火曜日に新幹線の車窓から見えたたぶん伊吹山。
の肖像画の中のこの肖像画は
ドイツのマインツで生まれ、ウィーンやパリで絵を学び、1820年からバイエルン王国の宮廷画家を務めた肖像画家です。
1788-1831年1803年頃に出会い、ベートーヴェンがなくなるまで年金を贈り続けました。
はこのミサ曲を「真正なベートーヴェン的精神を持つ、純粋な交響曲的作品」と評しました。
1882- 1937年パウル ベッカー
は
山頂に少し雪が積もっていました。
昨日から寒波で今日は一段と寒くなりました。
伊吹山も今頃真っ白になっているかも。
雪の伊吹山、荘厳な感じがします。
新幹線の中にLineが来てオケに誘われました。ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)演奏しない?」
引き受けました。
ルードヴィヒ ヴァン ベートーヴェン(1770-1827年)神聖ローマ帝国ケルン選帝侯領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没
の肖像画の中のこの肖像画は
ヨーゼフ・カール・シュティーラー(Joseph Karl Stieler 1781~1858)。
ドイツのマインツで生まれ、ウィーンやパリで絵を学び、1820年からバイエルン王国の宮廷画家を務めた肖像画家です。
このベートーヴェンの肖像画は1819年から20年に描かれたもので、ちょうどベートーヴェンが50歳を迎えようかという時期の顔です。手にはその頃作曲中だった〈ミサ・ソレムニス〉の楽譜が描かれています。
ミサ ソレニムスはミサの名称の一つで主司式司祭と助祭・副助祭による読唱ミサに、合唱による歌ミサを伴うものをこう呼びます。音楽用語としては『荘厳ミサ曲(そうごんみさきょく)』と訳されます。
ベートーヴェンは壮年期のミサ曲ハ長調と、晩年のミサ・ソレムニス ニ長調を残しています。
前者は伝統的な教会音楽の上に作られた作品であるのに対し、後者は単なる教会音楽を超えたより深く普遍的なものを含まれていると言われています。
その理由としては、テキスト自体はカトリックの典礼文に則っているものの、『クレド』以降の歌詞の取り扱い方が伝統的なそれとかなり異なっています。
ミサの式典ではほとんど演奏されず、演奏会で、演奏されます。
ベートーヴェンのミサ・ソレムニス ニ長調 作品123は、1823年に完成された晩年の大曲です。
心から心へ
自筆譜のキリエ冒頭には、
Mit Andachtという指示の他にベートーベンが
"Von Herzen ― möge es wieder ― zu Herzen gehen"(心から出で、願わくば再び、心へと至らんことを)と書いています。
これは人類に向けた普遍的なメッセージと捉えられ、第九と並んで人類愛をうたうベートーベンというイメージに寄与して来ました。
献呈の相手はベートーヴェンのパトロンの1人ルドルフ大公。
1788-1831年1803年頃に出会い、ベートーヴェンがなくなるまで年金を贈り続けました。
当初、大公の大司教就任祝いとして書き始められました。しかし、書き進むうちに次第に構想が広がって、就任式に間に合わなくなり、完成までに結局5年間を要しました。
実際に大公が演奏したかは不明ですが、現在でもベートーヴェンが書いた最後の大宗教曲として広く演奏されています。
ベートーヴェンは権威的・教条主義的なキリスト教会に対して、批判的な思想と宗教観を持っていたという事も注目されてきました。
ワーグナー
はこのミサ曲を「真正なベートーヴェン的精神を持つ、純粋な交響曲的作品」と評しました。
20世紀を代表するベートーヴェン研究家のパウル・ベッカー
1882- 1937年パウル ベッカー
は
「素直な信仰から生じる歌詞に(音楽を)合わせる様な処理はベートーヴェンの考えには現れえず」、
「音楽家として自身の深く自由な思想を、単なる歌詞の意味を超越した音楽によって表現している」と語っています。
ただ歌詞に見合った曲をつけたような旧来型のミサ曲ではなく、ミサの言葉の外面的な意味よりも豊かな内容を含む交響曲的なミサ曲だと言われています。
キリエ 神よ憐れみ給え
グローリア 神の栄光のうちに
クレド 私は信じるひとつの神を
サンクトゥス 聖なるかな
アニュス・デイ 神の小羊
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