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シュトラウスと競合

2024-05-24 21:22:00 | ロマン派
萩原天神と



線路の間の道を少し行くと「いつもの処」があります。
反対側は

萩原天神駅
踏切の側には

ナツグミの木。
少し渋いですが食べられます。
食べたこと無いですが…
金重さんが「たくさん食べるとお腹壊すのよ。」
たくさん食べたことあるのかな?
アキグミというのもあるそう。
アキグミは、渋みが強いので生食できるけど食べずにお酒に漬けて、果実酒にするそうです。

さくらんぼみたいにかわいくて、美味しそうです。

一個くらい試させて貰えばよかった。  食い意地のはった私です。
いや、好奇心…かも。

ヨーゼフ ランナー(1781-1843年)神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没


シュトラウス一家に先立ってウィンナ・ワルツの様式を確立させたため、「ワルツの始祖」と呼ばれることがあります。  

そして後にはヨハン・シュトラウス1世と対決しつつワルツを磨き上げていきました(ワルツ合戦)。

ワルツ、ポルカ、ギャロップ、レントラーなど400曲以上の舞曲などを作曲しました。

特に『シュタイアーマルク風舞曲』と『シェーンブルンの人びと』は、イーゴリ・ストラヴィンスキーのバレエ音楽『ペトルーシュカ』にそのモチーフが採り入れられています。ショパンやスメタナ、リヒャルト・シュトラウスなどの作品にも影響を与えました。

ウィーンフィル・ニューイヤーコンサートにおいては、シュトラウス一族でない作曲家としては最も頻繁にその作品がプログラム上に取り入れられています。

ランナーは手袋職人の家に生まれました。

ランナーの生家

父親がよく行き、マイケル・ペイマーが演奏していた近くのバーで、彼のヴァイオリンを聴いて、音楽の道を志しました。

若いランナーはヴァイオリンを弾きたがったので、父は彼を教師として迎えました。

ペイマーはすぐに彼を自分のバンドに加えました。

当初、父親は息子がヴァイオリンを演奏することを不快な目で見ていましたが、フランスとの戦争で負傷し帰国し、国の経済的困難により破産したときも、息子の邪魔をすることはありませんでした。

18 歳でランナーは独立し、カールとヤン・ドラハネクとともに自身のトリオ (ヴァイオリン 2 本とギター ) を設立しました。

彼らは1819 年にウィーンのプラーター公園で最初の公演を行いました。年末に、ランナー18歳は別のメンバーである15歳のヨハン・シュトラウス一世を受け入れました。

2人はこれにより自分達のワルツを作曲し始めました。


1835年ヨハン シュトラウス一世

彼は徐々にバンドの規模を拡大し続け、1824 年にはすでに 12 人のメンバーを擁していました。その後、彼はバンドをいくつかの団体に分割し、夜通し彼らを率いることはなくなり、彼らの間を行き来しました。

人々は「足を躍らせ、しかも目には少し涙をにじませる」と言いました。

当時の音楽批評家エドゥアルト・ハンスリックは、ランナーの音楽を「スミレの香りのするメロディー」と褒め称えています。

ランナーのワルツはたちまち広く認められ、次々と出版されるようになりました。

エドゥアルト・ヤーコプは、「ランナーによってワルツにもロマン時代が始まった」と評しています。

彼の人気はウィーンで急速に高まりました。

1829「宮廷レドゥーテンザール音楽指揮者」に就任しました。

ランナーは愛すべき人物でしたが、汗をかいたとゾフィー大公妃


の面前で燕尾服を脱いだり、酔っ払って指揮台に乗ろうとするなど、礼儀欠いたことから、すぐに罷免されました。

やがて楽団が大きくなり過ぎ、半分に割り、片方をシュトラウスに指揮させました。

すると人々がシュトラウスの方に集まり、二人の間にヒビが入るようになりました。


ランナーとシュトラウスの銅像。右がランナー。

口論があったとか噂されていますがはっきりとはわかりません。

ただ競合関係になり、そのことでワルツと音楽は発展したのでした。

彼は1843年発疹チフスで亡くなりました。


ランナーの葬送行列。1843年


ウィーン中央墓地にあるランナーの墓。

ランナーの主な貢献は、ワルツの 8 小節を繰り返すテンプレート (当時のダンス ワルツの典型) を放棄し、互いに流れ込むさまざまなモチーフを作曲し始めたことです。

シュトラウスは海外にも進出しましたが、ランナーはほとんどウィーンの中で演奏したのであまり外国では知られていません、しかし、今だに人気の曲が多く残っています。

1835年作曲した「蒸気ワルツ」op94