この人に聞きたい 竹下景子 第2回 追っかけが縁でドラマ出演 テレビに映った自分にギョッ
〈1953年、愛知県名古屋市に生まれました。税務署に勤めていた父の転勤で4歳から10歳まで東京で育ちます〉
9歳下の弟が生まれるまでは一人っ子で育ちました。父が毎日、キャラメルやチョコレートのお土産を買ってきてくれるんです。親バカですよね。
でも、もったいなくて、チョコレートは大好きなのに机の引き出しにしまって、開けた時には白くなっていました。もったいないことをしちゃった、食べればよかったなって。
回覧雑誌で『小学○年生』などの学習雑誌を読むのも楽しみでした。業者の人が軽トラックに積んで届けてくれ、期日が来ると回収していくんです。学習雑誌の背表紙の裏に「なまえ」っていう欄があって、ここに自分の名前が書けたらいいのになあ、と思いながら読んでいました。テレビも大好きで小学校にあがってからは、連続人形劇「チロリン村とくるみの木」や「魔法のじゅうたん」を夢中で見ていましたね。
7歳の誕生日の竹下景子さん(本人提供)
全部自分たちで
〈父が国税庁を辞め弁護士になる勉強を始めたのを機に、名古屋に戻ります。中高一貫で男子部、女子部に分かれている私立南山中学に進み、演劇部に入りました〉
中学1年の文化祭では「芋の煮えるまで」という物語を上演しました。せっかく中学生になって長いスカートをはけたのに、私は子ども役で、ひもが後ろでバッテンになった短いスカート。しかも、戦後間もない頃の話だったのかしら。みんな顔に黒いススを塗って…。(笑)
でも、とにかく楽しかった。脚本選びから書き割り(背景画)作り、照明の操作と、ありとあらゆることを自分たちでやるんです。
文化祭の本番が近くなると大道具や小道具、衣装を講堂までリヤカーで運んだんですよ、私たち。演じることよりも、みんなで一つのものを作る共同作業が楽しかったですね。
忘れられないのは、男子部の先生と女子部の先生が、年の差結婚するっていう情報が、どっかから流れてきて…。あたしたち、ほら、思春期だから、頭の中はそれでいっぱい。トランシーバーを通じて「H先生、F先生にプロポーズしたらしいよ」とか言ってたら、そのトランシーバーの会話を当のF先生が聞いていらした…。(笑)
〈ラジオ「ミッドナイト東海」のパーソナリティー、“アマチン”さんこと、天野鎮雄さんとの出会いが、NHK番組「中学生群像」(「中学生日記」の前身)出演のきっかけになりました〉
パーソナリティーは3人いらっしゃって、森本レオさんが一番人気で“最大与党”。私は“野党”でアマチンさんのファンでした。
高2の時、追っかけ先で、アマチンさんに「演劇部です」と自己紹介したら「スタジオのぞいてみる?」と。それが「中学生群像」のスタジオでした。
行ってみたら、ディレクターから「暇なら(生徒役で)座っていていいよ」と言われて、そのままレギュラーになりました。のどかな時代でしょ。
でも、テレビに映った自分の顔と声にギョッとしました。茶色いファンデーションでぐるっと顔を塗られたこともあり、これが私なの?と。
親元離れたくて
〈南山中学に進んだのは母の意向でした〉
エスカレーター式に南山大学に行ってお見合いして、適齢期でお嫁に行くっていうのが、母の描いていた青写真でした。それに突如「ハッ、これじゃ、まずい」と高校2年の時に気がついたんです。そのとき初めて自分に何ができるか考えて、やみくもに受験勉強を始めました。
親元を離れたかったんですね。過保護の母親がわずらわしかった。なんの自立心もないくせに(笑)。家事も育児も母任せで、娘には大甘の父と違って、母は行儀に細かい、きちんとした人でした。東京女子大にしたのは、女子大だったら親を説得できるかな、と思ったからです。寮に入って4年で帰る、というのが条件でしたけど、どの約束も果たせませんでした。
〈大学1年の後期、ツテを頼りに三船プロを訪ねます。19歳の時、NHKドラマ「波の塔」で本格デビューしました〉
三船敏郎さんが社長で、テレビドラマや映画に出していただくようになり、だんだん学校には行かなくなりました。全く不肖の大学生でした。
父が三船プロに「学生なので、本分はちゃんと遂げられるように、よろしくお願いします」と手紙を書いていたことは、随分後になって知りました。
(つづく)
「しんぶん赤旗」日曜版 2021年6月20日付掲載
高2の時、追っかけ先で、アマチンさんに「演劇部です」と自己紹介したら「スタジオのぞいてみる?」と。それが「中学生群像」のスタジオでした。
行ってみたら、ディレクターから「暇なら(生徒役で)座っていていいよ」と言われて、そのままレギュラーに。のどかな時代。
中学生の手づくりの「演劇部」から、学生時代はテレビドラマへ。それが本職になっていく。
〈1953年、愛知県名古屋市に生まれました。税務署に勤めていた父の転勤で4歳から10歳まで東京で育ちます〉
9歳下の弟が生まれるまでは一人っ子で育ちました。父が毎日、キャラメルやチョコレートのお土産を買ってきてくれるんです。親バカですよね。
でも、もったいなくて、チョコレートは大好きなのに机の引き出しにしまって、開けた時には白くなっていました。もったいないことをしちゃった、食べればよかったなって。
回覧雑誌で『小学○年生』などの学習雑誌を読むのも楽しみでした。業者の人が軽トラックに積んで届けてくれ、期日が来ると回収していくんです。学習雑誌の背表紙の裏に「なまえ」っていう欄があって、ここに自分の名前が書けたらいいのになあ、と思いながら読んでいました。テレビも大好きで小学校にあがってからは、連続人形劇「チロリン村とくるみの木」や「魔法のじゅうたん」を夢中で見ていましたね。
7歳の誕生日の竹下景子さん(本人提供)
全部自分たちで
〈父が国税庁を辞め弁護士になる勉強を始めたのを機に、名古屋に戻ります。中高一貫で男子部、女子部に分かれている私立南山中学に進み、演劇部に入りました〉
中学1年の文化祭では「芋の煮えるまで」という物語を上演しました。せっかく中学生になって長いスカートをはけたのに、私は子ども役で、ひもが後ろでバッテンになった短いスカート。しかも、戦後間もない頃の話だったのかしら。みんな顔に黒いススを塗って…。(笑)
でも、とにかく楽しかった。脚本選びから書き割り(背景画)作り、照明の操作と、ありとあらゆることを自分たちでやるんです。
文化祭の本番が近くなると大道具や小道具、衣装を講堂までリヤカーで運んだんですよ、私たち。演じることよりも、みんなで一つのものを作る共同作業が楽しかったですね。
忘れられないのは、男子部の先生と女子部の先生が、年の差結婚するっていう情報が、どっかから流れてきて…。あたしたち、ほら、思春期だから、頭の中はそれでいっぱい。トランシーバーを通じて「H先生、F先生にプロポーズしたらしいよ」とか言ってたら、そのトランシーバーの会話を当のF先生が聞いていらした…。(笑)
〈ラジオ「ミッドナイト東海」のパーソナリティー、“アマチン”さんこと、天野鎮雄さんとの出会いが、NHK番組「中学生群像」(「中学生日記」の前身)出演のきっかけになりました〉
パーソナリティーは3人いらっしゃって、森本レオさんが一番人気で“最大与党”。私は“野党”でアマチンさんのファンでした。
高2の時、追っかけ先で、アマチンさんに「演劇部です」と自己紹介したら「スタジオのぞいてみる?」と。それが「中学生群像」のスタジオでした。
行ってみたら、ディレクターから「暇なら(生徒役で)座っていていいよ」と言われて、そのままレギュラーになりました。のどかな時代でしょ。
でも、テレビに映った自分の顔と声にギョッとしました。茶色いファンデーションでぐるっと顔を塗られたこともあり、これが私なの?と。
親元離れたくて
〈南山中学に進んだのは母の意向でした〉
エスカレーター式に南山大学に行ってお見合いして、適齢期でお嫁に行くっていうのが、母の描いていた青写真でした。それに突如「ハッ、これじゃ、まずい」と高校2年の時に気がついたんです。そのとき初めて自分に何ができるか考えて、やみくもに受験勉強を始めました。
親元を離れたかったんですね。過保護の母親がわずらわしかった。なんの自立心もないくせに(笑)。家事も育児も母任せで、娘には大甘の父と違って、母は行儀に細かい、きちんとした人でした。東京女子大にしたのは、女子大だったら親を説得できるかな、と思ったからです。寮に入って4年で帰る、というのが条件でしたけど、どの約束も果たせませんでした。
〈大学1年の後期、ツテを頼りに三船プロを訪ねます。19歳の時、NHKドラマ「波の塔」で本格デビューしました〉
三船敏郎さんが社長で、テレビドラマや映画に出していただくようになり、だんだん学校には行かなくなりました。全く不肖の大学生でした。
父が三船プロに「学生なので、本分はちゃんと遂げられるように、よろしくお願いします」と手紙を書いていたことは、随分後になって知りました。
(つづく)
「しんぶん赤旗」日曜版 2021年6月20日付掲載
高2の時、追っかけ先で、アマチンさんに「演劇部です」と自己紹介したら「スタジオのぞいてみる?」と。それが「中学生群像」のスタジオでした。
行ってみたら、ディレクターから「暇なら(生徒役で)座っていていいよ」と言われて、そのままレギュラーに。のどかな時代。
中学生の手づくりの「演劇部」から、学生時代はテレビドラマへ。それが本職になっていく。
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