音楽の喜び フルートとともに

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哀しみの時代

2023-05-07 21:00:00 | ルネッサンス
土曜はギターの川原久美子さんと合わせ。

14日13:00開演、池田ギター練習会でカルッリのフルートとギター「2つの二重奏」からDuo1と、ドビュッシーの「夢」をバスフルートとギターで演奏します。

川原さんのお嬢さんの東京土産。
ピーターラビットのくるみのクッキー。
せっかくなのでイギリスっぽいお皿…実はソーサーで頂きました。
紅茶はいつものウェッジウッドのワイルドストロベリー。紅茶はルピシアのマスカットダージリン。

イングランド気分盛り上がって、イギリス…と言うわけにはいかず、
カルッリはイタリア生まれ、パリで活躍した作曲家。ドビュッシーはフレンチ。

確かに古典派、ロマン派のイギリスのギター作曲家など、きいたことがありません。

ギターはスペインのビウエラから始まり、イタリアや南米で流行りました。
オーストリアやフランスにはイタリア人の作曲家が多く渡っています。

しかし、当時ヨーロッパの辺境であったイギリスにわざわざ渡った人は少なかったのです。

だからといってイギリスに撥弦の文化がないかといえば、そういうわけではなく、リュートや、小型のハープが人気がありました。

イギリスの撥弦楽器の偉大な作曲家にはジョン ダウランド(1563〜1626年


がいました。
と言ってもギターは当時はなく、リュート全盛時代。

リュートのために書いた曲が、編曲されて多くのギタリストによって演奏されています。

彼の作品の1番の特徴は、世俗曲が多いこと。
それは、彼がエリザベス一世


のもとで宮廷リュート奏者を望みますが採用されませんでした。
宮廷の予算縮小や、彼が女王に献呈する曲を怠ったせいだと言われていますが、本人は一時期カトリック教徒だったために、イングランド国教会の女王から排斥されたものと信じていて、ずっとぼやいていました。

そのため、ヴェネツィア、フィレンツェ、ニュルンベルクなどヨーロッパを遍歴しながら、世俗曲を作曲したものと思われます。

自分の曲を売り込まなければならなかったダウランドはその頃ヨーロッパで流行った哀しみを演出し、

「涙のジョン ダウランド」と自称。

イタリアに渡ると
「不幸なるイングランド人ジョヴァンニ デュランデ」
と、名乗りました。

そして「人を救う技芸はその主を救うことあたわず」
「運命の女神(フォルトゥーナ)の祝福を受けざりしものは
ただ憤るか、泣きはらすのみ」

というモットー(キャッチフレーズ?)までありました。

「常にダウランド、常に嘆いている」(Semper Dowland Semper Dolens)ダウランドとdolens嘆きと韻を踏んでいるという題名の曲を書いたりもしています。

1595年エリザベス女王暗殺計画を持ちかけられ、これを密告します。

1598年にはデンマークでクリスチャン4世


のリュート奏者を務め、1606年イングランドへ戻ります。

1612年45歳で、念願の国王ジェームス一世

付きのリュート奏者になり、晩年は不満を口にしなくなり、幸せに暮らしたのではないかと言われています。

「彼女は僕を受け入れてくれるのだろうか?」

あのこはぼくの苦しみをどう言い訳できるのか、可愛いフリをして?
彼女が冷たいとわかったのに、ぼくは彼女を素敵だと呼べるだろうか?
それって煙となって消えてしまう炎なのだろうか?
ぼくは実りのない木を褒め称えなければならないのだろうか?

いや、影がそこにいる人と間違えられるようなところだと
ぼんやりしてたらだまされるんだ
冷たい愛なんて、砂に書かれた言葉のようなもの
それとも水に浮かぶ泡

お前はまだ愚かにすがりつくのか
あのこは決してお前に優しくないのに?
あのこの心を勝ち取らなければ
お前の愛が実ることはないのに

ぼくはそんなにダメなやつだったのか、高望みしなかったことが
あのこがぼくに求めただけの大きな喜びを
そいつがでかければでかい分、ぼくの願いも大きいのに
あのこがそれを否定するなら、いったい何を受け入れてくれるのか?

もしもあのこが真面目に考えてるのなら
愛することが真っ当なことなのに
ねえ、この愛を受け入れてぼくをシアワセにしてよ
でなけりゃ今すぐに死なせてくれよ

死んじまった方が何千倍もいい
愛するためにずっと苦しむよりは
愛しい人よ、でも忘れないで、それはぼくなんだ
君のために、満ち足りて死んでいった男は