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イサクとアブラハムのお話し

2023-06-07 21:00:00 | 現代
京都、今出川大宮のF先生のレッスン。

京阪特急で出町柳まで出て、バスで10分。
レッスンが終わったらル メックでパンを買って帰りました。

オレンジジャムの挟まったパンが大好き。

こっちはラムレーズンバター。
生地がモチモチで中身をひきたてています。

先生の家は京町家。

函谷鉾のちまきがついていました。
函谷関の戦い、紀元前241年
楚・趙・魏・韓・燕の五国合従軍と秦の合戦の時
斉の宰相 孟嘗君

が秦の昭襄王から逃れるために、日頃取るに足らない才能と言われていた食客に頼み鶏の真似をして鳴いてもらいます。
すると、他の鶏も釣られて鳴き出し、これを聞いた門番が朝と間違えて門を開け、孟嘗君はこれに乗じて逃げ助かりました。

函谷鉾の三日月は函谷関にかかる月と闇を象徴。

真鍮の雄鶏と雌鶏が飾られています。

他にも、

ゴブラン織りの絨毯16世紀ベルギーで作られた「イサクの嫁選び」18世紀から飾られています。
これはイサクが、嫁選びに際して父アブラハムと、神の教えを従順に守り、素直に従った。という旧約聖書の一場面を描いたものです。

このイサクと父のアブラハムの話しはストラヴィンスキーやブリテンも描いています。違うエピソードですが、やはり、自らのエゴを捨て、主に従うということが主題になっています。

ちょっと現代の私にしたら受け入れられないような話しです。

イーゴリ ストラヴィンスキー(1882-1971年)ロシア帝国サンクトペテルブルグ ロモノソフ生まれ、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク没

は、ポーランド系小貴族の家庭に生まれます。現在のリトアニア大公国の土地を支配していました。
サンクトペテルブルク大学法学部に進学するも、リムスキーコルサコフに出会い、音楽を学ぶことになります。

左からストラヴィンスキー、リムスキー=コルサコフ、その娘のナジェージダ、シテインベルク、カーチャ(ストラヴィンスキーの妻)(1908年)
1910年、バレエ・リュスのために作曲した「火の鳥」で人気になります。

1914年冬、第一次世界大戦で保養中のスイスから戻れなくなり移住します。
ロシア10月革命で土地は、取り上げられ、バレエ・リュスも公演出来なくなります。
1920年、フランスに移住します。
1938年長女を結核でうしない、相次いで妻と母を亡くします。

その頃ドイツからは「退廃音楽」として排除され、フランスでは、興味を持たれなくなりました。

1925年からニューヨークを訪れ、公演や講習を行い、1939年ハーバード大学から招聘され6回の連続講義をすると、そのままニューヨークに移住します。

1951年頃から12音技法を取り入れるようになります。
この頃作曲されたものの1つに宗教的バラッド「イサクとアブラハム」があります。

75歳を過ぎたストラヴィンスキーの変貌に周囲はたいへん驚かされました。

この曲は神がアブラハムを呼び、大切な一人息子イサクを生贄に捧げなさいと言われ、二人はモリヤの地に向かいます。

『イサクの犠牲』、 アンドレア・デル・サルト、(1527-1529年)、アルテ・マイスター絵画館 (ドレスデン)
イサクを縛り、殺そうとする時、主が現れ、主に従う心を讃え、イサクの子どもたちが繁栄するだろうと約束します。