過去の選手の中では、1999年の残留争いを戦ってくれた選手のことが、特に印象に残っています。今回は、1999年の途中で横浜FMから加入し、2002年までプレーした路木龍次選手の思い出を書きます。
路木は、高校サッカーの名門の国見高校からサンフレッチェ広島に入団し、当時評価が高かった片野坂から左アウトサイドのポジションを奪ったことで有名になった選手でした。その後、1996年のアトランタ五輪に出場し、マイアミの奇跡と言われたブラジル戦のゴールの場面で、クロスを上げたのが路木でした。
順調なキャリアを積んでいるかに思えた路木でしたが、不運だったのは当時の広島が経営難で、年俸の高い主力選手を次々と放出してしまったことです。もし、広島に残っていれば年齢的には今でも現役だったかもしれません。しかし、これがあったから、我々浦和サポが彼のプレーをじっくりと見ることができたとも言えます。
路木と言えば左アウトサイドの専門家のイメージがありますが、浦和で最も輝いたのはCBでのプレーです。路木は国見出身者によく見られる特徴として、体力のレベルが高いという長所がありました。この体力とスピードで、相手FWを追い回し疲労させるのが彼のプレースタイルでした。残留決戦の大一番だったジェフ市原戦で、上背で圧倒的に劣るバロン相手に一歩も引かず、完封したプレーは今でも忘れられません。
ただ、後でビデオで路木のプレーを見ると、相手のユニフォームをつかんでいて、いつPKを取られてもおかしくないプレーもありました。また、ヘディングも上背がないため、専門家にはかないません。2001年に井原を補強してからは、路木がCBで出場することはほとんどなくなりました。
それでも、左アウトサイドでは十分力のある選手でしたが、オフト監督の若手への切り替え策で、当時新人だった平川にポジションを奪われて、その年限りで浦和を去りました。ただ、あの残留争いで、自分の持っている力を最大限に発揮して最後まで残留の希望をつないでくれて、J2に降格した後もチームに残って戦ってくれた路木のことは決して忘れないでしょう。記録より記憶に残る選手でした。
今の浦和も危機的状況ですから、あのときの路木のように闘志を表に出して戦ってくれる選手が、一人でも多く出てくれることを期待しています。
路木は、高校サッカーの名門の国見高校からサンフレッチェ広島に入団し、当時評価が高かった片野坂から左アウトサイドのポジションを奪ったことで有名になった選手でした。その後、1996年のアトランタ五輪に出場し、マイアミの奇跡と言われたブラジル戦のゴールの場面で、クロスを上げたのが路木でした。
順調なキャリアを積んでいるかに思えた路木でしたが、不運だったのは当時の広島が経営難で、年俸の高い主力選手を次々と放出してしまったことです。もし、広島に残っていれば年齢的には今でも現役だったかもしれません。しかし、これがあったから、我々浦和サポが彼のプレーをじっくりと見ることができたとも言えます。
路木と言えば左アウトサイドの専門家のイメージがありますが、浦和で最も輝いたのはCBでのプレーです。路木は国見出身者によく見られる特徴として、体力のレベルが高いという長所がありました。この体力とスピードで、相手FWを追い回し疲労させるのが彼のプレースタイルでした。残留決戦の大一番だったジェフ市原戦で、上背で圧倒的に劣るバロン相手に一歩も引かず、完封したプレーは今でも忘れられません。
ただ、後でビデオで路木のプレーを見ると、相手のユニフォームをつかんでいて、いつPKを取られてもおかしくないプレーもありました。また、ヘディングも上背がないため、専門家にはかないません。2001年に井原を補強してからは、路木がCBで出場することはほとんどなくなりました。
それでも、左アウトサイドでは十分力のある選手でしたが、オフト監督の若手への切り替え策で、当時新人だった平川にポジションを奪われて、その年限りで浦和を去りました。ただ、あの残留争いで、自分の持っている力を最大限に発揮して最後まで残留の希望をつないでくれて、J2に降格した後もチームに残って戦ってくれた路木のことは決して忘れないでしょう。記録より記憶に残る選手でした。
今の浦和も危機的状況ですから、あのときの路木のように闘志を表に出して戦ってくれる選手が、一人でも多く出てくれることを期待しています。
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