「第五福竜丸事件」とは何だったか① 西から昇った“太陽”
「太陽が上がるぞォー」「ばかやろう、西から太陽が上がるかッ!」。遠洋マグロ漁船・第五福竜丸(140トン)の甲板上で絶叫し合う声。1954年3月1日午前6時45分(日本時間同午前3時45分)、米海軍が太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁でブラボー水爆を爆発させました。のちに「ビキニ事件」と呼ばれる水爆実験です。
第五福竜丸の航図と被災位置(第五福竜丸平和協会提供)
原水爆実験6回
同年、米国はこのブラボー水爆実験を皮切りに5月まで「キャツスル作戦」と称する原水爆実験を6回行い、現地島民や遠洋漁業などをしていた、のべ約1000隻の日本の船が被災しました。
静岡県焼津市の焼津港所属、第五福竜丸の乗組員は、18歳から39歳までの23人で平均年齢25歳。同年1月22日に同港を出発し、3月1日は最後の操業でした。午前6時半に、はえ縄の投げ入れ作業が終わり、乗組員の多くが船室に入って仮眠をとろうと横になっていました。そのとき、ブラポー水爆がさく裂したのです。
ブラボー水爆の爆発の威力は15メガトン。広島に投下された原爆の1000倍の威力でした。第2次世界大戦で使われた爆弾の総計が3メガトンといわれており、その5回分にあたります。
第五福竜丸の位置は東経166度35分、北緯11度53分。水爆実験場から東に160キロメートル離れた洋上で、米海軍が設定した「危険区域」の外側約30キロメートルにいました。
夜明け前の西の空に大きな火の塊が浮かび、昼間のように明るくなりました。7、8分後、「ドドドドドー、ゴー」と海面を伝ってごう音と衝撃波が襲い、船は波間に大きく揺さぶられました。朝食をとり始めていた乗組員は驚き、とっさに床に伏せたり、食器を放り投げたり、近くのものにつかまったりしました。
「エンジン全開、縄をつかめー」と見崎吉男漁労長の声が飛びました。同日の当直日誌には「身の危険を感じ只(ただ)ちに揚縄を開始」(原文ママ)と記されています。
久保山愛吉無線長は「飛行機とか船をみたら知らせてくれ。焼津には知らせない」と大声で言いました。「ひょっとしたら原爆実験を見たのかもしれない。無線で知らせればアメリカ軍に傍受され、福竜丸の存在を知られてしまう。そうなれば攻撃を受けるかもしれない」と思ったからでした。
第五福竜丸展示館の第五福竜丸
雪のように降る
晴れていた空はやがて入道雲を重ねたような鉛色の雲で覆いつくされました。鏡のようだった海が荒れ始め、横殴りの風が吹きつけました。雨に交じって白い粉が降ってきました。強い放射能を帯びたサンゴの粉―「死の灰」でした。
雪のように降る白い粉を払いのけながら6時間かけて揚げ縄作業が続けられました。白い粉は体じゅうに張りつき、首元から下着にたまり、チクチクと刺すように痛みました。目、鼻、口、耳から体内に入り込み、真っ赤になった目をこすりながら作業をしました。白い粉は甲板に足跡がつくほど積もりました。
久保山無線長は海図室にのぼり、「はたして今の輝きは何だろう。場所はどこだろう」と、筒井久吉船長と見崎漁労長とで調べました。「どう考えてもビキニのほかない。揚げ縄をしていけば距離はだんだん遠くなる」と判断しました。
縄を揚げ終わると、船はビキニ環礁に近づかないよう北上し、約5時間かけて「死の灰」から脱出。針路を焼津に向けました。
その日の夕方から、乗組員にめまい、頭痛、吐き気、下痢、食欲不振、微熱、目の痛み、歯茎からの出血があらわれました。顔は黒ずみ、白い粉が付着一したところは、やけどのように膨らみました。1週間ほどたつと髪の毛が抜け始めました。急性放射能症でした。
(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2024年1月6日付掲載
1954年、米国はこのブラボー水爆実験を皮切りに5月まで「キャツスル作戦」と称する原水爆実験を6回行い、現地島民や遠洋漁業などをしていた、のべ約1000隻の日本の船が被災。
久保山愛吉無線長は「飛行機とか船をみたら知らせてくれ。焼津には知らせない」と大声で。「ひょっとしたら原爆実験を見たのかもしれない。無線で知らせればアメリカ軍に傍受され、福竜丸の存在を知られてしまう。そうなれば攻撃を受けるかもしれない」と思ったから。
「どう考えてもビキニのほかない。揚げ縄をしていけば距離はだんだん遠くなる」と判断。
縄を揚げ終わると、船はビキニ環礁に近づかないよう北上し、約5時間かけて「死の灰」から脱出。針路を焼津に。的確な判断と行動だったのですね。
「太陽が上がるぞォー」「ばかやろう、西から太陽が上がるかッ!」。遠洋マグロ漁船・第五福竜丸(140トン)の甲板上で絶叫し合う声。1954年3月1日午前6時45分(日本時間同午前3時45分)、米海軍が太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁でブラボー水爆を爆発させました。のちに「ビキニ事件」と呼ばれる水爆実験です。
第五福竜丸の航図と被災位置(第五福竜丸平和協会提供)
原水爆実験6回
同年、米国はこのブラボー水爆実験を皮切りに5月まで「キャツスル作戦」と称する原水爆実験を6回行い、現地島民や遠洋漁業などをしていた、のべ約1000隻の日本の船が被災しました。
静岡県焼津市の焼津港所属、第五福竜丸の乗組員は、18歳から39歳までの23人で平均年齢25歳。同年1月22日に同港を出発し、3月1日は最後の操業でした。午前6時半に、はえ縄の投げ入れ作業が終わり、乗組員の多くが船室に入って仮眠をとろうと横になっていました。そのとき、ブラポー水爆がさく裂したのです。
ブラボー水爆の爆発の威力は15メガトン。広島に投下された原爆の1000倍の威力でした。第2次世界大戦で使われた爆弾の総計が3メガトンといわれており、その5回分にあたります。
第五福竜丸の位置は東経166度35分、北緯11度53分。水爆実験場から東に160キロメートル離れた洋上で、米海軍が設定した「危険区域」の外側約30キロメートルにいました。
夜明け前の西の空に大きな火の塊が浮かび、昼間のように明るくなりました。7、8分後、「ドドドドドー、ゴー」と海面を伝ってごう音と衝撃波が襲い、船は波間に大きく揺さぶられました。朝食をとり始めていた乗組員は驚き、とっさに床に伏せたり、食器を放り投げたり、近くのものにつかまったりしました。
「エンジン全開、縄をつかめー」と見崎吉男漁労長の声が飛びました。同日の当直日誌には「身の危険を感じ只(ただ)ちに揚縄を開始」(原文ママ)と記されています。
久保山愛吉無線長は「飛行機とか船をみたら知らせてくれ。焼津には知らせない」と大声で言いました。「ひょっとしたら原爆実験を見たのかもしれない。無線で知らせればアメリカ軍に傍受され、福竜丸の存在を知られてしまう。そうなれば攻撃を受けるかもしれない」と思ったからでした。
第五福竜丸展示館の第五福竜丸
雪のように降る
晴れていた空はやがて入道雲を重ねたような鉛色の雲で覆いつくされました。鏡のようだった海が荒れ始め、横殴りの風が吹きつけました。雨に交じって白い粉が降ってきました。強い放射能を帯びたサンゴの粉―「死の灰」でした。
雪のように降る白い粉を払いのけながら6時間かけて揚げ縄作業が続けられました。白い粉は体じゅうに張りつき、首元から下着にたまり、チクチクと刺すように痛みました。目、鼻、口、耳から体内に入り込み、真っ赤になった目をこすりながら作業をしました。白い粉は甲板に足跡がつくほど積もりました。
久保山無線長は海図室にのぼり、「はたして今の輝きは何だろう。場所はどこだろう」と、筒井久吉船長と見崎漁労長とで調べました。「どう考えてもビキニのほかない。揚げ縄をしていけば距離はだんだん遠くなる」と判断しました。
縄を揚げ終わると、船はビキニ環礁に近づかないよう北上し、約5時間かけて「死の灰」から脱出。針路を焼津に向けました。
その日の夕方から、乗組員にめまい、頭痛、吐き気、下痢、食欲不振、微熱、目の痛み、歯茎からの出血があらわれました。顔は黒ずみ、白い粉が付着一したところは、やけどのように膨らみました。1週間ほどたつと髪の毛が抜け始めました。急性放射能症でした。
(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2024年1月6日付掲載
1954年、米国はこのブラボー水爆実験を皮切りに5月まで「キャツスル作戦」と称する原水爆実験を6回行い、現地島民や遠洋漁業などをしていた、のべ約1000隻の日本の船が被災。
久保山愛吉無線長は「飛行機とか船をみたら知らせてくれ。焼津には知らせない」と大声で。「ひょっとしたら原爆実験を見たのかもしれない。無線で知らせればアメリカ軍に傍受され、福竜丸の存在を知られてしまう。そうなれば攻撃を受けるかもしれない」と思ったから。
「どう考えてもビキニのほかない。揚げ縄をしていけば距離はだんだん遠くなる」と判断。
縄を揚げ終わると、船はビキニ環礁に近づかないよう北上し、約5時間かけて「死の灰」から脱出。針路を焼津に。的確な判断と行動だったのですね。
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