眼科に来ています。
梅の花の季節限定ランチ
は、17世紀ドイツの作曲家。同時代に音楽を築いたハインリヒ・シュッツ
プフォルタフュルステンハウス寄宿学校
で勉強し、その後1608年から1612年までライプツィヒ大学に通い、ここでは一般教養に加えて法学も勉強しました。
のトーマスカントルの地位につき、同時にライプツィヒ市音楽監督となりました。
目が悪くなって楽譜が読みにくくなってきました。
しかし、混んでいます。
眼科前の椅子はいっぱいて座れないので、外に溢れています。
待っている間することが無いので、ブログの下書き書いています。
Wi-Fiは不安定なので、eメールの作成画面に入力。後で投稿編集画面にコピペします。
途中で急に呼ばれても、保存作業しなくても画面に文字が残っています。
さて、検診が終わって、T-SITEでウィンドウショッピング。
フルートを入れる底45cm幅の軽量バックを探しています。
買いそうになりましたが、縦も長いのでやっぱりやめ。
縦はA4横が入るくらいでいいのです。手作り市でもず〜っと探していました。
もう、作ろうかな?
お昼になったので一人でランチ。
梅の花の季節限定ランチ
豆乳の茶碗蒸し、湯葉の佃煮、卯の花のマリネ、桜えび揚出し豆腐と餅豆腐と菜の花のあんかけ。
季節限定に弱いなあ…。
美味しかった。お豆腐ばかりですが、満足。
地下で次男のお弁当の野菜買って帰りました。
今日いただいたのはお豆腐料理で精進料理とは違いますが、その流れを汲むものです。
「五観の偈」は主に禅宗おいて食事の前に唱えられる偈文です。
五観文、食事五観文、食事訓とも言います。
「五観の偈」
一 計功多少 量彼来処 : 功の多少を計り彼かの来処を量る。
この食事がどうしてできたかを考え、食事が調うまでの多くの人々の働きに感謝をします。
二 忖己德行 全缺應供 : 己が徳行の全欠を忖って供に応ず。
自分の行いが、この食を頂くに価するものであるかどうか反省します。
三 防心離過 貪等為宗 : 心を防ぎ過がを離るることは貪等(とんとう)を宗とす。
四 正事良薬 為療形枯 : 正に良薬を事とする形枯(ぎようこ)を療ぜんが為なり。
食とは良薬なのであり、身体をやしない、正しい健康を得るために頂くのです。
五 為成道故 今受此食 : 成道の為の故えに今この食じきを受く。
今この食事を頂くのは、己の道を成し遂げるためです。
「貪」にまみれる生活を送っている身には耳の痛い言葉です。
ヨハン・ヘルマン・シャイン(1586 - 1630年)神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領グリュンハイン生まれ、
は、17世紀ドイツの作曲家。同時代に音楽を築いたハインリヒ・シュッツ
1585年1672年
とザムエル・シャイト
とザムエル・シャイト
1587-1653年
と合わせて、ドイツ・バロックの3Sと呼ばれています。
と合わせて、ドイツ・バロックの3Sと呼ばれています。
父の死をきっかけにドレスデンへ移り、同地でザクセン選帝侯の聖歌隊にボーイソプラノとして参加しました。
シャインは聖歌隊員として歌うのと同時に、その並外れた才能を見抜いた宮廷楽長のRogier Michaelに音楽教育を受けました。
彼は1603年から1607年にかけてプフォルタ校(Pforta)
プフォルタフュルステンハウス寄宿学校
で勉強し、その後1608年から1612年までライプツィヒ大学に通い、ここでは一般教養に加えて法学も勉強しました。
卒業後、シャインはすぐにゴットフリート・フォン・ヴォルファースドルフ邸に音楽教師として雇われました。
その後彼はヴァイマルの宮廷楽長となり、それから間もない1615年にライプツィヒで聖トーマス教会
のトーマスカントルの地位につき、同時にライプツィヒ市音楽監督となりました。
シャインは残りの生涯にわたってこの地位にありました(およそ1世紀後にヨハン・ゼバスティアン・バッハがこの地位に就任しています)。
シャインは生涯にわたり病気に苦しめられ、幸福で長い生涯を送ることが出来ませんでした。
彼の妻は子供の出産時に亡くなり、5人いた彼の子供のうち4人が幼少期に亡くなっています。
シャイン自身も、結核・痛風・壊血病および腎臓の病気を患った末、44歳で死去しています。
シャインは宗教音楽と世俗音楽をほぼ同じくらい作曲し、ほぼ全てが歌曲です。
シャインの世俗歌曲は、その歌詞全てを自らが執筆しています。
生涯を通じて、シャインは宗教音楽と世俗音楽の曲集を交互に出版していました。これは、彼が早期に、礼拝のための音楽と社交的な集まりのための音楽を交互に出そうと決心していたためです。
彼の宗教音楽の一部がイタリアの祈祷用マドリガーレにみられる洗練された技術を用いているのに対して、世俗音楽では酒宴歌にみられる単純さとユーモアが用いられています。
シャインの作品のいくつかは強烈な表現力をもっていて、当時のドイツではそれに匹敵するものはシュッツの作品のみでした。
シャインの最も有名な音楽集は、唯一の器楽集である「音楽の饗宴」(Banchetto musicale, 1617年)です。
この曲集には20の独立した変奏組曲が含まれていて、それらはこの形式としては最初期にして最も完璧な代表作とされています。
おそらくこれらの曲はヴァイセンフェルスやヴァイマルの宮廷における晩餐のための音楽として作曲され、ヴィオールによって演奏されることを意図していたと思われます。
「音楽の饗宴」パドゥアナ