昨年、庭に植えたつるバラのピエール・ド・ロンサールが、一年ぶりに花を咲かせました。昨年は一輪だけだったのが、枝が伸びて、たくさんの花をつけています。
今日の子育てサロンは、みんなで作ったパネルシアターさんぽのデビューです。
借りているコミュニティルームの会議机と、椅子を片付けて、掃除機をかけます。
お母さんたちが、こどもを見守りながら、話せるようにお茶を飲むも用意します。
赤ちゃんがはいはいしてもいいように、マットを敷いて清潔な雑巾で拭きます。
壁には、かわいいあひるや、さるのキャラクター、季節の花の壁面飾りを再利用できるようにガムテープでくっつけます。
新しいスタッフの3人も、慣れてきて、いい動きをしてくれています。
人数が増えて本当に助かります。
今日は仕事を抜けて部会長のSさんも覗きにきてくれていました。
受付で、ひとりずつ名札を作ってもらい、汽車のボードに貼ってもらいます。
おもちゃで遊んだり、自由に話してもらった後、サロンの始まり。
みんな、春になって一回り大きく育っている感じ。
Tさんが、お母さんと子どもの、温かいふれあいをテーマに話してくれたあと、
Oさんが、一人ずつお名前を呼びながら、汽車の名札を渡します。
ちゃんと、お返事してくれる子、お母さんが返事する子、いろいろです。
会のテーマソングをMさんのリードで歌います。ピアノは私…まずいですが。
それから、いよいよパネルシアター。
Mさん、Yさんが、まず、おべんとバスのシアターをしてくれます。人参、トマト、ハンバーグのお弁当ができました。
その後、いよいよお弁当をもって「さんぽ」です。
みんなで作ったパネルはかわいくて、こどもたちは一生懸命見てくれました。
そして自由時間。人数が多かったのでお母さんたちも自分たちですぐに友達作りをしてくれているようでいた。
先月、欲しいおもちゃがあると、我慢できずに無理やり友達からとっていた子どもが、今月は、泣きながらも、がまんしています。
「貸してっていってみようか?」
と言っていても涙がとまらない、言えないでいると、相手の子どもが「どうぞ。」と貸してくれました。
「ありがとう」ってまだ言えなくて、たくさんあるおもちゃを独り占め。
今度は、相手の子が「貸して」って言っています。
そしたら今度は、一つおもちゃを取って相手に投げ出します。まだ、素直にはなれませんが、貸してあげなくちゃっていうところまでは成長してきています。
相手の子は、投げつけられたおもちゃを拾って機嫌よく遊んでいます。これぐらいの子どもの共同体感覚は驚異的です。
最後に私が絵本を3冊読んで、わんちゃんの食べているのは何かな?というと、「おにぎり!」などと大きな声で指差してくれました。
さよなら三角をみんなで歌って、来てくれてありがとう。また来月。元気できてくださいね。
日曜日に、父が退院してきて、とりあえず、病院の簡易ベッドで泊まらなくてよくなって、ちょっと一息。
今日は、ピアノのTさんと、アンサンブルをしました。
一緒に教室の看板作りをしていたGさんが用事でキャンセル。
Gさん頼みのトールペイントはお休みして、Tさんと二人ランチを食べて、アンサンブル。
ヘンデルのソナタ、ブリジアルディの椿姫のファンタジー、ドボルザークのソナティネ。
久しぶりのTさんのピアノは、気持ちいい!初見の曲も音が抜けたりしたとしても、ちゃんと音楽になります。また、何かやりたい。
沖縄の史跡巡り。5月2日にはレンタカーを借りて、那覇から北上しながら、史跡をめぐりました。
ここは、中村家住宅
中村家は500年前に、護佐丸が中城に居城を移した時に、一緒に当地に移り、この家は18世紀頃に建てられたものが、そのまま残っています。朝一番についたのですが、静謐そのもの。
遺跡というより、懐かしい田舎の家に来たような空気です。
中村家が付いてきた、護佐丸の居城、中城(ナカグスク)城址、世界遺産です。
中城按司(ナカグスクアジ)が代々築きあげ、14世紀護佐丸によって現在の形に完成しました。石積みの技術は本土よりも高かったそうで、空中写真でもない限り全体は取れませんが、城塞だけで43000坪もあり、壮大な遺跡です。
城塞からの眺めがすごいです。地元小学生の団体も来ていて、すれ違う度に「こんにちわ。」と帽子を取って挨拶してくれて、とっても新鮮でした。昔は、大阪の子どもたちも知らない人にも挨拶してたのを思い出しました。
中城の護佐丸を滅ぼしたのが、ここ勝連城跡(カツレンジョウシ)の阿麻和利(アマワリ)。やはり世界遺産です。13世紀からいろいろな按司によって、継がれてきた勝連城は、10代目の阿麻和利という英雄を産みます。圧政をしていた前任者を倒し若くして城主になった阿麻和利は、海外貿易や善政によって、力を付け、一時は首里城の琉球王の娘を嫁にしていました。護佐丸を滅ぼした後、首里城を攻めますが、逆に滅ぼされます。
やはり、あたりを見渡すことのできる、素晴らしい眺望の位置に建てられていました。
首里国王の娘で阿麻和利の妻になっていた百十踏揚(ももとふみあかり)は、阿麻和利を滅ぼした鬼大城と再婚、しかし彼もまたクーデターによって滅ぼされ、百十踏揚は、島尻王城に落ち延び、隠居生活を送ったとされています。
旅行者は旅行者に過ぎないけれど、何度も行くうちに、今の沖縄、昔の沖縄、沖縄をいろいろな角度から知ることができ、だんだん立体的になってきた気がします。
ブログ、土日はお休みと決めていたのですが、昨日お休みだったので、今日は、アップします。
父が入院中だろうと、沖縄に行こうと、フルートは休みなしです。
7日には、アルドー・バーデンマスタークラスを聴講しました。
バーデンさんは、ベルギー、ブリュッセル生まれ、ベーター・ルーカス・グラーフに師事、ベルギーチェンバーオーケストラ、ライプツィヒ放送交響楽団、ロイヤル・フランダースフィルの首席フルート奏者を務められています。
プロコフィエフのソナタの第一楽章、第4楽章
演奏を終えた受講生に、「自分の演奏の何が良かったか?教えてください。」
答えられずに黙っていると、「心配しないで、みんなこれを答えるのは難しいのです。必ずいいところがあります。まず、自分演奏のいいところを見つけましょう。」
それでも、答えに詰まっていると
「音程は?」「テンポは?」
「あなたのテンポ、音程はとても良かったです。」
「そして、次に、このあと、何を勉強していこうと思いますか?」
「この曲のイメージ、何を伝えようと思いますか?」
「曲のかかれた背景を知っていることも大事。」「スターリンに支配されていた時代のプロコフィエフが書いた曲。この中に出てくる軍隊の行進曲は、スターリンの軍隊で、4楽章は、スターリンを打ち負かした喜びの曲のようなイメージを私は持っています。しかし、あなたがどのようなイメージを持つかは、自由です。大切なことは、作品のイメージ、ストーリーを持つこと、何を伝えたいのかが、大切なのです。」
ビブラートは、高音部の方が、振幅の幅を広げ、低音は、幅を狭くします。
低音の3連符のスタカート、激しい音色が欲しいので、早い息をフルートの奥深くまで吹き入れるようにします。
モーツアルトのフルート協奏曲Gdur 1楽章
「古典を吹く上で、もっとも大事なことはなんですか?」
「それは、クリアーであること。」
「何が一番モーツアルトの傑作でしょう?それは、オペラです。オペラの中の表現を思い出してください。」
「たくさんの音符にまどわされないで、どこからどこまでアウフタクトなのか?考えましょう。」
「ピアニストを見ること、お客さんをみること、一緒に演奏して、演奏を聴いていただいているのをわすれないようにしましょう。」
マスタークラスの後、ミニコンサート
ドビュッシーの牧神の午後への前奏曲、シリンクス
ライネッケのウンディーヌ
ドップラーのアンダンテとロンド
ピアノは岡純子さん、デュオのフルートは通訳もしてくれていた柴田俊幸さん。
バーデンさんは、美しい音色、特に高音の透明感は、抜群です。繊細で洒脱な表現力も特徴です。
ピアノは難しい曲を、岡さんが難なくこなしていて素晴らしいコンビネーションでした。
柴田さんは、バーデンさんのお弟子さんとあって、息もあっていて、とても元気とパワーのある演奏でした。前から知り合いだったのを、自慢してもいいかな?別の意味でも、とても嬉しかった!
生徒自身に問いかけ、考えさせるレッスンは、とても、楽しかったです。
そして、こんなふうに吹けるよね、こんなふうにも、と実際に吹いてみて、「どちらが好きですか?」と具体的に違いを提示して、選ばせるというやり方も、とてもわかりやすく素晴らしいと思いました。
昨夜は、母の代わりに病院に泊まりました。排尿の度に、管にすることを思い出してもらわないと、大変になことになります。
「トイレは、行かなくていいんだよ。」
「ふーん。なんでや。」
「管がついているから。」
「すまんなぁ。」
「大丈夫やよ。」を昨夜は、4回ほど繰り返しました。
父が大変な時に、なんですが、沖縄に1日~4日行ってきました。予約した頃には、こんなことになるとは、予期せず、心を残しながら、出発。
神戸航空からの出発をピカチュウが見送ってくれました。紫外線の多い中、空港のお仕事も大変だなぁ。
沖縄はあいにくの曇天です。
1日は、午後出発だったので、ほとんど、移動のみ。那覇の南西観光ホテルにチェックインし、有名な公設市場の横をずっと入ったところにある地元の人が行く市場に行き、島らっきょう・・・伊江島産がおいしいです。それから、へちまとピーマン。じーまーみーを買いました。ここはびっくりするくらい安いです。キャベツ3個150円、ニラ6束100円。流石に旅の初めでは葉物は買えませんが。4日に来ようと思ったら、休業。3日の夜間に合えば来ることにしました。この八百屋さんの目印は、箱に入った猫。
可愛いです。その日は、創作フランス料理の店プチットリュで食べましたが、写真を撮る前に食べてしまいました。地元テレビで、料理教室をするほどのお店。
地元の肉や野菜を使っていて、鰹節は隣のお店のもの。うまくアレンジしてあって、最高でした。沖縄にしては、ちょこっと高いですが。
明日、病院なので、明後日に続く。
連休が終わります。父が入院して、1ヶ月。兼ねて予約したあった沖縄に行っている間に、退院か?と思われた途端、具合が悪くなり、関西医大に転院。
妹と母に沖縄から電話で、連絡を取り合いながらの旅行になりました。次男にも様子を見てきてもらうように頼んだり。
4日の深夜帰宅、5日の朝、早速病院に行く準備をしていると、長いこと会っていなかった従兄から携帯に電話。私の携帯にかけてくるのは初めて。
『もしや…。』と嫌な予感。
「お元気ですか?」従兄と言っても、私が生まれた時にはもう大人で随分年長の方ですが、いつも丁寧な言葉使いです。
「4日の午後4時に、母が亡くなりました。」
多勢いた父の兄弟の、一人。父の姉ミサヲさんのことでした。
亡くなる前に父に会わせようと、実家に何度も電話をしてくださっていたのに、留守。母も転院してから、ずっと父の病室で寝泊りしていたので不在。やっと、今朝になって年賀状から私の携帯番号をしらべて連絡がついたのでした。
父は、近しかった兄が亡くなった時も、ショックを受けていたそうで、最後の兄弟だったので、母と相談して黙っていることにしました。
入院中だし、お通夜や、お葬式はたいへんだから、いいよという従兄に、しかし、ご焼香だけでもと、午後から出かけました。
会館の都合で、明日お通夜ということで、本当に身内の方だけで、ゆっくりとお別れをすることができました。
享年97歳。
頻繁にあっていたわけではありませんが、私の知る限り、ミサヲさんは母亡き後、弟たちを母親のように見守り、育て、結婚して、夫と死に別れ、3人の息子たちを働いて育てあげた暖かくたくましい人でした。
私も、3歳頃、母が骨折と、出産で入院した時に、何ヶ月か預けられ、ミサヲさんの暖かさをいまでもよく覚えています。
男の子3人は、成人していて働きにでていて、はんこやさんをしながら、私を見てくれていました。
「おかあさん。」と泣いてばかりの私を一生懸命みてくれ、食が細いのを心配して好物を聞いてくれました。「半熟卵。」と言うと、次の食事の時間、大皿に半分に切った半熟卵をずらっと並べてだしてくれました。
あんなにたくさんの半熟卵を見たのは初めて、おいしくていくつも食べたことを覚えています。
もう一つは、魚の目を両足の裏に10個以上作って、歩くと「痛い、痛い。」と泣いていた私を心配して、足にイボコロリを貼ってくれました。
しばらくすると、イボの周りの皮膚が盛り上がってきて、それを切っているとイボがなくなるのですが、そこは3歳の子ども。
カミソリを持った途端に、「イヤや~。怖い!」と泣き叫び、「はさみやったらいいか?」
「うん。」
でも、ハサミを当てようとしたら、やっぱり「怖い~。」
とうとうあきらめて、昼間は過ごしました。
深夜、気配を感じて、目が覚めたら、おばさんが、ハサミを手に、足の皮を切ろうとしているところ。
目は覚めて、少しむずかったけれど、結局ねむさに負けて寝てしまいました。
それから、「切ろうか?」と言われたら「眠ってるあいだにして。」とわがままを言って。
毎日切ってくれたようで、足は預けられている間に、綺麗に治ってしまいました。
わたしの結婚式の時にも、来てくれて、本当にうれしそうだった。
暖かく、優しい印象しかない。
長く働き、亡くなる前も、周りの人をユーモアで励まし、愛されていたそうです。
お寺で短期修行をして、法衣と、戒名をもらっていて、すっかり準備もされていたそうです。
お別れができてよかった。どうぞ、ゆっくりお眠りください。