長居駅近くのヴァイオリン木村直子先生
とヴィオラ金重美代さん、
チェロ木村政雄先生
とフルート久米素子の四重奏練習。
モーツァルトのDdurのフルートカルテットです。
今日は半分はピアノの坂田さんが加わってモーツァルトのピアノカルテットも練習しました。私はこの時は譜めくりをしました。
譜めくり難しい…ドキドキしました。
8月6日(日)本番てす。
先生のお宅の猫さん。
いつも温かくて…至高の音色、アンサンブル。
本当に幸せな時間です。
8月が終わったら、フルート(ヴァイオリンの編曲)ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ピアノの編成でフランクの五重奏か、ドボルザークの五重奏ができないかと、相談しました。
セザール フランク(18。22から1890年)ネーデルラント連合王国(1830年からベルギー)リエージュ生まれ、フランス共和国パリ没
ドイツ系の家系で父ニコラは銀行家でベルギー国境付近の出身。母のマリーはアーヘンの出身でした。
弟ジョゼフと共に幼くしてピアノの才能を示し、彼らはリストのような題名ピアニストにすべく父により英才教育を受けました。
1834年12歳の時に始めのコンサートを開いています。
国王レオポルト一世も隣席していました。
1834年リエージュ王立音楽院
を卒業し、1835年パリに移住するとアントニーン ライヒャに教えを受けました。10ヶ月後ライヒャがな亡くなると1837年パリ音楽院に入学し、作曲、ピアノ、オルガンを学びました。
その頃、フランス国籍の取得に向け、働き掛け37人には帰化が認められました。
1842年退学しましたが、44年にはパリに戻って活動しました。
ベルギー帰国は父の意向が大きかったと言われています。
演奏会を開いて収入を得ようとしましたが失敗。
父はパリで演奏収入を得させようとしましたがうまくいかず、フランクは苦しい生活を送りましたが、音楽院に復学して学ぶことがてきました。
また、その頃、ウジェニー フェリシテ=カロリーネ セイヨ(1824-1918年)コメディー フランセーズに所属する芸人デムソーという名の両親の娘と恋愛関係になります。
フランクの父は「喜ばしい記憶の中の F デムソー嬢へ」という献辞の付いた楽譜を見つけ、本人の目の前で破り捨てました。
フランクはそのままデムソー家に向かい、そこで楽譜をもう一度書いて、献辞を元の通りに書き、フェリシテに贈りました。
父は結婚について一切認めず、母を苦痛に陥れたと非難し、夫婦間の毒殺事件に発展すると怒鳴りつけました。
そこでフランクは持てるものだけを持って両親の家を後にするとデムソー家で歓迎され、移り住み、二度と帰リませんでした。
25歳の時、ついに全員を説き伏せ両親とも、和解し結婚にこぎつけました。
1851年神式のオルガンが設置されたサン ジャン サン フランソワ マレー教会のオルガニストに就任し、安定した収入を得ます。
1853年サント クロチルド教会のオルガニストになります。
サン クロチルド教会のオルガン
1872年革命で止まっていたパリ音楽院が、再開します。
オルガン演奏家として名声を得ていたフランクは推薦され、教授になります。
オルガンを演奏するフランク
その頃から長年温めていた曲想を楽譜に起こせるようになっていました。
そんな中の一曲が、ピアノ五重奏曲(1879年)です。
批評家は「この曲は不穏な生気が宿り、劇場的と言って良いほどの気まずさを称えている」と表しました。
ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」に触発され、後半生の室内楽の作曲期に入ります。
その口火を切ることになった作品です。
初演は1880年国民音楽協会で行われました。フランクはサン・サーンスにこの曲を献呈しようとしましたが、3サン・サーンスは曲の内容に不満を持ったらしく、演奏が終わると献辞の書かれた自筆譜を残してそのまま舞台を後にしてしまいました。