浜大津駅の「響けユーフォニアム号」
帰りも乗りました。
マスタークラスで学んだことを発表する受講生コンサートが最後にありました。
妻ヘンリエッテとヨハン
オベラ歌手時代のヘンリエッテ
乗りました。
2日間のセミナーの余韻に浸っています。
帰りも乗りました。
フィガロホールは中ノ庄から徒歩六分位。滋賀県大津市で、素晴らしい音響でした。
マスタークラスで学んだことを発表する受講生コンサートが最後にありました。
天才や神童のような方たちの間に演奏するのは、本当に度胸が要りますが、これも修行のうちと「えいやっ!」と演奏してきました。
せっかく富久田先生にご指導頂いたことをできたりできなかったり…。
それでも素晴らしいピアニストの石橋尚子先生と演奏できるなんて本当幸せでした。
最後にお礼に行って「ありがとうございます。やり切ったかんじでしたが、やっぱり心残りもありました。」というと「心残りの無い演奏なんてありませんから。」と言われて
「…ああ、本当ですね。」と深く納得しました。
一生足りないものを追いかけて、それが無くなったら成長も終わり。先生方に共通するのはこういう姿勢なのだと思いました。
そしてそれは案外楽しい。
ヨハン シュトラウス2世(1825-1899年)オーストリア帝国ウィーン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没
妻ヘンリエッテとヨハン
1862年36歳で47歳のヘンリエッテと結婚します。
社交界の花形で財産家だったヘンリエッテはヨハンを支え、上流社会との強力なコネがあり、2年後宮廷舞踏会の楽長に就任します。
オベラ歌手時代のヘンリエッテ
ヨハンは妻を「僕の財布」と呼び、ヘンリエッテは夫のことを「私の坊や」と呼びました。
財政の基盤ができたことで、指揮の仕事に時間を取られることが無くなり、仕事を選び、作曲に専念する時間を得られるようになり、音楽家として大きく成長することができました。
「芸術家の生活」は新聞人協会「コンコルディア」でワルツがいくつか上演されたことに気を良くして、数日で書き上げました。
1867年に初演されました。それは「美しき青きドナウ」初演の3日後初演されました。
ウィーン芸術家協会「ヘルペルス(宵の明星)」に献呈されました。
しかし、初演時の評判は散々なものでした。
シュトラウスは
「たしかにコーダは失敗だったと思うが、こんなワルツは悪魔にでも食われてしまえ!……しかし、なんとか成功させたかったものだ……」
今では人気のワルツになりました。
この曲は踊り専用のワルツで、聴く用のワルツと分科する初期の作品でした。
絵画では印象派がそうでした。映画では公開当時はたいしたことがなかった"ショーシャンクの空に"は今では名作中の名作に評価が高まっています。
クラッシック音楽の世界など何百年も経ってから注目されたり、平気でありますね。バッハなんて200年越し、ダウランドは300年…。
ショーシャンクの空には、そつだったのてすかね。初めから評価されていたのだと思っていました。情報ありがとうございます。