ラオスのヴィザが発給される3日後にカンボジアを出国しようと思った。
そうでなければ、いつまでたっても、この国から脱出できないようが気がしたのだ。
だが、肝心の出国ルートは未だに決めあぐねていた。
ヴィザ発給までの3日間で決断するなどと悠長なことなど言ってられる状況ではなかった。
なにしろ、プノンペンの安宿キャピトルⅡは日本人の大学生でごった返しており、彼らが三々五々、隣国のホーチミンやバンコクへ向けて、ひっきりなしに飛び立っている。したがって、この時期のエアチケットは、翌日分、場合によっては翌々日分も満席というのは珍しくもなかったのである。
試しにキャピトルⅡの階下に行って、バンコク行きのの空席を照会すると、案の定2日後までのフライトは満席の状況であった。
3日後はまだ空席がいくらかあるというが、この調子だと満席になるのは、時間の問題である。
わたしは、なにをまごまごしているのだろう。
バンテイアイスレイには行ったが、海路での非正規な出国には二の足を踏んでいる。
偶然に導かれる旅がひとつのテーマであったはずではないか。
行き着くところまで行こうと決めていたではないか。
たとえ、アジアの土に還ろうとも、それが運命ならば甘んじて受けようと誓ったではないか。
そんな逡巡を繰り返しながら、わたしはバンコク行きのフライトもブッキングせず、ましてやコンポンソムへ向かうバスの予約を行うこともせず、キャピトルⅡを離れ、ぶらぶらと散歩に出ることにした。
特段、行き先を決めずに歩いていたつもりだが、気がつくとわたしはツールスレーン刑務所博物館の前に立っていた。
行かないで済むのならば、無理して行くものでもない、と思っていた、その刑務所跡地。
だが、「無理して行くことはない」と考えていた自分の考えが間違っていたことに、わたしはすぐに気がついた。
目を背けてはいけない、現実がそこにあったのだ。
「ポル・ポト政権時代の悪名高い政治犯収容所跡で、元公立高校(リセ)の教室をレンガなどで仕切った狭い独房に1万6,000人もの政治犯をつぎつぎと送り込み、拷問のすえ自白させたところです。拷問道具、はぎ取られた衣類、生前と死後の写真がそのまま展示してあります」(元毎日新聞学芸部編集委員である松本伸夫さんが一ノ瀬泰造氏の自伝「戦場に消えたカメラマン=一ノ瀬清二編・葦書房」に寄せた手記より)
おびただしい死がそこにあった。
政治犯の一人ひとりの写真が飾られ、何かを訴えかけるようにこっちの世界を見つめている。
虐殺された市井の人々の怨念が立ち上る炎のように部屋の天井を渦巻いているように感じる。そうかと思えば拷問器具を展示した部屋では、柔らかな日差しが指しつつも、何か未だ匂いたつ腐臭のような死の匂いが、そよ風によって、わたしの鼻腔に届いてくるようにも感じる。
このチクチクと胸を小針で刺されるような感触は一体なんだ。
まるで鉛を飲み込んだように、心の奥に重石を置いたような圧迫感はなんだ。
部屋の途中まできて、わたしは気分が悪くなった。
ここにある全てのものが、正視できない。
だが、しかと見届けなければ、わたしはこの先前に進めないどころか、あらゆる現実から目を逸らして生きていくことになるだろう。
正視するに耐えない刑務所跡を出た後、わたしはどのような道のりを辿って宿に戻ったか覚えていない。
ぐったりと疲れたわたしは、そのまま宿に戻って寝てしまった。
食事することすら忘れて。
翌日、わたしは目が覚めると、急いで顔を洗い、外へ飛び出した。
バイタクを捕まえて、「キリングフィールド」へ向かう積もりだった。
「ポル・ポト派による大量虐殺が行われた場所。慰霊塔の中には掘り起こされた人骨が積み立ててあり、8,000以上の頭蓋骨が訪れた人を見下ろしている。地面の穴の中には人骨がパラパラと残り、服の切れ端があちこちに散らばっている」(「旅行人ノート メコンの国」=旅行人)より。
そこでもわたしは、激しい頭痛のような衝撃を覚えた。
それは鈍痛のような頭の片隅をじんじんと軽く叩かれるようなものだった。
人口の3割。虐殺した国民の数は300万から400万ともいわれる、「オンカー」の所業。
一体イデオロギーとは何なのだろうか。
眼窩がくぼんだおびただしい数のしゃれこうべがわたしを見つめている。
こんな旅人に一体何を求めているのか。
そして、一介の旅人に何ができようか。
わたしは、またバイタクにまたがり、宿へと戻った。
そして、無意識のうちに、エアカンボディアのチケットをブッキングしたのだった。
何故、正規の出国を選んだのかは、分からない。
気持ちが空虚だった。
何か、脱力しきったような心持ちだった。
多くの死を見てしまったことで、わたしが迷っていた「命を賭けて」する決死行はなんて陳腐なものなのか。
「逃げるのではない」。
そんな、言い訳をしながらも気持ちは「早くバンコクへ」。
わたしは、とにかく動揺していたのだ。
正視に耐えない歴史の所業に。
※ 写真は「キリングフィールド」に立ち尽くす熊猫刑事。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん師と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
そうでなければ、いつまでたっても、この国から脱出できないようが気がしたのだ。
だが、肝心の出国ルートは未だに決めあぐねていた。
ヴィザ発給までの3日間で決断するなどと悠長なことなど言ってられる状況ではなかった。
なにしろ、プノンペンの安宿キャピトルⅡは日本人の大学生でごった返しており、彼らが三々五々、隣国のホーチミンやバンコクへ向けて、ひっきりなしに飛び立っている。したがって、この時期のエアチケットは、翌日分、場合によっては翌々日分も満席というのは珍しくもなかったのである。
試しにキャピトルⅡの階下に行って、バンコク行きのの空席を照会すると、案の定2日後までのフライトは満席の状況であった。
3日後はまだ空席がいくらかあるというが、この調子だと満席になるのは、時間の問題である。
わたしは、なにをまごまごしているのだろう。
バンテイアイスレイには行ったが、海路での非正規な出国には二の足を踏んでいる。
偶然に導かれる旅がひとつのテーマであったはずではないか。
行き着くところまで行こうと決めていたではないか。
たとえ、アジアの土に還ろうとも、それが運命ならば甘んじて受けようと誓ったではないか。
そんな逡巡を繰り返しながら、わたしはバンコク行きのフライトもブッキングせず、ましてやコンポンソムへ向かうバスの予約を行うこともせず、キャピトルⅡを離れ、ぶらぶらと散歩に出ることにした。
特段、行き先を決めずに歩いていたつもりだが、気がつくとわたしはツールスレーン刑務所博物館の前に立っていた。
行かないで済むのならば、無理して行くものでもない、と思っていた、その刑務所跡地。
だが、「無理して行くことはない」と考えていた自分の考えが間違っていたことに、わたしはすぐに気がついた。
目を背けてはいけない、現実がそこにあったのだ。
「ポル・ポト政権時代の悪名高い政治犯収容所跡で、元公立高校(リセ)の教室をレンガなどで仕切った狭い独房に1万6,000人もの政治犯をつぎつぎと送り込み、拷問のすえ自白させたところです。拷問道具、はぎ取られた衣類、生前と死後の写真がそのまま展示してあります」(元毎日新聞学芸部編集委員である松本伸夫さんが一ノ瀬泰造氏の自伝「戦場に消えたカメラマン=一ノ瀬清二編・葦書房」に寄せた手記より)
おびただしい死がそこにあった。
政治犯の一人ひとりの写真が飾られ、何かを訴えかけるようにこっちの世界を見つめている。
虐殺された市井の人々の怨念が立ち上る炎のように部屋の天井を渦巻いているように感じる。そうかと思えば拷問器具を展示した部屋では、柔らかな日差しが指しつつも、何か未だ匂いたつ腐臭のような死の匂いが、そよ風によって、わたしの鼻腔に届いてくるようにも感じる。
このチクチクと胸を小針で刺されるような感触は一体なんだ。
まるで鉛を飲み込んだように、心の奥に重石を置いたような圧迫感はなんだ。
部屋の途中まできて、わたしは気分が悪くなった。
ここにある全てのものが、正視できない。
だが、しかと見届けなければ、わたしはこの先前に進めないどころか、あらゆる現実から目を逸らして生きていくことになるだろう。
正視するに耐えない刑務所跡を出た後、わたしはどのような道のりを辿って宿に戻ったか覚えていない。
ぐったりと疲れたわたしは、そのまま宿に戻って寝てしまった。
食事することすら忘れて。
翌日、わたしは目が覚めると、急いで顔を洗い、外へ飛び出した。
バイタクを捕まえて、「キリングフィールド」へ向かう積もりだった。
「ポル・ポト派による大量虐殺が行われた場所。慰霊塔の中には掘り起こされた人骨が積み立ててあり、8,000以上の頭蓋骨が訪れた人を見下ろしている。地面の穴の中には人骨がパラパラと残り、服の切れ端があちこちに散らばっている」(「旅行人ノート メコンの国」=旅行人)より。
そこでもわたしは、激しい頭痛のような衝撃を覚えた。
それは鈍痛のような頭の片隅をじんじんと軽く叩かれるようなものだった。
人口の3割。虐殺した国民の数は300万から400万ともいわれる、「オンカー」の所業。
一体イデオロギーとは何なのだろうか。
眼窩がくぼんだおびただしい数のしゃれこうべがわたしを見つめている。
こんな旅人に一体何を求めているのか。
そして、一介の旅人に何ができようか。
わたしは、またバイタクにまたがり、宿へと戻った。
そして、無意識のうちに、エアカンボディアのチケットをブッキングしたのだった。
何故、正規の出国を選んだのかは、分からない。
気持ちが空虚だった。
何か、脱力しきったような心持ちだった。
多くの死を見てしまったことで、わたしが迷っていた「命を賭けて」する決死行はなんて陳腐なものなのか。
「逃げるのではない」。
そんな、言い訳をしながらも気持ちは「早くバンコクへ」。
わたしは、とにかく動揺していたのだ。
正視に耐えない歴史の所業に。
※ 写真は「キリングフィールド」に立ち尽くす熊猫刑事。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん師と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
俺もあそこに行った時は、なんとも言えない嫌な感じが数日間心を渦巻いた記憶がある。
けど、カンボジアに行ったら、あそこには行っておくべきだと思う。
もしかすると自分にも、こんな残酷で、あり得ない事をしてしまう要素があるのではないかと自覚し、それを激しく嫌悪し憎むことで、そんな風になることのないように強く意識する必要があると思うからだ。
動物の残酷さなどとは比べ物にならない、考えるが故にその挙句、全くむちゃくちゃに残酷な事を、現代においてもやめることなくやる人間という生き物を知るためにも、こういった所に行くことは大切だと思う。
戦渦にあれば、誰もが狂気に巻き込まれると思う。それに毅然と立ち向かう勇気を私は、多分持ち合わせていないだろう。
権力って一体何だ?それは教室や会社の中にも目には見えないが、あるしね。
師よ。
師から預かった釣り銭を含め、昨晩WFPに募金を行ったよ。
募金報告を早く行いたいが、PCが使えない現在、滞っているのが現状だ。
取り急ぎ、簡潔な報告まで。