音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

霧の中で

2023-06-15 20:59:00 | ロマン派
月曜日は渡辺橋近くのサロン ド プリンンシパルでフルートアンサンブルレッスンでした。  

6月18日(日)の発表会では
エスカル大阪では、アンダーソンの「ブルー・タンゴ」を5人で吹きます。
それから、ピアノとフルートでそれぞれ一曲吹きます。私はベリローの「バラード」を吹きます。
そしてフルートオーケストラでベートーヴェンの「田園」をエスカルみんな
で吹きます。

バスフルートの音量の無さに苦しんでいます。
「ふわっと吹いたらいいみたい。」とバスフルートのTさんのアドバイス。
そうか。やってみよう。
少し大きくなったみたい。
難しいなぁ!
後少しがんばります。

カール ニールセン(1865~1931年)デンマーク ノーレ リュンデルセ生まれ、デンマーク コペンハーゲン没

デンマーク フュン島

の貧しいペンキ職人の家庭に12人兄弟の7番目として生まれました。
父の軍楽バンドでビューグルと
、アルトトロンボーン奏者として演奏していました。

1884年から86年12月にコペンハーゲンのデンマークアカデミーに通いました。
1984年バイオリンで受験しましたが、不合格。ニルス ゲーゼに作品を見せると作曲家に合格が許されました。
1891年彫刻家のアネ マリーイ

と結婚します。
彼女は意思が強く、現代的な考え方を持つ女性で自分にのキャリアを築き上げることを決意していました。
1年のうち、数ヶ月カールを残して家をルするにすることになりました。3人の子供の面倒を見ながら、王立劇場の仕事をこなさなければなりませんでした。そして、ニールセンは他の女性との関係に流されやすかった。

1905年には離婚を提案しましたが、結局長い別離があったものの、ニールセン夫婦は婚姻関係を続けました。

5人の子供のうち、2人は非嫡出子でした。マリーイに出会う前に生まれた息子カール、婚外子の娘ラーケル スイークマンでマリーイは生涯その存在を知らされませんでした。

マリーイとの間には1男2女をもうけました。
長女イアメリーンは音楽理論を父から学び、コペンハーゲン大学の教授でデンマーク国立病院の院長と結婚しました。次女はアネ マリーイ テルマーニー


はデンマーク王立美術院を出てヴァイオリニストのテルマーニー エミルと結婚し、ニールセンの音楽の普及に務めました。

長男のハンス ポーウは髄膜炎の後遺症で障害を抱えており、生涯の大半を家族とは別に暮らしました。


作品1は弦楽合奏のための小組曲です。23歳の時に初演されました。

翌年から16年間に渡り、ヨハン スベンソン
が指揮を務めるデンマーク王立管弦楽団で第2ヴァイオリンを務めます。1916年にデンマーク音楽アカデミーで教員のポストにつき、以後亡くなるまでその職にとどまりました。

「霧が晴れていく」は劇音楽「母」OP41FS 94。1920年作曲の中の1曲でフルートとハープによります。

ヘルデ ローゼが書いた「母」の戯曲は第一次世界大戦でデンマークがドイツに勝利した結果、シュレースヴィヒ北部がデンマークに復帰するのを記念した内容です。

離れ離れになった息子が母のもとへ帰還する。おとぎ話調で領土の復帰を祝いました。

しばしば下記の曲は抜粋して演奏されています。

霧が晴れていく フルートとハープ
子ども達は遊んでいる 無伴奏フルート
希望と信仰の戯れ フルートとヴィオラの二重奏

「霧が晴れていく」




カエルの合唱

2023-06-15 09:00:00 | 民謡
第2火曜日の午前中は子育てサロンでした。

前につくったパネルシアター
「ねずみくんのチョッキ」ポプラ社なかえよしお作 上野紀子画をしました。
今日のこどもたちは、1歳までの子どもが多かったですが、大きなパネルシアターを食い入るように見つめてくれました。

それから、カタツムリの絵本を読んでから、カタツムリの体にペタペタ貼って



できました!
楽しかったかな?

「かえるの合唱」は作詞岡本敏明、作曲ドイツ民謡とされています。
岡本敏明本人は訳詞と言っています。

原曲の作詞はホフマン フォン ファラースレーベン(1798ー1874年


カール ゲオルク シューマッハによる肖像画1819年
フォン スレーベンの町長で商人で宿屋の主人とその妻の下に生まれます。
ゲッティンゲンで神学の勉強を始めましたが、古典古代の方に関心を持っており、ドイツ文学の研究に転向しました。

1821年中世の叙事詩オトフリートの断片を発見し、論文を書き出版しました。

1823年ブレスラウ大学図書館に学芸員主任として招かれました。そこで、ドイツ語と文学の嘱託教授に任命され、1835年には正教授に任命されました。
1840年と41年に詩集を出版すると、1万2000部の初版を売り上げます。
さらに多くの追加注文も来ました。

1841年ドイツの歌を執筆し、これは後にドイツ国歌になっています。
オランダ文献学でもライデン大学の名誉博士号を授与されました。

しかし、愛国的民主的な態度のために、プロイセン政府によって教授職を解任されます。国籍も剥奪され、国外追放になりました。

1849年に名誉を回復し、ラインラントに戻ってくることができました。51歳で姪の18歳のイーダ フォン ベルゲと結婚しました。
1855年子どもが生まれ、フランツ リストが名付け親になっています。

1860年、リストはラティボル公爵ヴィクトル一世の宮廷図書館に彼を紹介し、ホフマンは職につきます。
その年妻が亡くなり、1874年75歳で亡くなりました。

彼は他にも民謡を作詞しています「小人が森に立っている」「ブンブンブン」「かっこう」などです。

「カエルの合唱」は、1930年玉川学園を訪ねたヴェルナー チンマーマンが教えたヨーロッパの歌の中にこの曲がありました。
同席した岡本がその後日本語版を作詞しました。
1947年の国定教科書に採択され、1949年から全国で使われました。

「カエルの合唱」
Ganze Sommernächte lang,
ガンツェ ゾンメル  ネヒテ ランク

(夏の夜の間じゅう)
hören wir den Froschgesang;
ヘーレン ヴィルデン フロシュゲザング

(かえるの歌が聞こえる)
quak quak quak quak,
クヴァック クヴァック クヴァック クヴァック

kä_kä_kä_kä_käkä kä_kä
ケ ケ ケ ケ ケ ケ ケ ケ
quak quak quak.
クヴァック クヴァック クヴァック