音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

わが祖国 チェコ編

2022-03-13 22:00:31 | 名曲
いつもの京田辺の酒屋神社裏に 

小さな梅林。


満開でした。

アルフォンス マリア ミュシャ(1860-1939年)

オーストリア モラヴィア
イヴァンチツェ(チェコ語)生まれ、ドイツ国ベーメン メーレン保護領プラハ没
ブルノ中学校に入学、聖歌隊に入り音楽家を目指しましたが、15歳の時に声が出なくなり諦めます。
コーラス仲間にヤナーチェクがいたそうです。

19歳でウィーンに行き、舞台装置工房で働きながら、夜間のデッサン学校に通います。
25歳でパトロンのエゴン伯爵の援助でミュンヘン美術学校に入学。

35歳の時にサラ ベルナールの芝居「ジスモンダ」
のポスターを描くと人気を博し、
「椿姫」


「ラ ブリュム」

「トスカ」

など次々と彼女のポスターを手掛け、ともに人気になります。

タバコ、シャンパン、自転車のポスターもサラ ベルナールを絵描きます。

絵本の挿絵でも人気になります。

アメリカのチャールズ クレーンに金銭的な援助を受けお金の心配がなくなったミュシャは1910年故郷のチェコに帰り「スラブ叙事詩」を制作します。

これはベドルジハ・スメタナ(1824-1884年)オーストリア帝国リトミシュル生まれ、オーストリアハンガリー帝国プラハ没の連作交響詩「わが祖国」を聴いたことで、構想を得て20点の絵画を20年に渡って描きます。



1918年オーストリア帝国が崩壊。
チェコスロバキアが成立すると紙幣や切手、国章のデザインを無報酬で行いました。

1939年3月ナチスドイツによってチェコスロバキアは解体。
「絵画がチェコ国民の愛国心を刺激する。」という理由で逮捕され、厳しく尋問されます。

開放されたものの、
78歳のミュシャにとっては負担となり7月に亡くなります。

ベドルジヒ スメタナ(1824-1884年)

の「わが祖国」は1874-1879年に書かれた6つの連作交響詩です。
「ヴィシュフラド」高い城という意味で、プラハにあるヴルタヴァ川の畔にあるヴィシュフラド城を題材にしています。ボヘミア王国の居城でもあり、吟遊詩人のハープで始まり、B♭ーE♭ーDーB♭の城のテーマが管楽器、弦楽器、オーケストラと引き継いで演奏されます。

「ヴルタヴァ」
チェコ語のモルダウ川で、15.16世紀のイタリアの歌手ジュゼッペ チェンチ作の「ラ マントヴァーナ」に由来するメロディがモルダバに伝わり、その土地の民謡となりました。
この民謡が主題になっています。

「シャールカ」
プラハの北東の谷シャールカであった乙女戦争。
女たちは自分を縄でくくり苦しんでいるように見せ、敵の男たちをだまし、縄を解かせます。
助けてもらったお礼にとお酒を振る舞い酔っ払うのを待ち、角笛を吹きその合図で仲間の女たちを呼び、皆殺しにします。

「ボヘミアの森と草原から」
鬱蒼とした深い森チェコの田舎の夏の日の喜び、収穫を喜ぶ農民の踊り、祈りの情景、チェコの国民的舞踊ポルカが演奏されます。

「ターポル」
15世紀の宗教改革者ヤン フスが焚刑にされたことが、きっかけで起こったフス戦争。
18年続き破れますがチェコの人々の繋がりを深めたといわれています。
その時に歌われた「汝ら神の戦士」が全篇に使われています。

「プラニーク」
プラニークは、中央ボヘミアにある山で、ここにフス派の戦士が眠っていて、伝説によれば、この戦士たちは国家が危機に瀕したとき復活し助けると言われています。
「最後には彼とお前が常に勝利とともにある」