きんちゃんのぷらっとドライブ&写真撮影

「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

ビキニ事件 被ばく漁船員の証言② 89年に被災者と知る

2020-02-17 13:19:01 | 平和・憲法・歴史問題について
ビキニ事件 被ばく漁船員の証言② 89年に被災者と知る
高知 氏原一昭さん(82)

高知県室戸港に所属していた第五良栄丸に乗っていた元マグロ漁船員・氏原一昭さんは、82歳です。
1945年、中学校を卒業する直前に第五良栄丸(10~20人乗り)に「かしき」(料理担当)として乗ったのが最初の航海です。
父親は戦死し、食糧難だったため、一昭さんの肩に母親と妹の生活がかかっていました。
氏原さんは、航海中には毎日3回、操業中は夜食を含む4回の食事をつくりました。
船の上では、真水は貴重なため、米を洗うのも海水でした。雨が降れば、みんな、せっけんをもって甲板に出て体を洗いました。
洗濯も海水。風呂はないので、海水で体を洗うのが日常です。
「食事は魚の煮つけや刺身、みそ汁とご飯です。魚の肝が好きな人は焼いて食べました。マグロの胃袋は大きくて丈夫なため、胃袋に内蔵や心臓を入れて、船の冷蔵庫に保管しました。マグロがぶつかり傷つくのを防ぐ緩衝材の役割もありました。日本に着くと内臓を持って帰って食べました」と語ります。




売れないマグロ
第五良栄丸は、パプアニューギニアの北あたりを操業。1~2カ月かけてマグロのはえ縄漁を行いました。
1954年3月1日にアメリカが行ったビキニ水爆実験により第五福竜丸が「死の灰」をかぶり、久保山愛吉さんをはじめ船員が病院に入院するなど、大きなニュースになりました。
第五良栄丸が水揚げのために寄港したのは大阪でした。
港でマグロをおろすと、放射線測定器(ガイガーカウンター)で測られ、数値の低いものは取引され、高いものは船に戻されました。
氏原さんたちが持ち込んだマグロは放射線量が高く、沖で捨てるよう指示され、「室戸に戻る途中で捨てた」と語ります。
また、「船を除染するよう言われ、室戸の港に戻る前に、海水で船の外も中も洗って、次の漁に備えていた」といいます。
捕ったマグロは売れず、配当金はなく、お米が配られただけでした。

胃潰瘍、膀胱がん
氏原さんの記憶では、第五良栄丸の船員はガイガーカウンターで調べられず、船しか検査されません。
船をかえながら、65歳までマグロ漁船に乗り続けた氏原さんは82年、航海中に胃の痛みを覚えます。
「最初は水を飲んだらその痛みがなくなりました。胃薬や痛み止めを船に送ってもらいながら2年間我慢しましたが、潰瘍ができていると言われ、胃の3分の2を切除しました」
2013年、75歳で膀胱(ぼうこう)がんの手術を受けました。
第五良栄丸の元船員は胃がんや腸のがんで亡くなった人が多く、水爆実験による海洋汚染での内部被ばくが強く疑われます。
「89年に高知県内で行われたビキニ被災者(元マグロ漁船員)への健康調査で、ビキニ被災の当事者だということを認識した。もし、中学を卒業し、マグロ船に乗っていなければ、別の人生だったかもしれない」と語りました。
(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年2月15日付掲載


被ばくしたマグロ漁船。線量の多いマグロは破棄され、船も除染。しかし、肝心の船員の健康は顧慮されなかった。
1954年に被ばくしてから1989年まで35年間も放置されていたというのだからひどい話し。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ビキニ事件 被ばく漁船員の... | トップ | ビキニ事件 被ばく漁船員の... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

平和・憲法・歴史問題について」カテゴリの最新記事