音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

花を摘むのも悪くないよね。

2024-06-12 20:57:00 | 近代
第2火曜日 10:00〜
会館とのニで子育てサロンでした。

看護大学の学生さんたちも研修でいらっしゃいました。

お手伝いしてもらって、会場設営も早くできました。

手あそび、お歌を歌った後、

デコパージュ。
通常のティッシュケースは4面しないといけないので、時間がかかり過ぎることがわかったので、円筒形のティッシュケースを使うことにしました。
箱ティッシュ1箱分が入ります。
車とか狭いところで使うのにいいです。

1歳の子どもが多く、なかなか母子分離とはいきませんでしたが、なんとか時間内に作成することができました。







素敵にできました!

ボフスラフ・マルティヌー(1890 - 1959年)オーストリア=ハンガリー帝国ボヘミア ボリチカ生まれ、スイス
リースタル没

は、チェコ出身の作曲家。6曲の交響曲を始め、様々な楽器のための30曲近くもの協奏曲、11作のオペラをはじめ、あらゆる分野で作曲を行うなど大変な多作家でした。

靴屋を営む両親は、この村の火災監視とヤコブ教会の教会堂の管理を任されていて、教会の鐘楼塔に住んでいました。
マルティヌーが生まれ、幼少期を過ごした教会の塔(1910年代の絵葉書)
ボフスラフもこの塔の中で生まれ育ちました。
父親はアマチュア劇団の熱心な団員で、母親は読書や歌が好きで、民謡歌手でした。

幼少期の彼は内向的な性格で塔の外へ出ることはほとんどなく、一日中本を読んで過ごしていました。

7歳の時から近所の仕立屋にヴァイオリンの手ほどきを受けると、めきめきと腕を上げ、やがて地元の弦楽四重奏団でヴァイオリン奏者を務めるようになりました。

12歳の時には弦楽四重奏曲を作曲しています。
こうした才能に気づいた周囲の勧めや篤志家からの援助でプラハ音楽院

に入学しました。
しかし、彼はここでの授業に満足できず、学校の許可を得ずに素人の楽団に加わったりしたため「慢性的な怠慢」によって1910年に退学となっています。その後1912年からは故郷の小学校で教師を務めていましたが、1917年に音楽院時代の友人スタニスラフ・ノヴァークの世話でチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の第二ヴァイオリン奏者となりました。

チェコフィル、本拠地のルドルフィヌム


ドボルザークホール

1919年にはカンタータ『チェコ狂詩曲』でスメタナ賞を受賞し、作曲家としてのデビューを飾りました。

同じ年に国民劇場オーケストラの国外公演で行ったパリで印象派の音楽を知り、ルーセルのスコアに魅せられた彼は、その後、演奏活動の合間に図書館へ通い印象派の作品を研究しました。

1922年にスーク

ヨセフ スーク(1874-1935年)
のマスタークラスに入り作曲を学ぶことになった時には「ドビュッシーのように」作曲したいと語っています。
翌1923年には奨学金を得て、念願のパリで学ぶこととなりました。

パリではルーセル

アルベール ルーセル(1869-1937年)
に対位法を学び、フランス六人組やストラヴィンスキーなどの影響を強く受けた作品を作曲しました。
1929年頃から作風は擬古典的なものとなり、故郷の民謡などを題材にバロック風の作品を書くようになります

1931年、パリのカフェで知り合った縫製工シャルロットと結婚しました。
シャーロット・レオニー・ヴィクトリーヌ・マルティヌー– クエンネヘン(1894 – 1978)
1938年ミュンヘン協定が締結された後は、二度と故郷に戻ることはなありませんでした。
1940年、彼の名がナチスのブラックリストに載り、パリを離れ、スイスの友人パウル・ザッハーやエルネスト・アンセルメの援助でアメリカに渡りました。

1941年、マルティヌーは、ナチスのヨーロッパ侵攻を避けてアメリカ合衆国へ渡ります。
彼の6曲の交響曲の内5曲がアメリカ合衆国滞在中に作曲されています。

1945年、チェコが解放されると、プラハ音楽院から作曲科教授の要請がありました。マルティヌーはこれに同意を伝えましたが、その後この話は立ち消えとなりました。
1946年に、セルゲイ・クーセヴィツキー

クーセヴィツキー 1874-1951年
から依頼され、バークシャー音楽センターの夏期講習の講師を務めることになりました。

この夏期講習の際、宿舎のバルコニーから転落して重傷を負い、1ヶ月以上の入院を余儀なくさせられ、退院後も頭痛、耳鳴り、難聴などの後遺症に悩まされました。
この頃から作風は次第に軽いものに変わって行きます。この頃まで彼は祖国に帰るつもりでいました。

実際に1947年の交響曲第5番の初演に作曲家の代理で出席するためにプラハを訪れた夫人は、西ボヘミアの芸術家村に帰国後の住まいの下見に行ったりもしています。

しかし、1948年のチェコスロバキア政変で共産党政権が誕生し、文化政策に理解を示していたヤン・マサリクが死亡したとの報を承け、帰国を断念しました。
プリンストン大学

での作曲の客員教授に就任しました。しかし望郷の念はやまず、この年の夏から数度ヨーロッパを訪問する機会があり、1953年にヨーロッパに移ることにしました。

ヨーロッパに戻った後、最初はニースに住みましたが、1956年からはローマのアメリカアカデミーで教鞭を執りました。しかし住まいを構えることはせず、ホテルを転々として暮らしていました。様々な委嘱に応えて、数多くの作品を作曲しました。

1958年11月、胃の手術を受けますが、これはすでに手遅れとなった癌でした。1959年春までは小康状態を保ちますが、同年8月28日、スイスのバーゼル近郊のリースタルの病院で息を引き取りました。遺体は彼の遺言により、ザッハーが所有する森の一隅に葬られました。

1979年マルティヌーの遺灰は故国へ帰りました。その後、前年に亡くなった夫人の眠るポリチカの聖ミヒャエル墓地の墓に納められましたが、その墓石には『泉開き』の一節から "Jsem doma" (「われ、故郷にあり」)と刻まれました。

「春の庭園」H.125
「Jaro v zahrade (Spring in the Garden), H. 125」というタイトルの子ども向けの 4 つのピアノ曲集です。
1920年に作曲されました。
おそらく、個々の曲のタイトルは。作曲家がつけたのではなく、出版社または他の誰かによって後から追加された可能性が非常に高いです。

1.今何して遊ぼう?
2.すぐに眠りに行ったほうがいいと思う。
3.なぜ兵隊さんの役をしなくてはいけないのですか?
4.花を摘むのも悪くないよね。

「春の庭園」H.125 第4曲









デンマーク趣味

2024-06-11 21:00:00 | 近代
ピアノのTさんと久しぶりにランチに行きました。
昨年クリスマスコンサート以来です。
樟葉の小料理「七乃葉」さんです。
予約しようとネットで申し込もうとしてくれましたができなかったので、直接お店に、

11:20頃着くと閉まっていましたが、前に二人待っています。
準備中の札がかかっていましたが、覗くと出てきてくれました。
「ネット予約できなかったのですが、ランチいけますか?」
「ちょっとお待ち下さい。」
大丈夫でした。
「11:30オープンなので、少しお待ちください。」ということで、前で少し待って、その間にもう二組。
月曜平日なのに…。

玉手箱弁当。
つき出しが出てきて、それから三段重箱を開けると

天ぷらとお造り

真ん中のお重箱は、焼き物、煮物とごま豆腐。

五穀米がついて2千円。
お味も良かったです。
前のスーパーでお買物して、枚方家具団地のくらこんの工場でおぼろ昆布とだし昆布、ひじきを買って、自宅に戻りました。

そこから本番。お茶しながら、夕方まであれこれしゃべって癒やされました〜!

フレデリック ディーリアス(1862-1934年)イングランドブラッドフォード生まれ、フランス共和国グレ スュル ロワン没

Seven Danish Songs 7つのデンマークの歌 (1897)は
ディーリアスがデンマークからインスピレーションを得た曲を集めた歌です。

スカンジナビアとその文化に対する深い共感に基づいたディーリアスの特徴を最もよく表しています。

1911年の出版ですが、他の声楽曲はすべてそれよりずっと以前に書かれたものです。ディーリアス自身が作ったか、ディーリアスが承認した英語の翻訳が採用されています。

ホルガー ドラックマン(1846-1908年)デンマーク コペンハーゲン生没、


イエンス・ペーター・ヤコブセン(18471885年) デンマーク ユトランド半島ティステッド生まれ、デンマーク ディステッド没



イェルカ ローゼン ディーリアス(1868-1935) ドイツ

ディーリアスの妻。

Seven Danish Songs 7つのデンマークの歌 (1897)
1 Lyse Nætter 
 明るい夜
詞:ドラックマン (1846-1908年) デンマーク

2 Det bødes der for 
 それは讃えられてきた
詞:ヤコブセン (1847-1885) デンマーク

3 Løft de klingre glaspokaler
 高く掲げて鳴らせ ガラスの盃を 詞:ヤコブセン

4 Den Lenz lass kommen
 春に来させよ  詞:ローゼン (1868-1935年) ドイツ 原詩:ヤコブセン

5 Irmelin Rose 
イルメリンのバラ  詞:ローゼン 原詩:ヤコブセン

6 Im Garten des Serails 
 後宮の庭で  詞:ローゼン 原詩:ヤコブセン

7 Seidenschuhe 絹の靴 詞:ローゼン 原詩:ヤコブセン

第6曲 後宮の庭で
バラは頭を垂れる 重たげに
露や香りで
松の木々は揺れている 
静かに気だるく
蒸し暑い空気の中
泉の銀はゆっくり戯れる
眠たげな安らぎの中
モスクの光塔は天に聳える
深い青さの中 三日月は滑り行く
青い輝きと共に
そしてくちづけしてる バラやユリたち 群がって
すべての小さな花たちは
すべての小さな花たちは
後宮の庭で!

チェロとピアノ編曲版で









クラリネットとヴァイオリン

2024-05-19 21:01:00 | 近代
土曜日午後14時〜堺市緑化センター、みどりのホールコンサートに出演してきました。
牧野からは京阪で京橋まで行って、

京阪快速急行とJRの上下交差のJR京橋駅
JR環状線で天王寺まで行って、鳳行きで10駅。



天王寺ではるかハローキティ号とすれ違い、テンション爆上がり。
百舌鳥駅で降りて

長塚古墳、世界遺産仁徳天皇陵。
前方後円墳の前を通って、やってきました。

体験型植物園 堺市都市緑化センター。

みどりのホール。
2列ほど椅子を並べて、誰が来るのかな?と思っていたら、後から後から人が現れて椅子を出して、詰めて、出して、詰めて頂いて…。満席に。
ちょっとびっくり。

ストーリーテリング
リコーダーカルテット
クラリネットとフルートのデュオ

そしてギターの川原さんが、タレガのアルハンブラ宮殿の思い出をされた後、フルート久米で、イベールの「間奏曲」ピアソラの「オブリビオン」「リベルタンゴ」。

2時間余りの長いコンサートの最後にも関わらずアンコールも頂いて、準備して無かったのでイベールの「間奏曲」を2回も聴いて頂きました。
喜んで頂いたみたいで本当に幸せでした。

帰り道、フランス人のクラリネット奏者ショカさんと京橋まで一緒でした。
ヴァイオリニストの奥さまが日本人ということで日本語お上手。

昔クラリネットをやっていて45年お休み…近頃また復活されたそう。
ソロでずっとされていましたが、今はブラスバンドに所属。
クラリネットライフを楽しんでおられるそうです。
奥さまのヴァイオリンと合奏されないのですか?
と聞いてみたら、音域がバッチリ同じなので合わないからやらないそうです。

フルートとヴァイオリンも重なっているけれど合奏曲結構ありますが、クラリネットは新しい楽器なのであまり無いのかも。

調べてみたらやはり少ない。
アレンジものはあるのですが…。
いいなあ~と思ったものは、ヴァイオリン、クラリネットにピアノのあるトリオでした。これがちょっといい感じ!

ダリウス・ミヨー(1892-1974年)フランス共和国エクス アン プロヴァンス生まれ、スイス ジュネーブ没

1939年作曲の「ヴァイオリンとクラリネットとピアノの組曲」op.157B

曲の作られた背景はよくわかりませんが、ブラジルの音楽を取り入れた組曲を成功させ、アメリカへ行きジャズを取り入れたバレエ作品「世界の創造」を完成させ作曲家として足場を固めていきます。
1925年いとこで女優で朗読家のマドレーヌ(1902 - 2008年)

と結婚しました。
1930年に彼女は息子、画家兼彫刻家のダニエル・ミヨー

を出産しました。作曲した1939年、第二次大戦下のフランスで、15世紀まで遡るユダヤ人の家系だったミヨーは、圧迫を感じていたことと思われます。

翌年1940年にはミヨーはナチスのフランス侵攻によりアメリカ合衆国に移住し、解放後まで帰ることができませんでした。






編曲で有名な作曲家

2024-05-14 21:00:00 | 近代
月曜日は、フルートアンサンブル エスカルの練習でした。
筑前橋からの川を見たら凪でした。
止まった水面にビルが映り込んていました。

曲は
ドビュッシーの「小組曲」
「小舟にて」「行列」「メヌエット」「バレエ」の4曲。
ピアノ連弾をアンリ・ビュッセルがオーケストラに編曲しました。それをエスカルのメンバーの竹内さんがさらにフルートオーケストラ用に編曲しました。

6月のエスカル発表会で演奏するので熱が入ります。

途中、C#の音程が悪いと言い出された榎田先生。
「C#はね。ベームがベーム式フルートを作った時に、C.C#.Dオクターブの音を
1つのキーで出すために1番上のキーを小さくして少し上に開けたのですよ。つまり、妥協の産物。なので、どのフルートもC#が高い問題を抱えてしまったのですよ。」
「なので、C#を吹く時には気を付けて下さい。」
と言うわけで、C#は気を付けて吹きます。

ただしフルートメーカーによって誤差はありますが…。

アンリ・ビュッセル(仏: Henri Büsser、1872年1月16日 - 1973年12月30日)は、フランスの作曲家・編曲家・指揮者・音楽教師。

1895年ビュッセル

部分的にドイツ人の祖先を持っていました。彼はオルガニスト、フリッツ ビュッセル (1846-1879) の息子で、少年時代にアロイス・クンク の下でトゥールーズ大聖堂


の聖歌隊で歌い、その後1885 年にエコール・ニーダーマイヤー・ド・パリに入学してアレクサンドル・ジョルジュに師事しました。

1889年にパリ音楽院

1911年パリ音楽院
に入学し、オルガンをセザール・フランクに、作曲をエルネスト・ギロー、シャルル・グノー、ジュール・マスネに師事しました。  

彼は 1892 年のローマ賞コンクールで 2 位を獲得しました。同年、グノーの影響で、パリ近郊のサン・クルーのオルガニストに任命され、その職を30年間務めました。

1900年、ビュッセルはパリのシャトードー劇場の指揮者に任命されました。

1902年、彼はオペラ・コミック座でのクロード・ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』
ジョルジュ・ロシュグロスによる初演ポスター
の初演で舞台裏の合唱団を指揮し、当初の指揮者アンドレ・メサジェが他の契約上の理由で3回目の公演後に降板したとき、残りの公演を引き継ぎました。

ドビュッシーは当初、メサジェの指揮よりもビュッセルの指揮に感銘を受けなかったが、ビュッセルはすぐにこの作品をマスターし、ドビュッシーは

「クロード・ドビュッシーの感謝の意を込めて」と彼の楽譜に記しました。 

そして後にビュッセルに「小組曲」のオーケストレーションを依頼しました。

1904 年にパリ音楽院で教え始め、1905 年にはポール・タファネルの後任としてオペラ座

の指揮者に就任しました。

彼は1924 年のオペラ座での『ジゼル』再演のために、アドルフ アダムの 1841 年のオリジナルのバレエ音楽を再構築しました。

1931年に音楽院の作曲教授に昇進しました。

彼の生徒には、池ノ内友次郎、アンリ・デュティルー、ジャン=ミッシェル・ダマーズ、ロランデ・ファルシネリ、デニス・ロジェ、そしてローマ賞受賞者のアンリ・シャランがいました。

彼は 1938 年にガブリエル ピエルネの後任としてアカデミー デ ボザール(フランスのアカデミー協会学士会の1つ)
フランス研究所;アカデミー・デ・ボザールの本拠地
の会員に選出されました。

1939年から彼はオペラ・コミック座
の館長を務めたが、ナチス占領下の1941年にリヒャルト・ワーグナーに対する軽蔑的な発言を理由に解任されました。

しかし、彼自身の音楽には明らかにワーグナーの影響が反映されていました。

ビュッセルはかなりの量の音楽を編集、編曲しました。

彼の音楽的共感の広さと現代音楽だけでなく歴史的音楽への関心は、回想録『De Pelléas aux Indes galantes』(1955年)に反映されています。

彼の編曲には、リュリやラモーなど のフランスの作曲家の作品、ベルリオーズ、フランク、ビゼー、フォーレなどのその後の作品、さらにモーツァルト、シューベルト、ヴェルディの作品が数多く含まれています。

晩年にビュッセルはレジオン・ドヌール勲章の大士官に任命されました。 86歳のとき、彼は引退したオペラ歌手イヴォンヌ・ガルと結婚しました。

1919年ガル
彼は102歳の誕生日を目前にパリで亡くなりました。

ビュッセルはフルートの曲でも有名ですが
ヴィオラとピアノのための「熱情」op.34もよく取り上げられます。
1910年パリ音楽院の初代ヴィオラ教授テオフィル・ラフォージに捧げられました。


遅刻と巨匠

2024-05-13 21:02:00 | 近代
日曜日、午後からベートーヴェンの第九の練習でした。
天王寺区民センター。
毎回場所が変わるのですが…。
やってしまいました。
天満橋で八尾南行きに乗らなくてはいけないのに、大日行きに…。
あっていると信じ込んでいて4駅目になって四天王寺前夕陽ヶ丘駅が無い!
と気づいて、そんなはず無いと検索。
結局都島まで行ってしまいました。

早めに出たのにそこから折り返して5分遅れてしまいました。
ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。

みんなはその前にミサ・ソレムニスを練習しているので遅刻なし。
私はミサソレは降り番なので、今回は第九だけ…なのにお話になりません。

そういえば大フィル時代、榎田先生ある島に泊まって、翌朝本番というのに台風で欠航。
「どうしようもならなかった。」

「オーケストラの仕事の殆どはその場にいること。」とおっしゃっていました。

はい。その通りです。
以後気をつけます。

レナード バーンスタイン(1918-1990年)アメリカ合衆国マサチューセッツ州ローレンス生まれ、アメリカ合衆国ニューヨーク没
ウクライナ系ユダヤ人移民の2世として生まれました。
父親サミュエルは敬虔なユダヤ教徒でした。家族には音楽的な環境は全くなく、母親ジェニーが持っていた蓄音機の音楽に耳を傾けるのが大好きな赤ん坊だったといいます。
理髪店を経営していた父親の強い反対を押し切って、プロの音楽家の道を志しました。

ボストン・ラテン・スクールを経て、ハーバード大学・カーティス音楽院で学びます。
卒業後、1943年夏にアルトゥール・ロジンスキの指名によりニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮に就任しました。

1943年11月14日、病気のため指揮できなくなった大指揮者ブルーノ・ワルター(1876-1962年)
1912年のワルター
の代役としてニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団(現・ニューヨーク・フィルハーモニック)を指揮、ラジオでも放送され一大センセーションを巻き起こします。

1958年、アメリカ生まれの指揮者として史上初めてニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の音楽監督に就任します。

1969年にニューヨーク・フィルの音楽監督を辞任した後は常任指揮者等の特定のポストには就かず、ウィーン・フィル、イスラエル・フィル、バイエルン放送交響楽団、ロンドン交響楽団、フランス国立管弦楽団などに客演しました。

音楽解説者・教育者としても大きな業績を残し、テレビ放送でクラシック音楽やジャズについての啓蒙的な解説を演奏を交えて行いました。

マイケル・ティルソン・トーマス、小澤征爾


大植英次

佐渡裕

など多くの弟子を世に送り出したことでも知られています。

作曲家としても「ウェストサイド物語」「キャンディード」など多くの作品を残しています。

1982年バーンスタインのリハーサルシーンの動画が残されています。

「私は今、テレビ映像のために、実際の演奏のライブラリーを構築したいと思う。 
私は録音がとても好きだ。

なぜならば、普段のコンサートでは注意を向けさせるのが不可能な部分までを、あなたがたに伝えるための方法が数多くあるからだ」
1970年のグラモフォン誌でバーンスタインはこのように語っています。

1930年にエイドリアン・ボールトによって創設されたBBC交響楽団は、英国放送協会が所有する放送オーケストラの一つです。

1950年にボールトが首席指揮者の地位を退いてからは、数多くの名指揮者がその地位を受け継ぎ、また客演指揮者としてもトスカニーニを始めとした錚々たる指揮者が顔をそろえています。

1935年BBC交響楽団トスカニーニ指揮

さて、バーンスタインは、このオーケストラとの初顔合わせの時に遅刻しできました。
その上、謝罪もしなかったというのです。

両者の関係は極めて前途多難なものになることが予想されました。

しかし実際にリハーサルが始まると、バーンスタインの強烈な解釈と情熱的な指揮は、たちまちオーケストラを魅了したのです。

彼らの「エニグマ」はLP時代から名演として通っていますが、その「名演」が生まれるまでのプロセスを、このリハーサル映像はつぶさに見せてくれています。

これは、バーンスタインとBBC交響楽団との唯一の映像です。
(ナクソスのDVD紹介より)

これは、その時の動画の1部です。
バーンスタインの魅力に圧倒されますが、決して巨匠も遅刻するから私の遅刻も赦されるなどと言いたいのではありません。ぶるぶるっ!




弱音器ヴァイオリン

2024-05-11 21:00:00 | 近代
長居駅近くのヴァイオリン木村直子先生、チェロ木村政雄先生、ヴィオラ金重美代さん、フルート久米素子で、アンサンブルレッスン。
曲はモーツァルトのフルート四重奏Adur。

8月5日の直子先生のヴァイオリンの発表会で演奏することになりました。

ヴァイオリンは弾きませんが、ボーイングをする時に音が動いても弓を背中の筋肉で固定して最小の動きで動かすこと。

音の中身を詰めるためには、左手がどんなに動いても、弓は力で押さないでゆっくり動かすことなど、フルートの体の使い方にも通じるところがあっておもしろいです。

曲の作り方なども「ここはpがいい?」とか聞いてくださるので、ぼうっと吹いていてはいけません。
自分なりの意見を持たなくてはと背筋が伸びます。

練習後、ケーキを食べながらのおしゃべりの時間も楽しいです。
帰ろうとおもったら赤い三角の物が床に落ちていました。
金重さんが「こんなところに飴が落ちてるわ。」
「あっ!ヴィックスドロップ。」と私。 
そしたら、直子先生が、「ああこれ、弱音器。こんなところに落ちてたわ。」 
「ほらこんな感じ。」

かわいい。

消音器はできるだけ小さい音量で演奏したい時に使用するもので、夜間の練習やアパート内での演奏などにおいて有効です。

それに対して、弱音器は演奏の特殊効果として使用しますが、ピアノの左ペダルと同じようなもので、楽譜に指示があれば弱音器を使って音をやわらかくします。

これは、ポリーミュートという消音器。

セルゲイ プロコフィエフ(1891-1953年)ロシア帝国ソンツォフカ生まれ、ソビエト連邦モスクワ没 

1940年代には、転倒と脳震盪が原因でプロコフィエフの健康状態は悪化し、ほとんどモスクワ近郊の別荘に閉じこもっていました。

そこで1946年「ヴァイオリン・ソナタ第1番ヘ短調Op.80」を完成させました。

4楽章構成のソナタで、バロック(1600-1750)時代の教会ソナタを意識し、ヘンデルの「ヴァイオリン・ソナタニ短HWV359a」(c.1724年作曲)から発想を得たといわれています。
初演は1946年10月23日、モスクワ音楽院小ホールでダヴィッド・オイストラフ(ヴァイオリン)とレフ・オボーリン(ピアノ)によって行われました。 

その後、1953年プロコイエフは亡くなり、彼の葬儀で緩徐楽章の第1楽章と第3楽章がオイストラフとフェインベルクで演奏されました。

第1楽章の第2部と第3楽章は弱音器をつけて演奏されます。

第1楽章は弱音器を付けたヴァイオリンの32音符による12連符のフレーズ。
このフレーズを、プロコイエフ自身が<墓場に吹く風>のように演奏するよう指示しています。
この弱音器はこれっぽいです。
エボニー製




呻吟9年のピアノ五重奏曲

2024-05-07 21:03:00 | 近代
連休最終日は、枚方市文化芸術センターのリハーサル室でAPAの弾き合い(散らし会)でした。
チェロの有馬善一さんから誘われて
金重さんとほぼ一発合わせの室内楽会に行ってきました。

私はモーツァルトのフルート四重奏のDdurを演奏しました。
他にもモーツァルト弦楽五重奏やチャイコフスキーセレナーデ、フォーレピアノ五重奏曲、ドヴォルザークピアノ五重奏曲、 モーツァルトピアノ五重奏、ブラームス弦楽六重奏などなど、名曲揃い。

ガブリエル フォーレ(1845-1924年)フランス王国パミエ生まれ、フランス共和国パリ没


1889年
ピアノ五重奏曲第1番 ニ短調 Op.89の
作曲期間は、およそ1890年から1894年にかけての5年間と1903年から1905年にかけての3年間に分かれています。

ピアノ四重奏曲第2番の初演後まもない1887年9月、友人のマルグリート・ボニーに宛てたフォーレの手紙によれば、フォーレはピアノと弦楽器のための新たな作品を構想し始めました。

1887年夏のスケッチ帳の中に、この作品の第3楽章で用いられることになる主題がヘ長調で記されています。

当初はピアノ四重奏曲としてスケッチされたこの曲は、やがて第2ヴァイオリンをつけ加えたピアノ五重奏曲に編成が拡大されました。

これについて、ベルギーのヴァイオリニスト、ウジェーヌ・イザイ(1858年 - 1931年)
曲の初演者となったウジェーヌ・イザイ(1858年 - 1931年、1913年ごろ
が自身のソロ活動とともに弦楽四重奏団(en:Ysaÿe Quartet (1886))を率いていて、1888年及び1889年にブリュッセルでフォーレのヴァイオリンソナタ第1番と2曲のピアノ四重奏曲を四重奏団とピアノのフォーレと共演していたからと言われています。

五重奏曲の草稿は1890年の終わりごろにはかなり書き進められており、フォーレの次男フィリップによれば、アレグロとアンダンテの楽章がほぼ同時期に書かれていたといそうです。

このころイザイは彼の弦楽四重奏団のメンバーとともにパリのフォーレ宅

フォーレの自宅
を訪れ、書き上げられた部分を試演したました。このときの様子をフィリップは次のように述べています。

「アレグロの提示部は書き改められた。なぜならピアノのアルペジオに軽快さを欠いていたからだ。イザイが彼の四重奏団のメンバーとともにパリを訪れ、マルゼルブ大通りのサロンで書き上げられた部分を試演した。このときイザイは感激を表した。そして『五重奏曲』は彼に捧げられることが約束された。しかし、ガブリエル・フォーレは満足していなかった。気にかかっていた展開部がやはりよくなかったからだ。」— フィリップ・フォーレ=フレミエ

五重奏曲の作曲は一時中断され、フォーレは1891年5月から初めてヴェネツィアに滞在します。

現地で後のポリニャック公爵夫人(フランス革命のもととなったポリニャック夫人の孫)ウィナレッタ・シンガー(1865年 - 1943年)


に迎えられたフォーレは、同年9月にポール・ヴェルレーヌの詩に基づく『5つのヴェネツィアの歌』(作品58)を完成します。

また、エンマ・バルダック
エンマ バルダック後のドビュッシーの妻
との交際から、1892年から1894年にかけて連作歌曲『優しい歌』(作品61)を作曲し、このことでフォーレ夫妻の間には気まずい雰囲気が流れ始めました。

1894年6月、フォーレはポリニャック公爵夫人に宛てた手紙に「(五重奏曲が)完成するまでは決してこの曲から離れない」という固い決意で臨み、出版社のアメル社は1896年の春にこの曲が作品番号60として目下印刷中であると公表しました。

この間、1894年の7月には夜想曲第6番、同年9月には舟歌第5番と、フォーレの「第二期」を代表するピアノ曲が完成されています。 しかし、ピアノ五重奏曲の筆は進まず、フォーレはまたしても作曲を中断、長らく放置されることになりました。

ピアノ五重奏曲第1番の作曲が再開されたのは1903年で、フォーレ58歳のときです。

前年の1902年秋からフォーレはスランプに陥っていました。 フォーレの友人エミリ・ジレットの日記では、フォーレの疲れ果てた状態について「ひどい偏頭痛に苦しみ、黄ばんだ顔で、光のない眼、……とにかく驚くような」と記しています。

1903年3月からフォーレは「フィガロ」紙

の音楽批評を担当し、4月にはレジオンドヌール勲章(勲四等)を授与されました。

一方で、晩年のフォーレを悩ませた聴覚障害の兆候が同じ年の夏から始まっています。

この年からフォーレは夏の休暇をスイスで過ごすようになり、これは1914年まで続くことになります。

1903年8月、スイス滞在が始まると、フォーレは新しい作品を書き始めました。当初はヴァイオリンソナタが念頭にありましたが、その後これはピアノ五重奏曲第1番の緩徐楽章となっていき、この年から3年間の夏を通じてこの曲は完全に書き改められ、さらに新しい部分がつけ加えられました。

1905年の夏、チューリヒのシュテルンヴァルテ荘でフォーレはピアノ五重奏曲第1番をついに完成させました。

1905年
同年10月、「ラヴェル事件」(1905年ローマ賞の選考で実績のあるラヴェルを予選で落としたことにより責めを負いました)によって辞任したテオドール・デュボワ


の後任として、フォーレはパリ音楽院

の院長に就任します。またこのためにマドレーヌ寺院の主席オルガニストと音楽学校視学官を辞任しています。

フォーレの手紙から
スイス滞在中にフォーレは妻マリーに宛てて頻繁に手紙を書き、ピアノ五重奏曲第1番の進捗状況を伝えています。このうち1903年にローザンヌから出された手紙には、フォーレの音楽や室内楽ジャンルに対する姿勢が表明されています。

「この新しい室内楽作品についての君の助言に感謝します。君が言うとおり、このジャンルはたしかに重要なものです。真の音楽、一人の人格のもっとも真摯な自己表現というものは、管弦楽か、あるいは室内楽を通じてのみ実現できると思っています。」
— 1903年8月27日、フォーレが妻マリーに宛てた手紙
1889年のフォーレとマリー

「私にとって芸術、とりわけ音楽はわれわれ人間をこの世に存在するものよりはるかに上の最も遠いところに高めることに存在している。」
— 1903年、フォーレが妻マリーに宛てた手紙

翌1904年、チューリヒからの手紙では、作曲が難航し呻吟している様子が伝えられています。

「第1楽章のとても微妙な書き直しには、大変神経を使いました。今こうやって見直してみると、見違えるほど自然な曲になりました。」
— 1904年8月31日、フォーレが妻マリーに宛てた手紙

「曲を作ると言うことはなんと大変なことなのか……。そして、自分を天才だと思い込んで、つまらない作品にも満足できるような人々はどれほど幸せなことだろう! 私はそういった人たちを羨ましく思います。」
— 1904年9月1日、フォーレが妻マリーに宛てた手紙

「へとへとになるまで仕事をしたというのに(……)全く、何もできなかった! 厚い壁が立ちふさがっている。」
— 1904年9月2日、フォーレが妻マリーに宛てた手紙

1906年3月23日、ブリュッセルのセルクル・アルティスティク(Cercle artistique)にて初演。パリ初演は1906年4月30日、サル・プレイエルにて。

サル プレイエル
いずれもフォーレのピアノとイザイ四重奏団(ウジェーヌ・イザイ、エドゥアル・ドリュ、レオン・ヴァン・ホウト、ヨゼフ・ヤコブ)の演奏によります。

ブリュッセルでの初演当日、フォーレは妻に宛てた手紙に次のように記しています。

「イザイが、この五重奏曲の作風は私の二つの四重奏曲のものより優れており、格調が高く、それにどのような作品にも見いだし得ない純粋な絶対音楽の響きが備わっていると指摘してくれました。

私は、彼がこんな印象を持ってくれたことを、とても嬉しく思っています。

目下のところ私は、音楽という媒体を通じて、すべてを指向しようとするものだと考えているので、なおさら嬉しく思えるのです。

ロジェ=デュカスは、この作品が格調の高さと純粋さだけで後世に残るということに対しては、恐らく不満を感じることでしょう。
でもそんなことは私にとっては全くどうでもよいことなのです。

なぜなら、私は自らの音楽表現が万人に理解してもらえるなどとは、心底期待していないのですから。」
— ピアノ五重奏曲第1番の初演当日、フォーレが妻マリーに宛てた手紙

曲は試演時の約束どおり、イザイに献呈されました。

1907年、ニューヨークのシャーマー社から出版されました。






ピンクの世界

2024-04-26 21:00:00 | 近代
ボンザ マーガレット。
ピンクルージュ
ピンクかわいい。気づけばピンクの花がいっぱい!


マーガレット あずきちゃん。
フロックス…かな?


羽衣ジャスミンは、満開までもう少し。

いろいろなピンクの花盛り。

音に色を感じるというのは、よく言われていることです。
スクリャービンは音に色を感じて、それを下記のように言っていました。

C dur【ド】・・・赤、単純な
G dur【ソ】・・・オレンジ色の、赤みがかった黄色の、火のような
D dur【レ】・・・黄色い、太陽の
A dur【ラ】・・・緑、草色の
E dur【ミ】・・・緑がかった青、空色の
H dur【シ】・・・淡い青色の、空色の
Fis dur【ファ♯】・・・すみれ色に近い深い青
Des dur【レ♭】・・・すみれ色、純粋な
As dur【ラ♭】・・・ライラック色の、赤みがかった
Es dur【ミ♭】・・・青味がかった、鋼鉄色の、金属の
B dur【シ♭】・・・灰色の金属の、鉛色の
F dur【ファ】。。。赤い、深紅の

リムスキー=コルサコフはCdur白と言っていました。

色は個人差があって人によってまったく違うみたいです。

6歳までなら絶対音感は育てられるとして各社教育グッズを出しています。
鈴木楽器製作所のミュージックパッドの色

江口寿子さんの旗による絶対音感教育法。


江口さんによると、相対音感や音階、音を比較することを覚えると絶対音感はつかないので、その前に覚えると良いそうです。
音と色は記憶。と言うことなのでしょうか?

意味のないものに何かをイメージしてストーリーを作るということは子どもはよくやります。
私も子どもの頃、家の2階にお化けがいて、私1人の時にだけ出てくると思っていました。
それはただの思いだけでなく、本当に思えて、1人で絶対に2階に行けなかった…。

そのストーリーの1つが音と色の結びつきのように思えます。
その自分の中から湧き上がったイメージをすっ飛ばした絶対音感。
良いか悪いかはともかく、
ピンクはソシレ。
という世界を一回見てみたい気もします。

ソシレと言えばト長調。
いろいろありますが、ドビュッシーの「ピアノ三重奏」。

自筆譜が見つかったのは1982年,
チェロパートのみが残されていると考えられていました。ミシガン大学に遺贈されていた物が見つかりました。
然し最後の25小節は失われていて補筆されて演奏されています。

クロード ドビュッシー(1862-1918年)フランス帝国サン・ジェルマン・アン・レ生まれ、フランス共和国パリ没

1884年マルセル・バシェによって描かれたドビュッシーの肖像画
1880年の夏、18歳になったドビュッシーは、チャイコフスキーのパトロンであったフォン・メック夫人

の長期旅行にメック夫人の娘の音楽講師とピアニストとして同伴しました。

長期旅行では7月下旬にインターラーケン、8月にはアルカションを経由して、9月にメック夫人の別荘があるイタリアのフィレンツェに長期滞在していました。

ドビュッシーの仕事の中には、メック夫人とのピアノ連弾や、夫人が雇っていたポーランド人のヴァイオリニストでチャイコフスキーの弟子であるヴワディスワフ・パフルスキと作曲をすることも含まれていました。

他にも、チャイコフスキーの交響曲第4番を夫人と一緒に読譜したり、チャイコフスキーの『オルレアンの乙女』をピアノで読譜したりしました。

10月にチェリストのピョートル・ダニーリチェンコがメック夫人の家に加わった後に、ドビュッシーは11月まで滞在し、メック夫人によりトリオが結成されました。


メック夫人のために結成したトリオ。左から、ピョートル・ダニーリチェンコ(Vn)、ヴワディスワフ・パフルスキ(Vc)、クロード・ドビュッシー(P)《1880年》。

そしてそのために作曲されたのが「ピアノ三重奏」です。

ト長調、ピンク色が見えますか?










雨が降る

2024-04-24 20:59:00 | 近代
火曜日朝は京都
今出川大宮の富久田先生のレッスンでした。

雨の京都。
月1なのに雨率高いなぁ。
こってり絞られてプティメックでパン買って帰りました。
ピスタチオクリームのフランスパンが美味しかったです。
写真忘れたけど…。

ギヨーム・アポリネール(1880-1918年)
イタリア王国ローマ生まれ、フランス パリ没


図形詩とも呼ばれる「カリグラム」は、詩行を並べてある図形や絵を表わす方法で、文字を美しく書く(描く)カリグラフィー(書道を含む)と表意文字を意味するイデオグラムを組み合わせ「カリグラム」という言葉を生み出したのはアポリネールです。

彼はこのような表現によって「芸術、音楽、絵画、文学の統合」への一歩を踏み出しました。

没後の1918年に出版される『カリグラム』所収の詩「二等牽引砲兵」に含まれる5つのカリグラム、特に文字でエッフェル塔を描いたものが有名です。



このエッフェル塔は
« Salut monde dont je suis la langue éloquente que sa bouche ô Paris tire et tirera toujours aux allemands » という文章によって構成されています。

これはエッフェル塔が世界に語りかけるという想定で、「こんにちは、世界よ。私はその(世界の)雄弁な舌だ。その口であるパリは(おお、パリよ)現在もそして未来も、ドイツ人らに対して舌を出している(侮蔑している)のだ」という意味で、第一次大戦中に書かれました。

このカリグラムは、エッフェル塔をフランスの力の象徴として表現しています。

この詩集『カリグラム』は、詩の言葉が連なっているだけでなく、その文字が絵画のように配置されるという独特の表現がなされていて、文学と他ジャンルの芸術が融合したアート作品だといえます。

詩集「カリグラム」の中の「雨が降る」も同じく絵画のように表現されていて、言葉が窓に滴る水のように配置されています。

雨が降る
フランシス プーランク(1899ー1963年,)フランス 共和国パリ 生まれ、フランス パリ没

は1948年、この詩集に作曲しています。
かれは10代の頃からアポリネールの詩に傾倒していて、他にも19歳の時に「動物詩集」にも曲を書いています。

歌曲集 「カリグラム」
I.女スパイ
II.突然変異
III.南方へ
IV.雨が降る
V.追われる美女
VI.セミくらいには
VII.旅
Ⅷ.マズルカ

Ⅳ「雨が降る」
雨が降る 
女たちの声がまるで
思い出の中で
死んでしまったかのように

お前たちもまた 
素晴らしく降っている
私の人生の出会いたち
おお雨のしずくよ

そしてあの後足で立ち上がった
雲はいななき始める
耳に聞こえる町の全世界に
聞け 雨が降れば 
後悔と嫌悪が 
古い音楽に涙をこぼすのだ

聞け 束縛が切れ落ちるのを
お前を上と下で縛っていたものが


信仰のアンリエット

2024-04-22 21:00:00 | 近代
日曜日は、ハープのリラックスコンサートでした。
日本ハープ協会関西支部の先生方主催。

天満橋駅近くの カフェ「馬車の扉」

ハープソロ演奏や、弾き歌い、カルテットなどなど。

私は野田先生に旋律を弾いていただいて、ゴセックのガボットを演奏させていただきました。
素敵なカフェで演奏できて、ハラハラ、ドキドキしましたが楽しかったです。

コンサートのあと、いちごタルトケーキが出てきてほっこり。

アンリエット・ルニエ(1875-1956年)フランスのハープ奏者・作曲家。
5歳になる前にピアノの手ほどきを受けていたが、8歳でセバスチャン・エラールの音楽教室でアッセルマンに師事。1885年にパリ音楽院に入学し、10歳のときハープ演奏で次席となり、11歳で首席になりました。

モデルケースとして異例の措置が取られ、当時14歳以下に履修が許されていなかった和声法と作曲の講義への出席が許可されます。

自作の《アンダンテ・レリジオーソ》を教師たちに見せるまで、6週間もこれを隠し続けていました。ルニエは女性は家にとどまるものとの発想に慣れきっていて、人目を集めることは気乗りがしなかったそうです。

12歳で音楽院を修了すると、フランス中で演奏し、弟子をとりだすと、パリの至る所から、自分よりも倍以上の年齢の入門者が集まりました。

15歳で最初のリサイタルをパリで開きますが、両親がアッセルマンの名をオーケストラの指揮者としてプログラムに印刷することを失念したばかりに、この旧師と不和を起こしてしまいます。

結局ルニエは、アッセルマンを宥めるために、身銭を切ってプログラムを刷り直します。が、その後もアッセルマンとの一触即発の関係は続きました。

アッセルマンはルニエの演奏会に指揮者を紹介することさえ拒み、ルニエの未出版作品の一部を、断りなく自分の授業に流用しました。それでもルニエは、アッセルマンに誠意を示し続けました。


アッセルマン(1845-1912年)
1901年に、音楽院在籍中に着手した《ハープ協奏曲 ハ長調》を脱稿させます。

が、ルニエは胃を弱らせており、病身に鞭打って演奏活動を続けたにもかかわらず、とうとう1回、シュヴィヤールの指揮するコンセール・ラムルー管弦楽団とのコンサートを延期する破目になります。それでも、自作の協奏曲の上演によって、ルニエはヴィルトゥオーソとしても作曲家としても名を上げ、しかもハープを独奏楽器とするのに一役買い、他の作曲家によってハープ曲が作曲されるようになります。

1903年には、もう一つの出世作《伝説曲 Légende 》を作曲します。同年に11歳のマルセル・グランジャニーをパリ音楽院に送り込みますが、アッセルマンはグランジャニー少年の入学を一蹴しました。
翌年に少年は入学許可を得たものの、実技試験に参加することを許されませんでした。13歳で初めて実技試験に参加して、首席に輝いています。


マルセル グランジャニー(1891– 1975年)
1912年になって、アッセルマンと和解します。教授の地位を引き継いでもらいたいとアッセルマンに要望されました。
しかし当時、パリ音楽院の器楽科上級クラスに女性教授はいず、政府の指図で、パリ音楽院は教育省にその任命の承認を仰がなければなリませんでした。

結局ルニエは採用されず、マルセル・トゥルニエ

トゥルニエ(1879-1951年)
が後任教授に選ばれました。アッセルマンはルニエの落選を告げられた日の晩に亡くなっています。

その後ルニエは、エコール・ノルマル音楽院からの就任要請を断わって、1914年にルニエ・ハープコンクールを主催しました。

サルセードやグランジャニー、ピエルネやラヴェルといった錚々たる顔触れを審査員に迎え、覇者にはかなりの賞金が授与されました。



第一次世界大戦中は、市内に砲火が炸裂する中で、ほとんど夜毎のように慈善演奏会を行なって困窮する芸術家に匿名で至急送金しました。

戦後は、トスカニーニよりハープ奏者として契約するように要請されますが、母親の健康の衰えを理由に話を断わっています。

1922年にレジオンドヌール勲章の受章者に推薦されますが、宗教的信条を理由に受章を拒否しました。

ルニエは、ラジオ放送に出演し、1926年にはコロムビア・レーベルならびにオデオン・レーベルにて録音活動を行います。

ルニエのレコードは3ヶ月で売り切れとなり、なかでも《小さな妖精たちの踊り Danses des Lutins 》の音源はプリ・デュ・ディスク賞を獲得します。
しかし、スタジオ録音にルニエは憔悴し、二度と録音の契約を更新しようとはしませんでした。

第二次世界大戦中は、出版社の要望に応じて、『ハープ奏法』の執筆に取り掛かり、その完成に傾注しました。

フランスの休戦協定が結ばれると、入門者がルニエの許に殺到しました。

坐骨神経痛や神経炎に加えて、冬には気管支炎や肺炎の長患いや消化器の感染症により、危うく死に掛かったものの、大量の鎮痛剤を服用しながら指導を続けました。

トゥルニエがパリ音楽院での35年間の教師生活から身を退くと、ルニエは後任教授に就任するよう要請されましたが、トゥルニエよりも自分が年長だからという口実で、その申し出を断わっています。

しかしついにレジオンドヌール勲章は受章しました。

その翌年に《伝説曲》を含む演奏会を開き、「この曲を弾くのもこれきりになるでしょう」と言い、それから数ヵ月後の1956年3月に亡くなりました。

ルニエは、フランス第三共和政が政教分離を模索する中、金色の十字架を身に着け、自分の教会支持を露わにしました。このため、フランス政府より共和制の敵として睨まれました。

自分の信念をきっぱり貫く性分で、友人や弟子たちが恐れる中、ドイツのプロパガンダのポスターを破り捨てるという面もありました。

「シャルランの松」
ハープ二重奏です。