【銭壷山の紹介】
東は安芸灘に面し、北西は由宇川沿いの平地、南は大畠・滝川の山すそに囲まれた山塊の最高峰。高さは540.1m。
古くから由宇(ゆう)、神代(こうじろ)、日積の境界点となり、1955年神代村神東地区との合併で柳井市との境界点となりました。
山の名前については、付近に不審火が見られるので調べてみると銭壷が出てきたとか、海賊の埋めた銭壷があったなど由来は明確ではありません。
十楽寺縁起によると、平安時代前期の弘仁年間、山上に鳩子山峯の坊という一宇があって、弘法大師が書かれたと言われる三尊の絵像があり、平安時代後期の長徳年間に恵心(えしん)という人が木像を刻み安置しました。その後、鎌倉時代宝治年間、一体は神代光明寺へ、一体は日積十楽寺へ、一体は由宇明楽寺へと降ろされ、お堂を建立したとあります。
山頂より北西へ少し下りたあたりに、権坊藪という所があり、江戸時代末期ごろまで修行僧が住んでいたということです。井戸や礎石の跡、数基の墓石などが残っています。
【1998年3月 由宇町教育委員会】
山頂には、電波塔が立っています。

アマチュア無線家もやってきて、通信を楽しんでいます。

東は安芸灘に面し、北西は由宇川沿いの平地、南は大畠・滝川の山すそに囲まれた山塊の最高峰。高さは540.1m。
古くから由宇(ゆう)、神代(こうじろ)、日積の境界点となり、1955年神代村神東地区との合併で柳井市との境界点となりました。
山の名前については、付近に不審火が見られるので調べてみると銭壷が出てきたとか、海賊の埋めた銭壷があったなど由来は明確ではありません。
十楽寺縁起によると、平安時代前期の弘仁年間、山上に鳩子山峯の坊という一宇があって、弘法大師が書かれたと言われる三尊の絵像があり、平安時代後期の長徳年間に恵心(えしん)という人が木像を刻み安置しました。その後、鎌倉時代宝治年間、一体は神代光明寺へ、一体は日積十楽寺へ、一体は由宇明楽寺へと降ろされ、お堂を建立したとあります。
山頂より北西へ少し下りたあたりに、権坊藪という所があり、江戸時代末期ごろまで修行僧が住んでいたということです。井戸や礎石の跡、数基の墓石などが残っています。
【1998年3月 由宇町教育委員会】
山頂には、電波塔が立っています。

アマチュア無線家もやってきて、通信を楽しんでいます。

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