら、思いやりの気持ちを持ち、その精神は偏狭でも過激でもありませんでした。中日両国の人民が学ぶ価値のある態度です。



魯迅 中国の作家・思想家。本名・周樹人。1881年9月25日生まれ。出身は漸江省紹興。1902~09年に日本に留学し、仙台では医学などを学びました。晩年は上海に住み、内山書店の店主、内山完造ら日本人と交流しました。代表作に「狂人日記」「阿Q正伝」など。

読者の支持得る
魯迅博物館には、「同志小林多喜二の死を聞いて」と題する魯迅が書いた文書を展示しています。日本共産党員の作家、小林多喜二が1933年2月20日に日本の特高警察によって虐殺されたことは、中国でも悲しみと怒りを呼びました。当時、小林多喜二の小説は中国でも翻訳、出版され、多くの読者の支持を得ていました。
魯迅や茅盾(ぼう・じゅん)、田漢(でん・かん)ら著名な文学者らは、小林多喜二の文学や業績を称賛する文章を発表し、遺族のための募金活動を呼びかけました。
魯迅は以下の文書を発表しました。




其の実証の一つ
「日本と支那の大衆はもとより兄弟である。資産階級は大衆をだまして其の血で界(さかい)をえがいた、又えがきつつある。しかし無産階級と其の先駆達は血でそれを洗っている。同志小林の死は其の実証の一つだ。我々は知っている、我々は忘れない。我々は堅く同志小林の血路に沿って前進し握手するのだ」
この文章は魯迅が自ら日本語で書いたものとされており、日本の雑誌でも紹介されました。
魯迅は、同志への思いと、正義のための憤怒の気持ちからこの文章を書いたと考えています。これは中日両国の大衆が鮮血で結んだ友情の証しです。

◆注1
藤野厳九郎(ふじの・げんくろう、1874~1945年)。
医師、教育者で、魯迅が1904年から仙台に留学した際の恩師。当時の日本社会に中国を軽んじる風潮がある中、魯迅のノートを詳細に添削し、懇切に指導しました。魯迅の自伝的短編小説「藤野先生」で詳しく紹介されてい
ます。
◆注2
増田渉(ますだ・わたる、1903~77年)。
中国文学者。1931年に上海で晩年の魯迅に師事。「中国小説史略」などの講義を受けました。
◆注3
野ロ米次郎(のぐち・よねじろう、1875~1947年)。
詩人、小説家、評論家。1935年に上海で魯迅と会談。野口が、中国の国防と政治を外国に任せたらどうかと提起し、魯迅は「同じ財産をなくすなら、強盗にとられるよりはばか息子に使われた方がよい。同じ殺されるなら、自国の人の手に殺されたい」と答えたと記録されています。

「しんぶん赤旗」日刊紙 2021年9月30日付掲載


魯迅の「狂人日記」「阿Q正伝」などは、若い時にかじり読んで、変わった文学作家とのイメージでしたが…。
小林多喜二の特高警察による虐殺を知り、魯迅が「日本と支那の大衆はもとより兄弟である。資産階級は大衆をだまして其の血で界(さかい)をえがいた、又えがきつつある。しかし無産階級と其の先駆達は血でそれを洗っている。同志小林の死は其の実証の一つだ。我々は知っている、我々は忘れない。我々は堅く同志小林の血路に沿って前進し握手するのだ」と語っていることは知らなかった。
改めて、日中友好の絆として魯迅を見直したい。
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日本共産党兵庫県文化後援会 第13回作品展

2021-09-21 07:27:19 | 文化・芸術・演劇など
日本共産党兵庫県文化後援会 第13回作品展
2021年10月27日(水)~31日(日)
午前10時~午後6時(最終日は午後4時まで)

鑑賞無料
兵庫県立美術館 王子分館 原田の論ギャラリー東館2階
神戸市灘区原田通3丁目8番30号 王子動物園前


文化後援会第13回作品展募集01
文化後援会第13回作品展募集01 posted by (C)きんちゃん
主催:日本共産党兵庫県文化後援会
652-0811神戸市兵庫区新開地3丁目4番20号
FAX:078-577-2240 hgbunka@gmail.com


作品展出品の仕方
会期 10月27日(水)~10月31日(日)
午前10時~午後6時(最終日は午後4時)
(作品搬入は26日(火))


2021年第13回文化後援会作品展を以下の要領で行います。みなさんの出品をお待ちいたします。
●下記用紙に、必要事項(立体の方は立体欄に○)を記入してお送りください。締切10月10日
郵送又はFAX、メールをご利用ください(下記)
●作品は1人5点までです。
それ以上の点数はご相談ください。
●出品料:作品2点まで2000円、3点目から+500円。3点の場合2500円、5点の場合3500円
横幅が既定の1m20cm以上のものは2点扱いとなります。
(30歳未満の方の出品料は半額とします)
出品料は搬入日当日に、受付でお渡しください。


文化後援会第13回作品展募集02
文化後援会第13回作品展募集02 posted by (C)きんちゃん

★細則=大きさの規定にご注意ください。
①大きさ=平面作品は2m四方以内(書の場合は縦2.5m。横長の場合は幅2m以内)。面積が4m²以内。
立体は平面積が1㎡(高さに関係なく)以内
②作品は各自で展示できる必要な措置をしてください。吊り下げヒモは立夫なものに。
③作品のガラス装丁は禁止させていただきます。
※不明点はご相談ください。


文化後援会第13回作品展募集03
文化後援会第13回作品展募集03 posted by (C)きんちゃん

◎搬入日=10月26日(火)(10時~12時30分)
午後1時から展示作業。
兵庫県立美術館王子分館 原田の森ギャラリー東館2階展示室(搬入口は会館南側道路)
657-0837 神戸市灘区原田通3丁目8番30号
◎搬出日=10月31日(日)午後4時~5時
午後5時までに必ずお引き取りください。
◎申込み・問合せ・連絡先
652-0811
神戸市兵庫区新開地3丁目4番20号
日本共産党兵庫県委員会内 兵庫県文化後援会
FAX:078-577-2240(文化後援会あて明記)
Email:hgbunka@gmail.com


ご鑑賞は予約なしでOK。ご自由に見に来てください。お待ちしております。
出品も、審査なしでOK。ただし、極度に品位を損ねるものはお断りします。
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出版文化を守りたい 商品総額表示の義務化中止求め署名を集める竹重みゆきさん(30)

2021-03-22 06:54:27 | 文化・芸術・演劇など
出版文化を守りたい 商品総額表示の義務化中止求め署名を集める竹重みゆきさん(30)
国が4月に狙う、商品の総額(消費税込み価格)表示の義務化。大阪市の竹重みゆきさん(30)=書店.出版社経営=は、中止を求めてオンラインで署名を集めています。「出版文化を守りたい」との思いからです。(青柳克郎)

経営する書店に立つ竹重みゆきさん=大阪市此花区(本人提供)

10年前から小さな書店を営んでいます。マニァックだけど面白い、少部数の同人誌や自費出版物などを約2000タイトル(2万冊)置いています。
「シカク出版」という小さな出版社の代表もしており、年1~2冊、新刊を出しています。3年前に出した、各地の団地の給水塔を紹介する本は全国の書店やネット通販で徐々に売れており、増刷も視野に入っています。

全て付け替え
総額表示が義務化されれば、全ての在庫の価格表示を付け替えなくてはならず、大変な手間と経費がかかります。コロナ禍のもと、負担に耐え切れず貴重な本が絶版になったり、存続が危ぶまれる出版事業者が続出したりするのではないかと心配です。また影響は小売
店や飲食店など、広範な業種に及びます。
小さな事業者でも存続できる経営環境を守ってほしい―そう思い、3カ月ほど前から同業者と署名を呼びかけ始めました。昨年、「森友問題」で自殺した元財務省職員の妻が再調査を求める署名を集めているのを目にし、「意見を言うのに、署名という手段があるんだ」と知りました。
現在、集まっているのは7000人分ほど。SNS上で協力が広がり、芸能人や他業種の業界団体からも賛同が寄せられています。

国会に届ける
2月にいったん、署名を日本共産党と立憲民主党に届けました。共産党の清水忠史衆院議員、大門実紀史参院議員は真剣に話を聞いてくれ、「義務化中止へ力を合わせましょう」と激励してくれました。市民の声を、SNSで広げるとともに、署名にして国会に届ける
ことが大事だと感じました。
私にとって、本はつらい時期を救ってくれた存在です。
母は漫画家で、家にはたくさんの絵本や漫画、小説がありました。子どものころ病弱で入退院を繰り返し、家にいることが多かった私は、それらを片端から読みました。おかげで寂しいと思ったことがありません。
デザインの専門学校に通っていたころ、高度経済成長期に建てられた大阪のビルを紹介するミニコミ誌に触れ「こんなユニークな本があったのか」と驚きました。一時、漫画家の夢を追った私は「今度は、面白い本を出す人たちの力になりたい」と、いまの仕事を始めました。
最近はコロナ禍で生じた空き時間を生かし、英語を勉強しています。アメリカのビル専門誌とか面白そうじゃないですか?日本と外国の同人誌など、深くて面白い世界を紹介し合いたい。そのためにも声をあげ続けます。

「しんぶん赤旗」日刊紙 2021年3月17日付掲載


消費税の表示。5%→8%→10%と目まぐるしく変わる税率に、税別表示と税込み表示の併記が認められてきました。
しかし、今年の4月からは税込み表示に統一。
商品の店頭表示は、値札を変えるだけで済みますが、書籍の場合は商品一つひとつの値札を変えないといけない。

非常にコストがかかります。
いまからでも総額表示の中止を。
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人生つづった日記できた 作家、写真家 椎名誠さん

2021-02-17 07:50:38 | 文化・芸術・演劇など
人生つづった日記できた 作家、写真家 椎名誠さん
作家、ときどき写真家の椎名誠さん。旅の記録をまとめた初の写真集『シベリア夢幻』から35年の節目に、『こんな写真を撮ってきた』を出版しました。
竹本恵子記者



しいな・まこと=1944年東京都生まれ。
『犬の系譜』で吉川英治文学新人賞、『アド・バード』で日本SF大賞。『わしらは怪しい探検隊』シリーズなど著書多数。映画監督としても活躍(撮影・野間あきら記者)



新著『こんな写真を撮ってきた』
筆者の限定サイン本が人気です(新日本出版社・税別3000円)


パタゴニア、ケニア、モンゴル…。風のように世界を駆け巡って撮ってきた写真と書き下ろしの文章です。なぜか懐かしく、心にしみます。
よくもこんな写真集ができたもんだ、と。
シアワセです。これまで30冊ほどある写真集は、自分で写真選びをしてきましたが、選ばれるままに編んでいただいたのは初めてです。新鮮で、スリリングでした。時間や場所に関係なくまとめられた人生の写真日記になっています。
写真集を見ていてよく感じるのは、高額な費用をかけて「どうだまいったか」という圧力。でも、ぼくは、写真のなかにどのくらい思いがこめられているかが大切だと思います。どこの国かわからない人たちだけど、満足気にこっちをむいて笑っている。その人たちの背景、暮らしを想像させる。そういう写真に、「ああいいな」と思うんです。


どんな国でも目線の高さ同じに
生まれて初めて写真を撮られた、チベットのうどん屋さんの姉妹。やや緊張して笑いかけてきます。

ここにはカイラス聖山に向かう途中で寄りました。最初はこんな笑顔はありませんでした。3年後に紙焼きの写真を届けました。生まれて初めて写真を見た彼女たちは「自分じゃないみたいだ」と不思議そうにしていました。この子たちも、いまは子どもや家族がいるのでしょうか。
大切にしてきたのは、目線、まなざしです。途上国に行くとどうしても、上から目線で撮ってしまいがちです。
ぼくはしゃがんで同じ目線で撮ります。相手は警戒しているので、最初は不安な表情をする。でも少し打ち解けてくる。笑いながらしゃべりかけてくれたら、意味はわからなくても、相手の言葉を反復してみる。すると笑われます。そこを「しめた」と撮るんです。
マサイ族に望遠レンズをむけて、槍(やり)がとんできたこともありました。


抱き続けたカメラマンの夢
業界誌の編集長をへて『さらば国分寺書店のオババ』で作家デビユーしたのは1979年。カメラマンはそのずっと前からの夢でした。
兄が写真マニアで写真雑誌を購読していました。そのなかに心安らぐ写真を見つけて、いつの間にか傾倒していったんです。
何をやっていいかわからなくて、写真の大学に入りました。学生には写真館の子どもが多かった。でもみんな、なんだか暗くて夢がなくて、会話もなくてね。
そのころ、ぼくは友人4人と共同生活をする苦学生で、自分のカメラも持っていませんでした。大学の課題が出たときだけ、貸しカメラ屋で学生証と引き換えにカメラを借りて、写真を撮り、自分で焼きました。人形町など下町の風景をね。提出した写真、返してほしいな。


大学を中退。22歳のころ、京都であてもなく乗った電車には本を読む少女がひとりいました。

いい写真でしょう。当時、おんぼろの中古カメラを手に入れ撮っていました。
ものを書くようになって、写真にからむ仕事をしているうちに、憧れだった『アサヒカメラ』の連載依頼があり、連載は廃刊まで34年間続きました。夢は抱き続けているとかなうものです。
テレビのドキュメンタリーの仕事で辺境地帯にもがんがん行きました。何度か死にそうになりました。それでも断りませんでした。好きでしたから。


親が撮る子ほど愛満ちた写真はない
私小説『岳物語』の主人公となった長男、岳くんの写真も収録。さまざまなジセンルの写真があるなかで、一番貴重で素晴らしいのは、世界共通して「家族写真」だ、と。

親が撮る子どもの写真ほど、愛と優しさに満ちている写真はほかにはありません。見ている者の心を豊かにします。
いま、岳一家は、近くに住んでいて、行き来しています。一番上の孫、風太くんとは親友です。一番下は極真カラテをやっていて、ボクサーだった岳と異種格闘技戦を本気でやっています。僕はレフェリーです。変なうちでしょ。
家族が寝食を共にしている時期ってほんの数年、貴重なときです。
76歳。近著にはエンディングノートをテーマにした『遺言未満、』(集英社)も。
世界中を旅して、いろんな葬儀を見てきました。文化や生活、死生観に違いがあります。平等なのは、みんないつか「死ぬ」ことです。
大げさな葬儀には反発があります。質素に、風や水に流れていくような自然葬にしたい。
まだまだ連載も、書き下ろしもあります。物書きとしてはありがたい。好きなんですね。

「しんぶん赤旗」日曜版 2021年2月14日付掲載


さすが椎名誠さん。人生をつづった写真集ができたのですね。
僕も、人物を撮った思い出の写真も…。


2011年8月末、京都東山で撮った舞妓さん。

2012年4月、小野市・神戸電鉄粟生駅前で、粟生太鼓を打ち鳴らす少女。

写真集は注文済み。今日にも届くと思います。お楽しみです。
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