薔薇色のそら

2010年06月21日 | diary
夕刻、キッチンのガラス窓が薔薇色に染まった。

どうしたのかと外に飛び出せば、あまりに綺麗すぎて赤というよりうす紅の夕焼け。

一瞬火事かしらと思うほどの鮮やかな色。

夕焼けなんて珍しくはないけれど、近頃こんな薔薇色の夕焼けを見たことがなかった。

というより、最近はのんびり空を眺めることなんてほとんど無いのだ。

しばし、見入ってしまった。

いつも忙しい夕刻に…。


         

こんな写真では、私の感動が伝わらなくて残念!!
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母との生活

2010年06月19日 | diary
母が加わった生活が始まり、1週間以上が経った。
といっても、私が夕食をつくり、それを母が食べに来る訳だから、あまり私の生活は変わらない。

しかし、これからは母に対してどこまで手助けをするべきなのか、私がなんでもやってあげてしまうのは簡単だけれど、その兼ね合いがまだ掴めない。
そのうえ、日々気が弱くなり依存心が強くなり、気をつけないと認知症になりそうな危うさもある。

だから、自分でできることは積極的にやってもらったほうがよいのかもしれない。
今はご飯を自分の電気釜で炊いて持ってきてもらったり、得意なおかずを1品など…
更に、新しい洗濯機の使い方を教えたりと

何だか子育てに悩んでいる頃が、再びやってきたような気さえする(苦笑)
まぁ、あまり几帳面には考えずに、気楽にいきましょう。




実は、家の中で、奇妙なことが時々起きる。
49日法要まで、亡くなった人はあの世とこの世を、行ったり来たりしているということを、聞いたことがあるが(ホントカイナ?)

亡くなった父は、とても霊感が強い人だった。
不思議な霊体験の話題には事欠かなかった。

そして亡くなった今、かつて父がエアコンだけでは足元が寒いと使っていた、仕舞っていない愛用のガスストーブがひとりでに点火したり(危ない危ない)
濃く入れたはずのお茶の色が消え
天井の火災報知機からは、有り得ない音が出たりと。

父がその存在を表しているのかと思い、怖い思いはない。
「いままでありがとう、何も心配いらないわよ」と私はその度に、写真に向かって喋っている。

しかし、不思議。
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今日この頃

2010年06月16日 | diary
父との別れは、驚くほどあっ気ないものだった。
未だに、父を送ったという気がしない。

今は少しずつ時間をやり繰りくりして、父の事務所を片し始めている。
かつては机の引き出しの中に整然と並べられ、しまわれていたものが整理されて何も無く、どの引き出しを開けてもがらんとして。
そして、てっきり金庫の中にあると思い込んでいた遺言書もみつからず、
しかし、争う元になるような財産も無いのだが、
それはみんなの目に付く、父の製図台の上に無造作においてあった。

遺言書の文末には、母そして私たちへの想いが綴られ、それを読んだ昨日は一日中私の胸がざわついていた。

初七日も過ぎたので、昨日からレッスンに行き、少しずつ私の日常が戻っている。
変わったのは、夫と2人の夕食に母が加わったくらいだろうか。

このあたりで、私自身の生き方も仕切り直しする時期に来ているのかもしれない。
父が逝った年齢までは、まだまだ何十年もあることだし…

さて仕切りなおしの人生、どう出るか私自身楽しみにさえ思う今日この頃。

まぁ、あまり変わらないかも、変わり様もないし…。

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父 逝く

2010年06月13日 | diary
父が逝き、初七日も過ぎた。
やっと私の日常が戻りつつある。

父は亡くなる1週間前から急激に体力が落ち歩くこともままならず、更に3日前には私のことさえ分からなくなった。
それでも手を借りながら、トイレで用を足し、最期までほとんど人の手を煩わすことなく眠りながら旅立った。
まして、自分の家の自分のベッドの上で逝くことができたなんて大往生だったと思う。

父の生前の意志で、近親者のみの家族葬で父を送った。
父の趣味は絵を描くことだったので、祭壇の周りに父の描いた油絵を飾り、ホールには小さなキャンバスや板に描かれた小品を並べ、好きな作品があったら父の記念としてお持ち帰りいただいた。
姉と、誰も持って帰って下さらなかったらどうしましょう(笑)などと言っていたけれど、残っていなかったのでとても嬉しかった。
そしてお別れは、タンゴが好きだった父のために、姪がヴァイオリンでラ・クンパルシータなどを弾き本当のお別れとなった。

父の事務所に入ると、年齢ゆえいつお迎えが来てもよいようにアドレス帳や手帳などプライベートなものがすべて処分され
代わりに机の上に残されていたのは、父が20代の頃から書き溜めていたスケッチブックの束と、書きかけの家の歴史だった。
そんな大正生まれの父は頑固のうえわがままで、私とはよくぶつかり苦手な父だった。
今にしてみれば私も父もどこか似ているからこそだったのかもしれない。

父は自分より若い人を何人も送ってからは、事あるごとに「もういつ死んでもよい。死にたい」などと、漏らすようになった。
けれど、死にたいと言う意味は「送った人達に逢いたい」という意味合いだったような気もして…。

今はあの世で、父は沢山の友人たちに出逢い、昔のように楽しいお喋りを繰り広げているだろうか。
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プチ鬱?

2010年06月01日 | diary
レッスンに出かける前に、私の細腕で父を立たせたら、腕の筋肉が痙攣したのか腕がガクガクし始めた。
そして、家を出ようとすると、母がやって来て
「ひとりじゃ心細いから、早く帰ってきてね」と言い、そんな母の心のケアをしたり毎日のように愚痴を聞き続けていたら、プチ鬱に陥っている自分に気づいた。

こんなネガティブな気持ちの積み重ねが、なんといっても一番怖いのだ。

途中のドラッグに立ち寄り、おじさんみたいにアリナミンのドリンクをグビ~!
飲めば、多少は元気になれそうな気がして…


コンサートで弾く曲は、おおまかには仕上がり、予定通りの5コーラスで6分弱で上手くおさまった。
先生には、まだあと2ヶ月あるから大丈夫と言われ、少し安心。
その上、締めで弾くFbluesのアドリブ5コーラスが課せられた。
しかし、このような時だからこそ、私にとっては気が紛れて良いのかもしれない。


レッスンが終わり、さいたま新都心で降りれば、沢山の女性が目に入った。
おば様やら若い女性が、スーパーアリーナに向かっている。
もしや、韓流スターがアリーナに来るのかも、と思っていたら
BINGO!
「イ・ビョンホン ドラマティックステージ」と題されたイベントが開催されるらしい。
グッズショップには女性が群がり、今の私には皆とても幸せそうで羨ましく思えた。

            
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