
写真がある限り続く記憶ネタで、元浦和DF田口禎則さんの記憶です。田口は1994年、浦和がJリーグで下位を低迷していた頃に、広島から移籍加入してきます。浦和南高校出身の彼にとっては地元復帰ですが、移籍初年度はあまり活躍した印象はありません。当時の田口は高い身体能力はあったものの、身体能力で守っていたのが本人の弁でした。
そんな田口が変わったのは、1995年のオジェック監督の就任でした。オジェック監督から「ポジショニングとカバーリングだけでディフェンスはできる」と指導を受け、開幕前の記者会見でオジェック監督は「田口は変わります」と、誰も田口の話題はしていないのに期待度を隠せないコメントでした。
その結果、田口自身が「この年(29歳)になってディフェンスの面白さがようやくわかった」と、ギドと組んだDFラインで浦和の堅守速攻のサッカーを支えた原動力の一人になりました。しかし、そんな田口は1995年の後半戦中に、サポーターへの暴力事件で謹慎処分を受け、浦和もFWのトニーニョをDFにコンバートする苦しい布陣を強いられチームも勢いを失いました。
翌1996年に、謹慎が解けて浦和と再契約しましたが、その後は勢いを失い、1998年限りで現役を引退しました。その後は浦和市議会議員に断トツのトップ当選を果たし、老人福祉を訴えて議員活動をしていました。埼玉県会議員時代に、議員活動の合間を縫ってさいたまレイナス(浦和レッズレディースの前身)監督としてチームをLリーグ優勝に導きます。
その後は、日本サッカー協会の巡回コーチ、なでしこリーグ専務理事などを歴任します。これを書くために調べましたが、なでしこリーグ専務理事は不祥事が続いたことで辞任し、今はテレビ埼玉の解説などで姿を見ます。それだけ、波乱万丈な人生で、自分で招いた事態ですがこれだけいろいろある人はなかなかいないと、昔の記憶とともに思い出しました。
そんな田口が変わったのは、1995年のオジェック監督の就任でした。オジェック監督から「ポジショニングとカバーリングだけでディフェンスはできる」と指導を受け、開幕前の記者会見でオジェック監督は「田口は変わります」と、誰も田口の話題はしていないのに期待度を隠せないコメントでした。
その結果、田口自身が「この年(29歳)になってディフェンスの面白さがようやくわかった」と、ギドと組んだDFラインで浦和の堅守速攻のサッカーを支えた原動力の一人になりました。しかし、そんな田口は1995年の後半戦中に、サポーターへの暴力事件で謹慎処分を受け、浦和もFWのトニーニョをDFにコンバートする苦しい布陣を強いられチームも勢いを失いました。
翌1996年に、謹慎が解けて浦和と再契約しましたが、その後は勢いを失い、1998年限りで現役を引退しました。その後は浦和市議会議員に断トツのトップ当選を果たし、老人福祉を訴えて議員活動をしていました。埼玉県会議員時代に、議員活動の合間を縫ってさいたまレイナス(浦和レッズレディースの前身)監督としてチームをLリーグ優勝に導きます。
その後は、日本サッカー協会の巡回コーチ、なでしこリーグ専務理事などを歴任します。これを書くために調べましたが、なでしこリーグ専務理事は不祥事が続いたことで辞任し、今はテレビ埼玉の解説などで姿を見ます。それだけ、波乱万丈な人生で、自分で招いた事態ですがこれだけいろいろある人はなかなかいないと、昔の記憶とともに思い出しました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます