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オレたちの「深夜特急」~カンボジア編  シェムリアップ③~

2008-07-24 12:47:03 | オレたちの「深夜特急」
 わたしの旅はすっかり惰性になってしまっていた。
 このシェムリアップに来て、もう10日以上もの日にちが過ぎ、アンコール、バンテアイ・スレイを見てしまうと、ぎらぎらと前へ進む意欲すらも失ってしまった。
 
 よくよく考えてみると、ヴェトナムのホーチミンシティからプノンペン、そしてシェムリアップに至る工程でほぼ1ヶ月も費やしていることに気づいた。「沈没」とまでは、いかないが、すっかり旅は失速していた。

 その理由を挙げるとするなら、ひとつは、東南アジアの風土とフィーリングがわたしには合っていたこと、そして旅が非日常から日常になって、緊張感が失いつつあることが、旅の速度を遅くしているように思えた。
 更にもうひとつ、なかなかシェムリアップから抜け出せられない理由があった。
 それは、この先の旅程である。
 とりあえず、再びトンレサップ湖を縦断してプノンペンに戻ることは間違いない。カンボジアの治安はまだまだ回復しておらず、おいそれとあちこちの地方都市に行けるわけではなかった。
 だが、プノンペンに戻ることが億劫だった。
 半日かけてトンレサップ湖を高速艇に乗らなければいけないかと思うとうんざりする思いだった。狙撃されず、熱射病にもならず、晴れてプノンペンに着いたところで、今度は次の寄港地に向け、わたしは準備をすることになるだろう。
 次はいよいよタイのバンコクに向けて出発することになるからだ。

 だが、問題はタイへの入国の方法だった。ただでさえ、自由な旅行が制限されているカンボジア国内にあって、タイへの出国は当然空路しかない、と思うのが普通だ(筆者注:1996年当時)。
 だが、実はそうともいえないようだったのである。その出入国方法はあくまで噂の域を出ないものではあったが、何人かのバックパッカーからの情報によると、海路でタイに入国できる可能性があるのだという。(筆者注:1996年当時=現在は正規なルートとして開かれている)
 
 まず、カンボジア南部、海沿いの町コンポンソムから出国し、船でタイ側の港へ渡るというルートだ。コンポンソムはだいぶ治安が回復し、行き来は可能であることは、旅仲間から聞いていた。実際、行ってきたという旅行者ともわたしは遭遇した。
 だが、その海路ルートの問題はタイ側にあった。カンボジア側は出国手続きを行ってくれるというが、タイ側では、入国の手続きが行えないのだという。
 それは、旅行者の正規なルートではないというのが大きな理由のようだった。あくまで、カンボジア人とタイ人との間で貿易に使われるための国境であるというのだ。
 したがって、入国審査もなく、当然パスポートに入国スタンプが押されることもない。 一部では、普通に入国できたという輩もいると聞いたが、それもあやふやな情報だった。
 入国に成功した奴は、自慢気に旅仲間に吹聴できるが、失敗した奴らは果たしてどうしているのだろう。不法な出入国者として罰を受けたのだろうか。それとも、後戻りはできない中、入国の好機を待ち続けているのだろうか。とにかく海路に関しては、極端に情報が少なかった。

 わたしは、神戸を出航して以来、まだ一度も空路を利用していなかった。
 地球の距離感を実感するためにも、地に足をつけて歩き回りたかったからだ。いずれ、空路を使わなければ、ならない時がくることは分かっていたが、出来うる限り空路は避けたいというのが本音だった。この選択がわたしを悩ませた。もっと情報を集める必要があり、宿に来る旅行者に聞くのであったが、誰もそのルートの存在すら知らないどころか、関心すら持っていないようだった。
 
 無理もない。この宿に来るのは日本人だけ、しかもほとんどが卒業旅行の大学生であったからだ。こうして、わたしの出発は1日、また1日と遅れていったのであった。
 だが、こうもしていられない。旅が惰性になってしまい、緊張感が失われつつある。
 とにかく、ここに居ても一向に埒が明かず、プノンペンで然るべき情報を得ることが最善であるように思えてきた。
 
 わたしは、プノンペン行きの高速艇をブッキングするために、宿の女主人の元に向かった。すると、気が強そうな女主人は、こんなことを言った。
 「明日はヘリコプターが飛ぶわ。プノンペンまでは、僅か3時間弱。どう?乗ってみる?」
 プノンペンまで僅か3時間とはそりゃぁ、いい。高速艇はたっぷりまるまる6時間も乗っていなければいけない。
「で、いくらなんだい?」と女主人に尋ねると、「40ドル」などと法外な値段を口にする。
 高速艇とは4倍以上の開きがあった。
 高速艇が出航するのは朝の6時。一方のヘリコプターは午前中には出るだろう、という。だが、時間ははっきりと決まっていない。聞くところによると、くだんのヘリコプターというのは政府軍のもので、輸送をなりわいとしたものではないようだ。そこで、わたしはピンときた。恐らく、政府軍の誰かが私腹を肥やすために勝手に外国人旅行者を搭乗させるのだろう。
 したがって、何かつまらないトラブルが発生する可能性も否定できない。
 高い金を払ってリスクも高いともなれば、断っておくほうが無難だ。わたしは、早朝に出発する高速艇をブッキングした。

 シェムリアップ最後の晩はおおいに盛り上がった。物置で見つけた七輪を借りて炭火焼き肉を同宿の日本人数人で開いた。肉と野菜は近くの市場で仕入れ、ビールも買い込んでバーベキューを行った。
 散々食べて、飲んだ後、わたしは毎晩日課にしていた生ジュース屋に行き、最後の1杯を飲んだ。
 そのジュース屋は日本人の間では「ゴクミの家」と呼ばれる店で、多くの日本人が夜な夜な詰めかけた。そこの看板娘がタレントの後藤久美子さんに似ているという評判で、ご丁寧に日本語の看板も付けられていた。
 
 わたしは、いつも「タガロック」というミックスジュースを貰って飲んだ。1杯が500リエル。
 30円にも満たないこの1杯が1日を締めくくる最高の贅沢であった。
 その晩、ゴクミは店には出ておらず、少しわたしはがっかりしたが、「タガロック」の味はこの日も文句なしにおいしかった。
 宿に戻って、わたしは早めに床についた。明日は朝が早かった。5時半には、高速艇の乗り場に行かねばならない。
 わたしは、約2週間も寝起きしたベッドで最後の眠りに着いたのだった。

 翌朝、わたしは、迎えにきたピックアップトラックの荷台に乗り、宿を後にした。
 トラックはガタゴトと揺れながら、舗装もままならない高台の道を行く。
 眼下には広大な平原が広がり、その遙か先の地平線から燃えるような朝日がゆっくりと昇りつつあった。
 平原は乾燥地帯であり、低木がところどころ生えている程度で、その景色は遙か先まで同じだった。
 建物といった人工物はどこにもなく、その先にあるのは、本物の地平線だった。
 真っ赤に燃えた太陽がゆらゆらと微かに揺れながら平原を照らす様はこの世のものとは思えない光景だった。
 恐らくいにしえから変わらない毎日の営み。誰のためでもなく、普通に存在する自然の姿。それに見とれていると、目に熱いものすらこみ上げてくる。
 「一生忘れまい」
 神が存在する光景を見てしまったような思いを添えて、わたしは、その神々しい風景をしっかり胸に刻んだ。



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2 コメント

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懐かしいねえ (ふらいんぐふりーまん)
2008-07-28 10:48:58
ゴクミの店。

俺も、俺深以後のアジア行きでカンボジアに
行った際訪れたが、ゴクミが全然ゴクミじゃ
なかったことに深い失望を覚えた記憶が
あるよ。

さて、なんとなく移動することに疲れ、旅の
意義に疑問を感じつつある師が、この後
どのようにしてテンションを維持していく
のか、それともテンションを更に失っていく
のかを、見ていくのが楽しみだな。

俺の方の俺深も、すっかり旅の高テンション
を失いつつあるんだけど・・・。(苦笑)

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ゴクミ (熊猫掲示)
2008-07-28 13:37:09
師のカンボジア行きは2000年頃だったっけ?

ゴクミもすっかり容貌が変わったんだね。


自分は日記をつけていなかったので、「オレ深」は全て記憶を頼りにしているんだよ。これを思い出すのが、けっこう至難の技なんだが、テンションダウンははっきりと覚えているよ。
それが、しっかり表現できているようで、オレとしては嬉しい限りだ。

厳密に言えば、テンションは下がっていないと思う。
だらだらしはじめた(同じか)だけだよ。暑くなって。

しかし、カンボジア編長いな。
プノンペンでまた立ち往生するから、もうしばらくかかるね。
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