アンドレ・カルティエ=ブレッソン (2)

2007年07月10日 | art
1時間早く東京に行ったので、結局午後がまるまる暇になってしまった。
国立近代美術館の気になっていた「アンドレ・カルティエ=ブレッソン」を観に行くことにした。
いつもながらメトロの大手町駅は広すぎて、東西線のホームまで今日も遠かった。

絵画も好きだけれど、結構写真展て好きなのだ。
最近はデジタルの鮮明な写真に慣れてしまって、モノクロのちょっとぴんぼけの写真に出会うとほっとする。

特に回顧展は必ず観るようにしている。
ブレッソンは特に好きというわけではないけれど、やはりキャパ、シム、そしてブレッソンは欠かせない。
チェックするのは、日本人では花野文男の美しいモノクロ写真、メープルソープ、マン・レイ、ヘルムート・ニュートンそしてクラクストンも好きかも。

わたしの好きなキャパとブレッソンは、写真も、何もかもが対極にあって、とても興味深い。
キャパは何事にも傍観者ではあり得なかったけれど、ブレッソンは常に傍観者であり、写真の構図から動きの捉え方がまるで違う。
決定的瞬間を捉えようとする瞬時の判断力は、シャッターを押す人の人生観が伴うかららしい。
だから綺麗なだけの写真より、アクションのある語りかけてくる写真が好き。

帰りの電車の中で、図録をみていると隣に座った中年の女性が
「あら、ブレッソンね。お行きになったの。混んでいましたか」と訊ねられた。
「ブレッソンをお好きですか。もしかしたら写真をやっていらっしゃるの」と。
「別に写真をやっているわけではないけれど、いつも美術館の記事をチェックしているんです」
しばし、最近行った美術館や何で入場料が高いのかしらなどと、そんな話で知らない女性と盛り上がった。
互いに、お話できて楽しかったですねと、同じ駅で左右に別れた。

しかし、友人の中でも、感性が合う人ってなかなかいないものだ。
だからブレッソンについても、本の話、音楽についてでも一緒に語れる人っていない。
感性がまるで違うこの人と、何故仲が良いのかしらと、時々疑問になるときがある。
この人とはこの話題、あの人とはあの話題と気がつけば使い分けている。
そんな自分に時々疲れるぅ。
しかし、単純に一緒にいて楽しいから続いているのかも。


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塩のひとつまみ  (1)

2007年07月10日 | jazz
今日のレッスンは先生の都合で、いつもより1時間早くなった。
朝の1時間の違いは、結構きついような気がした。
しかし、定時に起き、毎朝の同じことの繰り返しをしたうえで1時間早く出られたのだから、いかに毎朝チンタラ(笑)としていたのかを思い知らされた朝だった。

今日からの新曲は“Softly ,as in a Morning Sunrise”
イントロ、テーマ、アドリブふたつとフォーバースをして、テーマに戻って、エンディング。
わぁ!大変。
これをテーマ以外みんな作らなければと思うと、ちょっと気が重くなった。
そして、又も、先生に言われた。
「あまりストイックにならず、のんびりと…」
所詮、趣味の世界と思いながらも、ストイックに何かに向かっている自分て案外好きなのだ。

ある女性の作家が、そのエッセイの中でこんなことを書いている。
《 …何につけても、苦しい、辛い、しんどい、悲しい などといった味付けが伴わないと、つまらない。
たとえば、餡の中に入れる塩のひとつまみが、甘さ、上手さを引き立てるように、人生におけるどんな些細な事柄ひとつにも、そういう塩に当たる物が私には必要だ 》

進むのに楽な方向、ひっかかりのない安易なものに向かうことが、わたしも苦手。
結局は、達成感の喜びや、自己満足を味わいたいだけなのかもしれない。
しかし、様々な苦痛を伴っても、そこを突き抜けたときの一瞬の感激が欲しくて、自分自身を突き動かしている気がするのだ。


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