高齢化が進む飛騨の山里を離れて、1年2ヶ月が経った。
3ヶ月振りの訪問だったが、その間に、親しく付き合っていた人が、
3人亡くなり、1人が施設に入居された。
「夫婦二人なら、農作業や草刈り、除雪作業も出来るが、一人では何も出来ない」
という台詞は、相方を亡くした人からよく聞く。
残された奥さんは、いずれも80代で、これからの
暮らしの厳しさが想像される。
ここでの世代交代は少なく、町へ出た子供達が、わずかな農地を耕して、
生計を立てることは難しく、後を継ぐことは期待出来ない。
生涯を、自然環境の厳しい山村で過ごした人たちの生き様は、
都会育ちでは想像を超えるものばかりだった。
そんな人たちから、農作業や山仕事をはじめ、
自然と寄り添う生き方を学んだ。
当時も、耕作放棄地が増えていたが、
今後も拍車が掛かりそうだ。
それでも、荒れ放題では恥ずかしいと、老体に鞭を打って、
草刈りに励む人の姿も見かけた。
かつての、生業の柱であった炭焼き小屋が、
集落に新しく出来ていた。
椎茸栽培の原木を取ったあと、規格に合わないサイズを、
炭にするとのことだ。
昔は生活の必需品だったが、今はキャンプ場のバーベキューや、
旅館の囲炉裏や炭火焼に使われている。
化成肥料の普及で、堆肥用の干し草は減り、石油やガスの普及で、
家庭から炭が消えたが、ここでは懐かしい風景を、まだ見ることが出来る。
外部の農業法人が、耕作放棄地を利用して、飛騨伝統の
エゴマ栽培をはじめていた。
折からの健康食ブームで、需要が増え、
市場性が高まっているようだ。
若い人たちを引き付ける環境が整えば、過疎化に
歯止めをかける余地は残されている。
今は都会暮しの快適さに麻痺してしまったが、たまに里帰りをして
刺激を受けると、いろいろな思いが頭をよぎる。
集落の兼業大工さんから、ヒノキ柱の切れ端と、もう一軒の家からは、
ヒノキの玉切り材を、円空彫刻用にもらって来た。
2~3個もあれば十分だったが、積めるだけ持っていけと言われ、
好意に甘えることにした。
せっかく良材を手にしたので、もう一度円空仏を
じっくり拝観しようと、ゆかりの千光寺を訪ねた。
少しばかり修験者の心にも触れたので、
これからの制作の糧としたい。
飛騨路のセンチメンタルジャーニーは、
自然も人も優しく迎えてくれて、うれしかった。