金曜は久しぶりに母のお使い。
一休さんゆかりのお寺、一休寺がある京田辺市のシンボルはやはり一休さん。
ここの生しば漬けが美味しくて、母は長年ここで買っています。
私も好きです。
と再婚します。
の宮廷でカペルマイスターを務めており、ヨハンもその宮廷音楽家てした。
暴君だったベートーヴェンの父に対して、マリアは情深く優しい女性だったと言われています。
仕事を辞めて求職中だった姪が、東京に仕事が決まって、同居解消。
短い休憩でした。
今週、市役所に行って欲しいと言われ京田辺市役所まで書類を取りに行くミッション。
それだけで済むわけは無く、「まず、京都銀行。」と言うのて、京都銀行まで行って駐車場に入ろうとしたら
「違う。この近くの友だちの家やん。」
って聞いてない…急に方向転換したので警備員さんがびっくりしてる。
と言いたくなるのを平静に…平静に…。
「この辺りと思うねんけど〇〇さんの家」
それでたどり着ける?
「住所教えて。」路端に停めてナビ入力。
着きました。
「この辺りやったと思ったんだけど。」
…違います。
無事に友だちにお届け物をして、市役所へ。
昭和なオブジェ
一休さんゆかりのお寺、一休寺がある京田辺市のシンボルはやはり一休さん。
「これで帰ってもいい?」と聞くと「いつものお漬物買いに行きたいねんけど…。」
お祝いごとがあって生徒さんたちが集まるので配りたいらしい。
山城、青谷の市久八木さん。
山城大橋を渡って青谷へ、民家の並ぶ中の漬物屋さん。
ここの生しば漬けが美味しくて、母は長年ここで買っています。
私も好きです。
それから、「お茶も買いたい。」というので平和堂までいって、いつものお茶を購入。
「明日から量り売りのキャンペーンで安くなりますよ。」と、親切な店員さん。
「それがね。どうしても今日要るの。」やはり明日の大集合で使うらしい。
残念。
でも定価で買う所、シールシートが溜まっていて10%引きで買えました。
今日は午後からお筝のお稽古があるので、お昼を一緒に食べて、早めに放免。
私も帰って翌日のコンサートの準備です。
土曜日午後〜、堺市都市緑化センター、「みどりのホールコンサート」でギターの川原久美子さんとフルート久米素子で演奏します。
曲はイベールの間奏曲
ピアソラのオブリビオン、リベルタンゴ。
他にもストーリーテリング、リコーダーカルテットやクラリネットとフルートの二重奏などもあります。
ぜひおいでください。
ベートーヴェン
の母は
マリア・マグダレーナ・ケフェリッヒ(1746-1787年)
神聖ローマ帝国エーレンブライトシュテイン(現在はコブレンツの一部)に生まれ、
父はヨハン・ハインリヒ・ケフェリヒ(1701年-1759年)、母はアンナ・クララ(旧姓ヴェストルフ 1707年-1768年)で、2人は1731年に結婚しました。
ヨハンは1733年からトリーア選帝侯
コンスタンティヌス大聖堂前にあるトリーア選帝侯宮殿(1615 ~ 1676 年、拡張 1756 年)(1846 ~ 1856 年に部分的に再建)。
の宮廷料理長を務め、エーレンブライトシュテインのシュロス・フィリップスブルクに居を構えていました。
の宮廷料理長を務め、エーレンブライトシュテインのシュロス・フィリップスブルクに居を構えていました。
マリア・マグダレーナは彼らの6人の子どものうち、末子でした。
1763年1月30日、彼女はトリーア大司教に仕えるヨハン・ゲオルク・レイムと結婚しましたが、彼は2年後1765年にこの世を去っています。
マリア・マグダレーナは1767年11月12日にボンの聖レミギウス教会でヨハン・ヴァン・ベートーヴェン
と再婚します。
ヨハンの父はボンにあったケルン選帝侯領
の宮廷でカペルマイスターを務めており、ヨハンもその宮廷音楽家てした。
ヨハンとマリアは7人の子を儲けました。
ルートヴィヒ(1770-1827年)
カスパール アントン(1774-1815年)とニコラウス(1776-1848年)の他は幼くして亡くなっています。
マリアは1787年に結核により40歳で命を落としました。彼女の生誕地は現在ムッター・ベートーヴェン・ハウスという博物館になっています。
暴君だったベートーヴェンの父に対して、マリアは情深く優しい女性だったと言われています。
ベートーヴェン16歳、モーツァルトを訪問するためにウィーンの旅に出掛けますが、ここで母危篤の知らせを受けます。
まもなくマリアは40歳の若さで亡くなります。
その後父はアルコール依存症となり、家計を支えなければならなくなったベートーヴェンは仕事を掛け持ちし、父や兄弟たちの世話に追われることとなります。
ベートーヴェンの手紙より。
「(母危篤の知らせを受け)彼女がもう一度復活し、困難に立ち向かう勇気を私に再び与えてくれることを夢見ましたが、7/17に闘病の末、亡くなりました。
彼女はあたたかく愛情深い母であり、私にとって一番の親友でもありました。
母の名前を呼ぶことが出来ていた時、私以上に幸せな人間は居ませんでした。
今はその名を呼んでも静寂が在るだけ。」
母のいる生活の中で作曲されたピアノ協奏曲第0番変ホ長調wo04
作曲当時ベートーヴェンは13歳で、この曲は彼の初期作品の一つに数えられます。
現存する楽譜のタイトルには「ピアノフォルテもしくはチェンバロのための協奏曲」と記されています。
「12歳で作曲した」と書かれていますが、これは父ヨハンによる偽称の可能性が高いそうです。
1890年に出版されました。