ルアンパバンへ向かう船はクルーザーのような小さいものだった。
それでも、小さな甲板と8畳くらいの小部屋があり、総勢5人の旅人には充分すぎる広さだった。
甲板に出て、流れてくる景色を眺める。
青い空はどこまでも続き、雲は鮮やかに白い。
爽やかな風は時折わたしの肌をなぶっていき、妙に心地よい。
メコンの雄大な流れをしばらく眺めていても決して飽きることはなかった。
景色は単調だった。
メコン川は奇妙な形をした岩場が出てくるなど景勝地のような風情が漂っていたが、川の両側はジャングルが続くばかりで、ほとんど変化はおきなかった。
日本人のバックパッカーはわたしの他に3人。
いずれも初めて見る顔だった。この他、フランス人が一人いたが、彼は我々とコミュニケーションをとることはなかった。
船は時折、イミグレーションのような施設に立ち寄った。
我々は船員に促され、施設へと入り、パスポートを提示した。
施設といっても木造の掘っ立て小屋だったが、役人のような係員がパスポートをチェックしては、紙切れにスタンプを押していった。
その役人の説明によると、「このスタンプを押した紙を決してなくしてはならない。なくした場合、出国が困難になる」とのことだった。
その施設は日本でいえば番所のようなものなのかもしれない。
結局、船は6ヶ所もの番所に止まり、いちいちチェックを受けなければならなかった。
メコンの景色がいくら素晴らしいからといって、さすがに3時間も4時間も眺めているとやはり飽きてしまった。
ルアンパバンまではフェイサイから7~8時間ほどの旅程と聞いていたので、少しの辛抱と思い、昼飯のパンなどは特に買い込まずに乗り込んだのだが、午後になったらさすがに空腹感を感じてきた。
遅くとも17時頃には着くだろうとたかをくくっていたが、その17時を過ぎ、辺りに夕闇が迫っても目的地の古都に着く気配はなかった。
とっぷりと陽が落ち、辺りが闇に包まれると船のエンジン音が突然消え、そして止まった。
わたしは船員に「どうしたんだ?」と聞くと「今日はここで泊まることにしよう」と言った。
どうやら、わたしが聞いていた情報はガセだったらしい。
それとも、わたしはスピードボートによる所要時間をきいていたのかもしれない。
他のバックパッカーに聞くと、「ルアンパバンは翌日着だよ」と口々に言う。
こうして、船は闇の中に停泊した。
闇というのは、ちっとも大げさではない。
電灯らしきものは辺りには何ひとつもなく、東京の夜空よりも遥かに多い星が僅かに我々を照らすだけだった。
聞こえてくる音といえば、川の流れと、川の流れに船が傾く音のみだった。
しかし、困ったことになった。
わたしはこの日、早朝に食事を取っただけで、既に腹はペコペコだったからだ。
そうしていると、船員のひとりが我々を呼びにきた。
「飯を食わないか」と言っているようだった。
我々、船客は船の機関室のような部屋に通され、そこでラオス人の船員たちの食事に呼ばれたのであった。
お櫃のようなものにご飯が盛られ、彼らは竹筒から掌に塩をふって、その手でご飯をすくい口にしていた。
わたしも彼らの見よう見まねで試してみた。
ご飯はうるち米だった。
塩は恐らく岩塩であろう。時折大きな粒の結晶のようなものも混じっていた。
だが、この一見素朴な食事もわたしにとってはご馳走だった。
なにしろ、本当においしかったのだ。
彼らはぎゅっぎゅっと強く握り締めるようにご飯をすくった。
わたしもそれに倣い、ご飯をいただいた。
食事中、言葉を発する者はいなかった。
彼らにはそういう諦観があるのか、分からなかったが、ただひたすら黙々と食事をしていた。
本当は、腹いっぱい食べたかったのだが、彼らの分まで食べ尽くしてしまいはせぬかと心心配になり、途中で遠慮をした。
そして、彼らに丁重にお礼を言って、我々バックパッカーは8畳の客室に戻った。
客室には電気がなく、しばらく暗闇の中で話しをしたりしたが、ひととおり話題がなくなると、他にすることもなく、いつのまにか一人また一人と寝息を立てる音があちこちから聞こえてきた。
わたしもいつしか寝入ってしまったようだった。
次にわたしが起きたのは、猛烈な痛みにも似た寒さが全身を駆け巡ったからである。
わたしは、飛び起き、暗闇の中、バックパックを手探りで探した。
インドシナ半島に入ってからは、冬物の服は全て処分してしまったが、レインコートならあるはずだと考えたからだ。
だが、バックパックが見つからない。
凍死をするのではないかという恐怖がわたしの頭をよぎった。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん師と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
それでも、小さな甲板と8畳くらいの小部屋があり、総勢5人の旅人には充分すぎる広さだった。
甲板に出て、流れてくる景色を眺める。
青い空はどこまでも続き、雲は鮮やかに白い。
爽やかな風は時折わたしの肌をなぶっていき、妙に心地よい。
メコンの雄大な流れをしばらく眺めていても決して飽きることはなかった。
景色は単調だった。
メコン川は奇妙な形をした岩場が出てくるなど景勝地のような風情が漂っていたが、川の両側はジャングルが続くばかりで、ほとんど変化はおきなかった。
日本人のバックパッカーはわたしの他に3人。
いずれも初めて見る顔だった。この他、フランス人が一人いたが、彼は我々とコミュニケーションをとることはなかった。
船は時折、イミグレーションのような施設に立ち寄った。
我々は船員に促され、施設へと入り、パスポートを提示した。
施設といっても木造の掘っ立て小屋だったが、役人のような係員がパスポートをチェックしては、紙切れにスタンプを押していった。
その役人の説明によると、「このスタンプを押した紙を決してなくしてはならない。なくした場合、出国が困難になる」とのことだった。
その施設は日本でいえば番所のようなものなのかもしれない。
結局、船は6ヶ所もの番所に止まり、いちいちチェックを受けなければならなかった。
メコンの景色がいくら素晴らしいからといって、さすがに3時間も4時間も眺めているとやはり飽きてしまった。
ルアンパバンまではフェイサイから7~8時間ほどの旅程と聞いていたので、少しの辛抱と思い、昼飯のパンなどは特に買い込まずに乗り込んだのだが、午後になったらさすがに空腹感を感じてきた。
遅くとも17時頃には着くだろうとたかをくくっていたが、その17時を過ぎ、辺りに夕闇が迫っても目的地の古都に着く気配はなかった。
とっぷりと陽が落ち、辺りが闇に包まれると船のエンジン音が突然消え、そして止まった。
わたしは船員に「どうしたんだ?」と聞くと「今日はここで泊まることにしよう」と言った。
どうやら、わたしが聞いていた情報はガセだったらしい。
それとも、わたしはスピードボートによる所要時間をきいていたのかもしれない。
他のバックパッカーに聞くと、「ルアンパバンは翌日着だよ」と口々に言う。
こうして、船は闇の中に停泊した。
闇というのは、ちっとも大げさではない。
電灯らしきものは辺りには何ひとつもなく、東京の夜空よりも遥かに多い星が僅かに我々を照らすだけだった。
聞こえてくる音といえば、川の流れと、川の流れに船が傾く音のみだった。
しかし、困ったことになった。
わたしはこの日、早朝に食事を取っただけで、既に腹はペコペコだったからだ。
そうしていると、船員のひとりが我々を呼びにきた。
「飯を食わないか」と言っているようだった。
我々、船客は船の機関室のような部屋に通され、そこでラオス人の船員たちの食事に呼ばれたのであった。
お櫃のようなものにご飯が盛られ、彼らは竹筒から掌に塩をふって、その手でご飯をすくい口にしていた。
わたしも彼らの見よう見まねで試してみた。
ご飯はうるち米だった。
塩は恐らく岩塩であろう。時折大きな粒の結晶のようなものも混じっていた。
だが、この一見素朴な食事もわたしにとってはご馳走だった。
なにしろ、本当においしかったのだ。
彼らはぎゅっぎゅっと強く握り締めるようにご飯をすくった。
わたしもそれに倣い、ご飯をいただいた。
食事中、言葉を発する者はいなかった。
彼らにはそういう諦観があるのか、分からなかったが、ただひたすら黙々と食事をしていた。
本当は、腹いっぱい食べたかったのだが、彼らの分まで食べ尽くしてしまいはせぬかと心心配になり、途中で遠慮をした。
そして、彼らに丁重にお礼を言って、我々バックパッカーは8畳の客室に戻った。
客室には電気がなく、しばらく暗闇の中で話しをしたりしたが、ひととおり話題がなくなると、他にすることもなく、いつのまにか一人また一人と寝息を立てる音があちこちから聞こえてきた。
わたしもいつしか寝入ってしまったようだった。
次にわたしが起きたのは、猛烈な痛みにも似た寒さが全身を駆け巡ったからである。
わたしは、飛び起き、暗闇の中、バックパックを手探りで探した。
インドシナ半島に入ってからは、冬物の服は全て処分してしまったが、レインコートならあるはずだと考えたからだ。
だが、バックパックが見つからない。
凍死をするのではないかという恐怖がわたしの頭をよぎった。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん師と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
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