遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



『キス・アンド・クライ』(ニコライ・モロゾフ)転載

........スケート選手として成功するには、日本人であることの良さを残しつつ、同時に日本人離れした部分を併せ持つようにしなければならない、ということだ。私はこれを「脳を手術する」と言っているが、残すべき日本人らしさと捨てるべき日本人らしさが存在するのだ。

残すべき日本人らしさとは.....スケートに対する献身的な姿勢だ。学ぶことに貪欲で、日々のトレーニングから実によく多くのことを吸収しようと努める姿は、感動的であるとさえ言っていい。.....私は、文化という側面では日本は30年先を進んでいると感じている。人々は勤勉でありながらおごったところはまるでなく、つねに他者を尊重し、周囲への感謝の気持ちを忘れない。.....シャイで、礼儀正しい日本の選手たちに悪い印象を覚える者は、皆無だろう。

だが、シャイで礼儀正しい日本のスケーターたちが、氷上でも同じようにふるまってしまったら、表彰台の一番高いところに立つ可能性は決して高くない。育ってきた文化の影響が悪い方向に出て、他の文化圏出身のジャッジには、あたかも自信なく滑っているように見えるからだ。実際、私の目にも、何か罪悪感でも抱きながら滑っているようにさえ見えることがあった。

そのような演技では、満場の観衆を魅了することなどとうていかなわない。技術的には劣っていても、自らを魅せることに長けた、自信に充ち溢れたスケーティングを披露できる選手を相手にしたら、簡単に敗れてしまうだろう。

捨てるべき日本人らしさとは.....私がまず取り組んだのは、高橋大輔や安藤美姫の中に自信を築き上げ、もっと自由で開放的な人間にすることだった。 .......生まれながらにしてスケートの才能を授かった者は、リンク外でよりも、氷上でこそその本領を発揮し、もっとも魅力的な存在でなければならない。いくらリンク外では朗らかで、表情豊であっても、氷の上に立ったときにそうした面が出せなければ、スケート選手として失格だ。

たとえば美姫は、リンク外ではいつも笑顔で、とても気遣いのある温かい女性だ。でも彼女が初めて私のもとに来たとき、演技中の姿からはその人柄を感じ取ることができなかった。リンク外での自分をそのまま出せれば、もっと生き生きとした美しい演技ができるはずだった。 大輔もまた、素晴らしい素質の持ち主だったが、演技の面では物足りなさを否定できなかった。芸術的で感情的な表現をしたいという意志はあるのに、彼のシャイな性格がそれを妨げていたのだ。

誤解を恐れずに言えば、スケーターとしての成功を収めるためには、「自分を売る」ことにうまくなる必要がある。スキルや特徴があることは大前提だが、それを最大限に活かして、自らの魅力を増すことに利用すべきなのだ。

荒川静香や浅田真央にも同じことが言える。彼女たちは特別な才能に恵まれており、たとえば静香の柔軟性は他の選手たちにはない大きな特徴であるのに、彼女は上手に「売る」ことができなかった。プロに転向した今、静香は自分を魅せることに習熟したが、競技選手時代には、ただ持っているにとどまった。今のところ、真央も同じ状況にある。

世界中のコーチの間で、日本人でもっとも表現力があると評価されている選手は村主章枝だが、それは彼女が「自分を売る」ことに長けているからに他ならない。「売る」という言葉に対して、日本人はネガティブな印象を持つようだが、銀盤の上においてはそうではない。その先入観を取り除くことが、日本人選手を指導する際に必要な「日本人らしさを捨てる」.....手術なのである。


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......「自分を売ること」という表現はかつて日本人の美徳とほど遠いところにありました。ことばを換えると"スキルを最大限に生かし自分の魅力をアッピールすることを恥じるな"ということなのでしょうか。自らを差し出すことを恐れてはならないとわたしも思います。おおきなステージほど踏み出さないと開かないと観客 聴き手には伝わらない。けれども 高橋大輔の”道”があれほど魅力的だったのは自分を売ることを躊躇わなかっただけではない、高橋大輔の内面が変わったからではないでしょうか。およそ芸というものにはすべて内面が出る。そのパーソナリティが見るひとには見えます。自分を売る=魅せる表現は一歩間違うと品の無さにつうじます。

......「静香は自分を魅せることに習熟したが、競技選手時代には、ただ持っているにとどまった。今のところ、真央も同じ状況にある。」
.....浅田真央が魅力的でないとでも......浅田真央の魅力は魅せようとしないことにあるような気がわたしにはします。浅田真央は”そのもの” になる力を持っています。つくるのではなく魅せるのではなく、”鐘”も”仮面舞踏会”もシーズンの最後には音楽そのもの、プログラムの精神そのものになっています。

   作曲家中村洋子さんのブログに.....

......技を出さずに、氷面を滑走している時の彼女の肩には、音楽の拍子とピッタリと一致した、小刻みな動きが見られました。これが、観客を飽きさせず、彼女と一体となって、「4分間」を楽しませる原動力であると、思います。演技する浅田真央さんの呼吸と、観客の呼吸とが、一致するのです。観客も、自分自身が演技しているように思ってくるのです。
これが、芸、あるは芸術、技でしょう。これは、音楽や舞台芸術でも、同じです。.......

とあります。「演技する浅田真央さんの呼吸と観客の呼吸が一致する」”観客も演技する”というより、観客もその音楽を、プログラムを、浅田真央とともに”生きる”のです。これこそ たぐいまれな表現者ができること.....ひとびとは観るだけより 自分も感じたい 喜びたい 泣きたい 輝かしい一瞬をともに生きたいのです。呼吸ーー息ーー生きるなのだそうですが...とても含蓄がありますね。

    役者の演技で、語り部の語りで、あるいはその他のあらゆる芸で........観客、聴き手がおなじ呼吸をする ものがたりのなかに呼吸して 同時に自らのいのちを生きている。ときに実人生よりくっきり輝いて生きている。それができる役者や語り部.....踊り手、歌い手はほんものです。浅田真央さんはそれができる氷上の舞姫......鍛え上げた身体、磨きぬいた技術 そして.....透明なこころがその奇跡を可能にするのです。

    浅田真央さんの演技を見て浄められたような気がするのは 惹かれずにおれないのはわたしたちがずっとずぅーっと昔にいたところを思い出させるから.....のような気がしてなりません。光のような凝縮した一瞬です。魅せるではなく存在する、ともに生きる....ありがとう........。


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