音楽の喜び フルートとともに

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音楽と社会

2008-06-19 22:56:15 | 本・映画など

やまぶきは八重もいいけれど、こちらのシンプルさが好きです。

秋葉原の彼の事件が、法務大臣がM死刑囚の死刑執行を行った動機になったと、日経新聞のコラムにありました。

バレンボイムがワーグナーを戦後イスラエルで初めて演奏した時、「ナチスの音楽なのになぜ?」
「迫害の歴史をわすれたのか?」と大きな反対意見が合ったそうです。

強制収容所で生き残るためにナチスの前で演奏を続けた少女は、戦後解放されたにもかかわらず、音楽を演奏している場には一切いけなくなったそうです。今現在でも頭痛がして、吐き気がして倒れる。

バレンボイムは、

「僕たちに自分たちを憎んだ人々に対し、彼らをひとまとめにして批判する資格があるとは思いません。憎悪することはもとよりです。なぜなら、そんなことをすれば、僕たち自身がこれほど長期にわたって自分たちを迫害してきたような人々と同じ水準になりさがってしまうからです。」

(音楽と社会 バレンボイムとサイード 著アラ・グゼミリアン)と言っています。

世界中で戦争が無かった年はありません。小さなスイッチを押す指があれば、ほとんど誰でもが大量殺人ができます。女、男、子ども、老人誰でも。警察を増やしても、武装しても、罰を強化しても、そういう人たちは道具を手にすることができるし、侵害することができます。この社会はずっと以前から病んでいます。

人間の行動には自覚するかしないかに関わらず、全て意味があると、アドラーは言います。
殺すことに普通の人は意味を見出したりはしないけれど、彼らは見つけてしまった。
殺すがOKなら、殺されるのもOK。
彼らの人生の問題を解決するために、暴力=殺人がOKであった彼らの人生や家庭や学校、地域があった。と思います。

殺人がOKなら、死刑もOK。池田小の彼も、「早く、死刑にしてください。」といい続け、死刑になりましたが、不完全な人間を死刑にして、溜飲を下げる。という構造は彼ら自身とそっくりに思えてしまう。

「なぜ俺をとめてくれなかったのか?」という秋葉原の彼の言葉は「社会や人や職場での対応が、俺に対して完全だったなら、俺は殺人をしなくてすんだんだ」と言っているように思います。
それに対して死刑を科す社会は「お前が完全な人間だったら、俺たちはお前を死刑にせずにすんだんだ。なぜ、俺にこんなことをさせるのだ。」と。

この殺人を容認する思考、その相似形にぞっとします。

収容所の中のオーケストラの少女のもう一人は、人の中に出て行って、何があったかを語りつづけ人種や国境を越えて大勢の人と手をつなぎ、歌手として、世界中に愛と平和の大切さを伝え続けています。

EUは死刑禁止。先進国ではアメリカと日本だけが死刑をし続けています。多いのは北朝鮮、中国。
戦争を禁じている国は日本と、後一国だけ。

遺族感情を無視しようといっているのではありません。遺族の傷は、この犯罪社を生んでしまった社会の責任で経済的、心理的支援を手厚くする必要があります。そして何よりも再発防止が社会に生きる全ての大人の責任でしょう。
死刑は抑止力にはなりえないと思います。アメリカは死刑があるにもかかわらず犯罪も多い国です。

予防するにはもっと研究しなければならないと思い
ます。こういう事件を起こす人は例外なく不幸です。その不幸は社会的地位や経済ではなく、人を信じられないという不幸です。人を信じられないというのは、病いです。社会の病いを治療するには、健康な人間。人を信じることのできる人間を増やすしかないと思います。

オーケストラの少女の一人は、相手を鞭打つ代わりに自分を鞭打ち続ける。ということで、無自覚にナチスを鞭打ち続け、いまだに孤独で人や、社会を信じることができません。もう一人は、ナチスの行為を憎むけれど、社会にでていき、人を信じることをやめず、より平和な社会がくるように人に関わり続けました。

どちらの選択も私たちには赦されているし、個人でどちらの生き方を選んでもそれを批判するつもりはないです。けれど、どちらを選ぶのが社会の安全を築くのに、責任感のある態度でしょう?大人なら、考える義務と責任があると思います。