白丁花ハクチョウゲの花が実家の庭に生えていました。
植えた覚えが無いので、鳥が運んできたのかな?
に捧げられています。
鉄道建設に携わっている父フランソワとアンナの間に生まれました。
にんじんの挿絵1902年
植えた覚えが無いので、鳥が運んできたのかな?
肩の骨を骨折した母は、タクシーで近所の病院に行ったら、後2週間は腕を釣っておいてと言われたそうです。
その後リハビリは自力で…。
そんなものなのかなぁ?
まあ、お琴があるから、リハビリは絶対するとは思いますが。
しばらくはまだ、食事を運ぶ日が続きそうです。
モーリス ラヴェル(1875〜1937年)フランス共和国シヴール生まれ、フランス共和国パリ没
1906年31歳に作曲した「博物誌」は、ジュール ルナールの5つの詩に歌とピアノをつけたものです。
ラヴェルの弟子マヌエル ローゼンタールが声楽とオーケストラのためのバージョンを作成しました。
この曲は初演を行ったメゾソプラノ歌手ジェーン バートリー
に捧げられています。
ジュール ルナール(1864-1910年)
フランス シャロン デュ メーヌ、マイエンヌ生まれ、フランスパリ没
鉄道建設に携わっている父フランソワとアンナの間に生まれました。
高等師範学校を目指すも成績が振るわず、文学に演劇ジャーナリズムに興味を持ち始め、進学を断念。パリで創作活動の道を歩みます。
軍隊に入り、詩や小説を書き始めます。23歳の時に倉庫会社の書記になりましたが、すぐに解雇されました。
ダルブラン夫妻の支援を受け、24歳の時にマリー モルノーと結婚します。
「メルキュール ド フランス」の創刊に尽力、ここで多くの詩や物語、評論を載せて、次第にルナールの知名度が上がってきます。
1894年に「にんじん」を発表します。
にんじんの挿絵1902年
1896年「博物誌」「愛人」をリリース。
1897年には散文劇「別れも楽し」を上演し、大成功を納め、一流作家の仲間入りを果たしました。
しかし、1897年には父親が病を苦に猟銃自殺を果たし、衝撃を受けました。
1900年レジオン ド ヌール賞を受賞。
1907年アカデミーコンクールの会員になります。1910年動脈硬化により46歳で亡くなります。
「博物誌」の初演は怒号が巻き起こり、途中で退出する人が出ました。
「博物誌」の初演は怒号が巻き起こり、途中で退出する人が出ました。
全体に一人芝居のようで
孔雀などは、「レオン!レオン!」と、叫ぶなど先鋭的で理解不能だったようです。
ルナールはラヴェルについて書いています。
「ダークで豊か、エレガントな「博物誌」の作曲家であるM. ラヴェルが、今夜彼の歌を聴きに行くよう私に勧めています。私は彼に音楽のことは何も知らないと言い、「博物誌」に何を加えることができたのか尋ねました。
彼は「何も付け加えるつもりはなく、単に解釈しただけです」と答えた。
「でも、どういう方法で?」
「例えば、あなたが木の前にいるとき、私はあなたが言葉で言うことを音楽で伝えようとしました。私は音楽で考え、感じています、そして私もあなたと同じことを感じていると思いたいのです。」
「博物誌」
孔雀
コオロギ
白鳥
カワセミ
ホロホロ鳥
「孔雀」
今日こそ間違いなく婚礼の式のはずだ
それは昨日のはずだった。着飾って、彼は準備していたのだ
彼は花嫁だけを待っていた。彼女は来なかった。遅れるはずがないのに。
意気揚々と、彼はインドの王子のような足取りで歩き回り
豪華な贈り物を身に着けて持ち運ぶ。
愛する心がその色彩のまばゆさを高め 頭の毛は竪琴のように震えている。
花嫁はやってこない。
彼は屋根のてっぺんに登り 太陽の方を見つめる。
彼は悪魔の叫びを投げつける。
レオン! レオン!
こんな風に彼は花嫁を呼ぶのだ。だが誰もやってこないし誰も返事をしない。
家禽たちも慣れっこになって頭を上げようとすらしない。
彼らも感嘆するのに飽き飽きしているのだ。
彼は庭へと降りてくる、自分が美しいと確信しているので腹を立てることすらしないのだ。
彼の婚礼は明日に延びるだろう。
そこで今日の残りをどのように過ごすか分からずに、彼は玄関の方へと歩いてゆく。
そして階段を上ってゆくのだ、まるで神殿の階段のように、正式なステップで。
彼は婚礼衣装を持ち上げる その裾はもはや取れなくなった目玉でとても重くなっている
彼はそのセレモニーをもう一回繰り返す。