1時間早く東京に行ったので、結局午後がまるまる暇になってしまった。
国立近代美術館の気になっていた「アンドレ・カルティエ=ブレッソン」を観に行くことにした。
いつもながらメトロの大手町駅は広すぎて、東西線のホームまで今日も遠かった。
絵画も好きだけれど、結構写真展て好きなのだ。
最近はデジタルの鮮明な写真に慣れてしまって、モノクロのちょっとぴんぼけの写真に出会うとほっとする。
特に回顧展は必ず観るようにしている。
ブレッソンは特に好きというわけではないけれど、やはりキャパ、シム、そしてブレッソンは欠かせない。
チェックするのは、日本人では花野文男の美しいモノクロ写真、メープルソープ、マン・レイ、ヘルムート・ニュートンそしてクラクストンも好きかも。
わたしの好きなキャパとブレッソンは、写真も、何もかもが対極にあって、とても興味深い。
キャパは何事にも傍観者ではあり得なかったけれど、ブレッソンは常に傍観者であり、写真の構図から動きの捉え方がまるで違う。
決定的瞬間を捉えようとする瞬時の判断力は、シャッターを押す人の人生観が伴うかららしい。
だから綺麗なだけの写真より、アクションのある語りかけてくる写真が好き。
帰りの電車の中で、図録をみていると隣に座った中年の女性が
「あら、ブレッソンね。お行きになったの。混んでいましたか」と訊ねられた。
「ブレッソンをお好きですか。もしかしたら写真をやっていらっしゃるの」と。
「別に写真をやっているわけではないけれど、いつも美術館の記事をチェックしているんです」
しばし、最近行った美術館や何で入場料が高いのかしらなどと、そんな話で知らない女性と盛り上がった。
互いに、お話できて楽しかったですねと、同じ駅で左右に別れた。
しかし、友人の中でも、感性が合う人ってなかなかいないものだ。
だからブレッソンについても、本の話、音楽についてでも一緒に語れる人っていない。
感性がまるで違うこの人と、何故仲が良いのかしらと、時々疑問になるときがある。
この人とはこの話題、あの人とはあの話題と気がつけば使い分けている。
そんな自分に時々疲れるぅ。
しかし、単純に一緒にいて楽しいから続いているのかも。

国立近代美術館の気になっていた「アンドレ・カルティエ=ブレッソン」を観に行くことにした。
いつもながらメトロの大手町駅は広すぎて、東西線のホームまで今日も遠かった。
絵画も好きだけれど、結構写真展て好きなのだ。
最近はデジタルの鮮明な写真に慣れてしまって、モノクロのちょっとぴんぼけの写真に出会うとほっとする。
特に回顧展は必ず観るようにしている。
ブレッソンは特に好きというわけではないけれど、やはりキャパ、シム、そしてブレッソンは欠かせない。
チェックするのは、日本人では花野文男の美しいモノクロ写真、メープルソープ、マン・レイ、ヘルムート・ニュートンそしてクラクストンも好きかも。
わたしの好きなキャパとブレッソンは、写真も、何もかもが対極にあって、とても興味深い。
キャパは何事にも傍観者ではあり得なかったけれど、ブレッソンは常に傍観者であり、写真の構図から動きの捉え方がまるで違う。
決定的瞬間を捉えようとする瞬時の判断力は、シャッターを押す人の人生観が伴うかららしい。
だから綺麗なだけの写真より、アクションのある語りかけてくる写真が好き。
帰りの電車の中で、図録をみていると隣に座った中年の女性が
「あら、ブレッソンね。お行きになったの。混んでいましたか」と訊ねられた。
「ブレッソンをお好きですか。もしかしたら写真をやっていらっしゃるの」と。
「別に写真をやっているわけではないけれど、いつも美術館の記事をチェックしているんです」
しばし、最近行った美術館や何で入場料が高いのかしらなどと、そんな話で知らない女性と盛り上がった。
互いに、お話できて楽しかったですねと、同じ駅で左右に別れた。
しかし、友人の中でも、感性が合う人ってなかなかいないものだ。
だからブレッソンについても、本の話、音楽についてでも一緒に語れる人っていない。
感性がまるで違うこの人と、何故仲が良いのかしらと、時々疑問になるときがある。
この人とはこの話題、あの人とはあの話題と気がつけば使い分けている。
そんな自分に時々疲れるぅ。
しかし、単純に一緒にいて楽しいから続いているのかも。
