月曜日は渡辺橋近くのサロン ド プリンンシパルでフルートアンサンブルレッスンでした。


デンマーク フュン島
の貧しいペンキ職人の家庭に12人兄弟の7番目として生まれました。

と結婚します。

はデンマーク王立美術院を出てヴァイオリニストのテルマーニー エミルと結婚し、ニールセンの音楽の普及に務めました。

「霧が晴れていく」
6月18日(日)の発表会では
エスカル大阪では、アンダーソンの「ブルー・タンゴ」を5人で吹きます。
それから、ピアノとフルートでそれぞれ一曲吹きます。私はベリローの「バラード」を吹きます。
そしてフルートオーケストラでベートーヴェンの「田園」をエスカルみんな
で吹きます。
バスフルートの音量の無さに苦しんでいます。
「ふわっと吹いたらいいみたい。」とバスフルートのTさんのアドバイス。
そうか。やってみよう。
少し大きくなったみたい。
難しいなぁ!
後少しがんばります。

カール ニールセン(1865~1931年)デンマーク ノーレ リュンデルセ生まれ、デンマーク コペンハーゲン没

デンマーク フュン島

の貧しいペンキ職人の家庭に12人兄弟の7番目として生まれました。
父の軍楽バンドでビューグルと
、アルトトロンボーン奏者として演奏していました。

1884年から86年12月にコペンハーゲンのデンマークアカデミーに通いました。
1984年バイオリンで受験しましたが、不合格。ニルス ゲーゼに作品を見せると作曲家に合格が許されました。
1891年彫刻家のアネ マリーイ

と結婚します。
彼女は意思が強く、現代的な考え方を持つ女性で自分にのキャリアを築き上げることを決意していました。
1年のうち、数ヶ月カールを残して家をルするにすることになりました。3人の子供の面倒を見ながら、王立劇場の仕事をこなさなければなりませんでした。そして、ニールセンは他の女性との関係に流されやすかった。
1905年には離婚を提案しましたが、結局長い別離があったものの、ニールセン夫婦は婚姻関係を続けました。
5人の子供のうち、2人は非嫡出子でした。マリーイに出会う前に生まれた息子カール、婚外子の娘ラーケル スイークマンでマリーイは生涯その存在を知らされませんでした。
マリーイとの間には1男2女をもうけました。
長女イアメリーンは音楽理論を父から学び、コペンハーゲン大学の教授でデンマーク国立病院の院長と結婚しました。次女はアネ マリーイ テルマーニー

はデンマーク王立美術院を出てヴァイオリニストのテルマーニー エミルと結婚し、ニールセンの音楽の普及に務めました。
長男のハンス ポーウは髄膜炎の後遺症で障害を抱えており、生涯の大半を家族とは別に暮らしました。

作品1は弦楽合奏のための小組曲です。23歳の時に初演されました。
翌年から16年間に渡り、ヨハン スベンソン
が指揮を務めるデンマーク王立管弦楽団で第2ヴァイオリンを務めます。1916年にデンマーク音楽アカデミーで教員のポストにつき、以後亡くなるまでその職にとどまりました。
「霧が晴れていく」は劇音楽「母」OP41FS 94。1920年作曲の中の1曲でフルートとハープによります。
ヘルデ ローゼが書いた「母」の戯曲は第一次世界大戦でデンマークがドイツに勝利した結果、シュレースヴィヒ北部がデンマークに復帰するのを記念した内容です。
離れ離れになった息子が母のもとへ帰還する。おとぎ話調で領土の復帰を祝いました。
しばしば下記の曲は抜粋して演奏されています。
霧が晴れていく フルートとハープ
子ども達は遊んでいる 無伴奏フルート
希望と信仰の戯れ フルートとヴィオラの二重奏
「霧が晴れていく」