音楽の喜び フルートとともに

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睡蓮の花に寄す

2023-11-10 21:00:00 | ロマン派
東南楽植物園に咲いていた睡蓮。

熱帯性睡蓮サイアム パープルという品種らしいです。

青い睡蓮は耐寒性が無く、ヨーロッパでは垂涎のものだったそうです。

睡蓮の画家モネも青い睡蓮をジヴェルニーの庭に欲しくて育てたそうですが(この品種ではない)終生花を見ることはなかったそうてす。

11月の沖縄にはたくさん咲いていました。
現在は青い熱帯性睡蓮と耐寒性のある温帯性睡蓮を交配させてヨーロッパでも青い花を咲かせているそうです。

エドワード マクダウェル(1860-1908年)アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク生没

スコットランド系移民の父とアイルランド系移民の母の間に生まれました。
彼らはニューヨークで宿泊所を営んでいて、そこには国外からの音楽家が長期滞在していました。
ヴァイオリンとピアノを学んでいてそこに泊まった音楽家に楽才を認められました。

1877年17歳で母とフランスに渡り、パリ音楽院の入学資格を得ます。
しかし、フランス語や習慣に馴染めず、留学先をドイツに変更します。

フランクフルトホーホ音楽学校に籍を置き、ピアノを学びながら、校長のヨアヒム ラフ

に作曲を学びました。

ラフはリストと友人でリストがこの頃訪れ、マクダウェルの「モダン組曲第一番」を目にして、全ドイツ音楽協会に紹介したり、楽譜出版のブライトコブフ&ヘルテル社で出版できるように計らいました。

卒業後、ダルムシュタット音楽院でピアノ教師を務めます。

1884年ニューヨーク出身のアメリカ人女性、ドイツでの教え子のマリアン ネヴィンズと結婚します。

1888年アメリカに帰国し、ボストンで音楽教師をしてきましたが、コロンビア大学に招かれ主任教授に赴任します。
男性合唱団メンデルスゾーン グリー クラブの指揮者も引き受けています。

1902年辻馬車にはねられ、後遺症で心身がおかされ、教授に復帰することができなくなります。
グリークラブは彼の闘病を支えるために募金を行っています。
1908年全身麻痺のために急死します。

ニューハンプシャー州ピーターバラの別荘に芸術家村を作る計画を練っていて、マリアンによって実現されました。

マリアンは彼の死後25年芸術家村を運営しました。
この村は現在も芸術家を教育、支援し続けています。

「睡蓮の花に寄す」は、1896年に出版されたピアノ曲集「森のスケッチop51」の第六曲です。

1:To a Wild Rose/のばらに寄す
2:Will o' the Wisp/鬼火
3:At an Old Trysting Place/
 懐かしき思い出の場所で
4:In Aurumn/秋に
5:From an Indian Lodge/
 インディアンの小屋から
6:To a Water Lily/睡蓮の花に寄す
7:From Uncle Remus/
 リーマスおじさんから
8:A Deserted Farm/荒れはてた農園
9:By a Meadow Brook/牧場の小川で
10:Told at Sunset/夕べの語らい

「睡蓮の花に寄す」





日曜作曲家の人気の曲

2023-11-09 21:00:00 | 近代
水曜日午後、ピアノのTさんのお宅に打ち合わせに行きました。
トイ・プードルのココちゃんが大歓迎してくれました。

3年ぶり、覚えててくれた。
興奮し過ぎて、動き回るのでうまく撮れませんでした。
子育てサロンのクリスマスコンサートもTさんとは3年ぶり。

フルートとピアノで3曲聴いてもらって、絵本と音楽、
メロディベルで「きよしこの夜」、
鈴やカスタネットで「あわてんぼうのサンタクロース」を合奏。
最後はサンタクロースがプレゼントを持って来て、子どもたちに配ります。
この時にはクリスマス・キヤロルをバックミュージックを演奏します。
演奏しているとココちゃんピアノの下にもぐって丸くなって聴いています。
お利口さん!


しゃべり出すと、椅子の上に乗って、そこから私の膝の上に乗って私の手をペロペロ。
一皮剥ける位舐めてもらって、手がきれいになりました。

ヴィヴァルディの四季の「冬」とか、
ボロディンの「弦楽四重奏曲第2番の夜想曲」なんか、クリスマスっぽいかもとか、何曲が演奏してみたりお茶飲みながらTさんとしゃべったり、ココちゃんもペロペロ。
癒やされました。

アレクサンドル・ボロディン(1833ー1887年)ロシア帝国サンクトペテルブルク生没

グルジアのイメレティ州タヴァディのルカ ゲテヴァニシヴィリ(ロシア名ゲディアノフ)62歳と 25歳のロシア女性エヴドキヤ アントノヴァの非嫡出子として生まれます。

父は彼を実子として戸籍登録せず、 農奴の1人ポルフィリ ボロディンの息子として登録しました。

しかし、ボロディンはピアノの稽古を含めて優れた教育を受け、化学を専攻しました。サンクトペテルブルク大学の医学部に入り、最優秀で卒業後、陸軍病院に勤務、24歳の時にヨーロッパに長期出張しました。

この時ムソルグスキーと知り合い。シューマンの曲を紹介され、興味を持ちました。

ピザ大学では臭化ナトリウムを用いた有機窒素の定量法を発見しました。

26歳の時サンクトペテルベルク大学に化学で入学。元素理論を確立したメンデレーエフと知り合います。卒業後はサンクトペテルブルク大学医学部生科学の助教授、教授と進み、生涯有機化学の研究科として多大な業績を残しました。

作曲は1863年ミリーバラキレフとで会うまで正式に学んだことはありませんでした。

1869年ヴァラキレフの指揮によって交響曲第1番が初演され、交響曲第2番に着手します。この新作は初演時には失敗しましたが、1880年フランツリストがワイマールでドイツ初演の手はずを整え、ボロディンの名をロシアの外に広めました。

1881年「弦楽四重奏曲第2番ニ短調」をジトヴォで作曲、妻エカテリーナ(?-1887年)

に愛を告白した20周年の記念に献呈されました。
1882年初演。

第1楽章 アレグロモデラート
第2楽章 スケルツォ アレグロ
第3楽章 ノクチュルヌ(夜想曲)アンダンテ
第4楽章 フィナーレ アンダンテーヴィヴァーチェ

特に第三楽章夜想曲は人気でリムスキーコルサコフを初めとする弦楽合奏のための編曲など、いろいろな作曲家による編曲版が多数存在しています。

ボロディンは化学者としては、ボロディン反応(ハロゲン化アルキルの合成法、ハンスディーカー反応の別名)に名を残しています。また、求核付加反応の一つであるアルドール反応を発見したとされます。…なんのことやら?
アルデヒドの研究でも知られています。
化学者として生涯給与を得ていたので、忙しく、「日曜作曲家」と自称していたので作曲数はそう多くはありませんが、昨今ますます人気のある作曲家です。







サックスの友だち

2023-11-08 21:00:00 | ロマン派
着物姿のお友だちの帯の模様。
演奏会に着てきてくれました。

音楽モチーフ。サックスとピアノ、ギターらしきものも…。

表の模様。

中の襦袢も音符🎶

洋装では見たことありますが、着物では始めて見ました。
打上げで聴いてみると、「着物と格が違うけれど見た時にうれしくなって買ってしまった。」とか。
学生時代、クラリネットをやっていたらしいです。
今は吹いてないけれど、音楽は好きだそうです。

みんなにフルート勧められていました。
仲間になって欲しいけれど無理強いはいけません。

ジュール ドゥメルスマン(1833-1866年)
フランス ホンズシュート(ベルギー近郊)生まれ、フランス パリ没

11歳でパリ音楽院でジャン・ルイ・トゥルー(1786-1865年)フランスパリ生まれ、フランスナント没

にフルートを学びました。
12歳で一等賞を受賞します。

しかし、彼はトゥルーの影響で新しくテオパルド ベームが開発したフルートを使わなかったので、パリ音楽院の教授には考慮されませんでした。

そのことは早すぎる死を招いたのかもしれません。

結核で33歳で亡くなりました。

フルートのための曲を多く残し、今でも演奏されています。

彼はアドルフ サックス(1814-1894年)ベルギー ディナン生まれ、パリ没
と友だちで1838年サックソフォンを発明し特許を取った後 初めてサクソフォンのための曲を書いた作曲家になりました。
ソプラノサクソフォンとテナーサクソフォン
1840年初頭には、ソプラニーノからコントラバスまで14種類(2つのカテゴリー7種類)のサクソフォンを作っていました。

ドゥメルスマンはサックソフォンのための曲を20曲近く作っています。

中でも人気があり今でもよく演奏されている曲の1つ「オリジナルの主題による幻想曲」(1860年)です。





木管最低音

2023-11-07 21:08:00 | 楽器
5日のフルートアンサンブル「エスカル」演奏会の写真送ってくれました。

見出し写真は、開演前の女性陣です。

緊張の本番のあとは、打上げ!
弾けてしまいました。
ところが

2次会前にコントラバスフルート体験会になってしまい…私も。
バスフルートより1オクターブ下。

しかも吉岡美恵子先生のご指導付き。
順番待ちができました。 
練習の時には気になるけど我慢してたんです。
みんな笛好きなのですよ。

担当のコントラ女子さんは「後に続いて〜!」と言ってました。
楽器をもう1台買わないとできませんが。

オーケストラの中の最も低い木管低音楽器といえばファゴット。
なかでもコントラファゴットは
ヘ音記号の下線3のラまででます。
(延長管をつけて)
ファゴットの起源はドゥルシアン

1700年製ドゥルシアン。音楽博物館(バルセロナ)所蔵

Dulcians in Theatrum Instrumentorum (ミヒャエル・プレトリウス、1620年)
と言われています。
1550-1600年の間栄えていました。
ダブルリード、キーは1つ。
その後バロックファゴット

4つのキー(B、D、As、F)を持つバロックファゴット
4つのキーがつき、テレマンやヴィヴァルディが曲を書いています。
この頃コントラバスファゴットが発明されます。

3キーありました。
モーツァルト、ハイドン、ヘンデルがこの楽器を使っています。

現在のファゴット。
4つに折られて6メートル、6キロほどもあります。
エンドピンで楽器を支えて吹きます。
19世紀にはオクターブキーを改良。
表現が広がりました。

呼称はファゴットは、ドイツ語名称 Fagott、イタリア語名称 fagotto に由来します。

スペイン語とルーマニア語でも fagot です。
fagot は「薪の束」を意味する古フランス語です。
ドゥルシアンはイタリアで fagotto と呼ばれるようになりました。

バスーンは英語の bassoon 由来であり、さらにフランス語の basson とイタリア語の bassone(basso に指大接尾辞(英語版) -one が付いたもの)に由来します。

フランス式は高音が出しやすく、バソンと今でも呼ばれています。
ロッシーニの二重奏 ファゴットとコントラバスのための





シューベルトの「秋」とお金事情

2023-11-06 21:00:00 | ロマン派
今日はフルートアンサンブル「エスカル」の第3回演奏会でした。
リハーサルは、11:00〜。
牧野から京阪9時12分の準急で出ようと昨日から準備していましたが、テレビ画面に「京阪本線 全線不通」の速報…!!

「どうしよう?!」
と、慌てていたら、夫が「高槻まで送ってやろうか?」
「え!高槻、間に合うかな?」
しかし、他に手がなく、仕方ないっと車で出発。

「9:48発にのれるかな?」
「それは無理かも。次の電車なら行けるかも」
ヤフー路線で、検索したら、9:48分でも間に合います。
「大丈夫だから、落ち着いて行って。」
「考えたら長尾周りでもよかったかなぁ。」
エスカルのグループLineにメッセージを送って

渋滞もあったけど、9:46発に乗れました。
10時45分に六甲アイランドセンター駅に着くはず。
ホッとしました。

リハーサルもやって、鶏の唐揚げ定食を食べていざ本番。

満席のお客様。感謝です。

パーセルのムーア人の復讐、シューベルトの「ロザムンデ」、ベートーヴェンの「田園」、ラヴェルの「パヴァーヌ」、シュトラウスの「ウィーンの森の物語」、「赤とんぼ」「早春賦」「小さい秋みつけた」
アンコールはミヨーの「ブラジレイラ」

榎田先生は、脚を悪くされていて、その上転んで尾底骨を打って、杖をつきながら、椅子に座っての指揮です。

体力が心配なので、今回演奏会で始めて笹山さんの指揮で2曲を
演奏しました。

榎田先生のトークで歴代の作曲家の中で存命中音楽で稼いだランキング1位は誰でしょうか?

という質問されました。

(このブログを長く読んでいただいている方は想像つきますよね。)

答えはシュトラウス。

アメリカに演奏旅行に行って2ヶ月で7回しか指揮していないのに当時のギャラを日本円に換算すると五億円稼いだそうです。

では最下位は?
シューベルト。リードを3曲書いて数千円。

「ロザムンデ」も初演時の評価は低く、2日間で打ち切られました。

榎田先生、どちらも素晴らしい作曲家ですが、質という点ではシューベルトの方が素晴らしいと思うのですが…必ずしも「質」と「評価」は一致しないんですね。と言っておられました。

フランツ シューベルト(1797-1828年)神聖ローマ帝国オーストリア大公国リヒテンタール生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

グスタフ・クリムトによって描かれたシューベルト
「ピアノを弾くシューベルト」(1899年)
「秋」HarbstD.945
1828年「白鳥の歌」におさめられました。

ルートヴィヒ レルシュターブ(1799-1860年)神聖ローマ帝国プロイセン王国ブランデンブルク選定侯領ベルリン生まれ、プロイセン王国ベルリン没

の詩につけられた曲です。
レルシュターブは当時音楽評論家として著作が人気で、音楽界で絶大な権力を持っていました。
そのため、多くの作曲家が彼の詩に曲をつけたがり、
1825年ベートーヴェンに託された作曲の仕事でしたが、ベートーヴェンが亡くなったため彼の弟子のシンドラーによってシューベルトにたくされました。

結局、この曲もシューベルトの死後に発見され、生前にはお金にはなりませんでした。

詩は、秋の寂寥感とともに、過ぎ去っていった春と夏、人生の盛りの時期を惜しむ哀愁と悲哀とに満ちています。






やちむんとモリス

2023-11-05 21:34:00 | 近代
やちむん壺屋通り祭りやってました。
夏に来た時に
たまたま、この居酒屋「小梅」さんに
寄って飲んでいたら、お料理をのせて出てくるやちむん(焼物)がどれもこれも私の好み。
「いいなぁ~!」というと11月4日〜5日にお祭りがあって、通りにやちむんが出て、「小梅」さんの二階でも「ここにあるやちむん売ってますよ。」ということで、帰ってすぐに夫が飛行機と宿、予約しました。

「小梅」さんに行くと「どうぞ、どうぞ」と2階のやちむんは見れたのですが、予約でいっぱいで呑むのは無理でした。…残念😱

4点ほど小鉢と大鉢を買わせていただいて、壺屋通りへ、

ワゴンが外に並んでいます。

私の好きなお店もテント出して10%〜50%引き。
でも残念ながら店内は割引なし。元値が高いから、あまりお得感が無いです。

なんか思ってたのと違う。良くきいたら、11月24日(金)-26(日)再来週壺屋小学校で大きなお祭りがあり、その時がお買い得だそう。

諦めて帰りかけたら、やちむん通りの向かい側のお店の前のワゴンが安い!
「ちょっと難ありやけど、良く見ないとわからんやつ。」と、お店の亭主。

良くみてもわからないし、「しかも、これ私が好きな人の!」ということで、お茶碗3点、小鉢2点、小皿1点。

正規値段と安いの、どれかわからないでしょ?
欠けやヒビはなく、釉薬がたれているとか…もともとやちむんは民芸品なのでそういう粗さは味。と思います。

バーナード リーチ(1887-1979年)イギリス領香港生まれ、イギリス コーンウォール州セント アイヴス没

イギリス人の両親のもとにうまれます。出産のため母が亡くなり、日本にいた母方の祖父(京都第三高等学校、彦根中学の英語教師)に引き取られます。

4年後植民地の官僚だった父が再婚し、香港に戻ります。
8歳でシンガポールへ、10歳で教育を受けるためにイギリス本土に戻りました。
1903年ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン付属スレード美術学校に入学するも、翌年父が亡くなり、銀行員になります。
1907年エッチングの技法をロンドンの美術学校で学びます。
この頃、高村光太郎と知り合い共感し、日本への郷愁を抱くようになります。

1909年日本にもどり、東京上野に住みます。
そこで柳宗悦や、白樺派の青年たちと知り合います。

ウィリアム モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動に触発され、手仕事の復権や、日用品の中の美について議論し合いました。

ウィリアム モリス
尾形乾山に陶芸を学び、1917年我孫子の柳宗悦の自宅に窯を開きます。

1922年濱田庄司とセント アイヴスに日本の伝統的な登り窯 リーチ ポタリーを開きます。

リーチらは陶磁器を芸術、哲学、デザイン、工芸、そして偉大な生活様式の融合したものと見ていましたが、当時の西洋では陶芸は一段低い芸術と考えられていて、彼らの作品を当時の洗練された工業製品に比べて粗野で下手なものとみなしました。

このため、リーチはイギリスでの陶芸全般の評価に失望し、1934年に再び来日し、日本民藝館設立を目指していた柳宗悦に協力しました。

イギリスに戻って1940年に出版した『A Potter's Book』(陶工の書)はリーチの職人としての哲学や技術、芸術家としての思想を表明した本で、これが後にリーチの名を知らしめるもとになりました。

1953年再来日し、柳宗悦、濱田庄司と再会。
リーチは実用より美学的関心を優先させた純粋芸術としての陶芸に対し、実用的な日用陶器を作ることを擁護しました。
リーチの陶芸自体だけではなく、その理論と哲学がアメリカ、カナダ、オーストリア、イギリス、日本など世界的に評価され、広まりました。

沖縄も何度も訪れ、人間国宝となる金城次郎とも交友があったそうです。
新垣栄三郎の窯で作陶もし、沖縄の陶芸に大きな影響を、与えたそうです。

グスタフ ホルスト(1874-1934年)イングランド チェルトナム生まれ、イングランド ロンドン没


ハマースミス社会主義運動に参加し1896年協会の合唱団の指揮者として招かれます。
1901年合唱団員のイゾベル ハリソンと結婚します。
その頃ホルストにとってモリスは偉大な英雄であり、
1900年コッツウォルズ交響曲の第2楽章は1896年に亡くなったウィリアム モリスへの挽歌となっています。

バイブリーのホテル「スワン」は350年の時を経て、今も営業が続けられている(コッツウォルズ)
今も残る昔ながらの田舎の生活。
湖沼など美しい自然が残るコッツウォルズをモリスのいう地上の天国として表現しました。




フィンガルの洞窟

2023-11-04 21:00:00 | ロマン派
アメリカビーチ。嘉手納基地の近くです。
11月ともなれば、さすがに泳ぐのは赤い禁止の旗が。

それでも26度位あって暑いので、足をつけている人が、実は足の指先を怪我しているので足はつけられなかった!
夫は遠慮なく膝まで浸かって気持ちよさそう。

蟹を手ですくって来ました。

水が透き通っているので、小魚が泳いでいるのが見えました。

フェリックス メンデルスゾーン(1809-1847年)



1830年作曲「Die Hebriden(ヘブリディーズ諸島)」がパート譜にはこの名前が書かれていましたが、総譜には、フィンガルの洞窟と書かれていました。
元々は「孤島」という名前でしたが、1832年初演のときに書き換えられました。

フィンガルの洞窟はヘブリディーズ諸島の中にあるスタファ島という無人島のことです。

1829年、メンデルスゾーンは20歳のときに誕生日を祝うためにイングランドに招待されました。
その後、スコットランドに旅行しフィンガルの洞窟を訪れます。

「フィンガルの洞窟」はウォルター・スコット(1771年~1832年)スコットランドの詩人で、小説家の小説や
ウィリアム・ターナー(1775年~1851年)の絵画
ターナーの「フィンガルの洞窟」1832年
でも見ることが出来ます。

古代フィンガル族の戦いを物語ったオシアン伝説のゆかりの地として有名で、またその独特な形が特別な場所です。

引き潮時の洞窟の入口1900年


メンデルスゾーンは洞窟に響く波の音にインスピレーションを得て書きました。




11月の曲

2023-11-03 08:03:00 | 現代
また来てしまいました!
噴煙のあがっている桜島。

前後しましたが、六甲アイランド。
あの真ん中辺りにラサーラ ディ オルフェオが…。

5日本番なのに、

沖縄。
天気予報は晴れだったのに、豪雨だったのはバチがあたったのか?!


赤嶺駅近くの「魚丸」さんでお昼ごはん。

店内海の中みたい。

刺身定食、

海老フライととろろ海鮮丼
お腹いっぱい。
食べているうちに雨はあがって、ゆいまーるに乗って、チェックイン。
それからヤチムン(焼き物)のお店へ、明日から2日間、陶器市です。

前回来た時に聞いて、すぐ予約してしまいました。

二泊三日、吹かずに本番なんて度胸のあることはできず、フルート持参です。
当日はバスフルートですが、さすがに大きすぎて持参できず、

本体洋銀に黃柘植頭部管。
Lineに送ってもらった先日の最終練習の時の録音を聞きながら、バスフルートのパートを吹きます。
まあ、気休めかも。

11月の曲といえば、「ノヴェンバー・ステップス」
武満徹(1930-1996年)東京生没

によって
1967年に作曲されました。
武満徹は東京音楽学校(現東京芸術大学)の受験をしようとするも自ら放棄し、作曲家として1人で立つ決意をします。

20歳でデビューしますが、すぐには評価されませんでした。
1957年「弦楽のためのレクイエム」を作曲。徐々に評価が高まります。

「ノヴェンバー・ステップス」は、1967年ニューヨークフィルハーモニー管弦楽団の創立125周年を記念する曲としてバーンスタイン

 
から依頼されて作曲しました。(バーンスタインは、小澤征爾から武満の琵琶と尺八のみの曲「エクリプス」を聞かされて、大変気に入りました。)

邦楽器と西洋音楽の融合をテーマに、尺八と琵琶を入れて作られました。

武満は、「オーケストラに対して、日本の伝統楽器をいかにも自然にブレンドするというようなことが、作曲家のメチエであってはならない。むしろ、琵琶と尺八がさししめす異質の音の領土を、オーケストラに対置することで際立たせるべきなのである」
「洋楽の音は水平に歩行する。だが、尺八の音は垂直に樹のように起る」
と言っていて、融合にはとても苦労したそうです。舞台配置を通常とは違えるなど工夫がされています。

「ノヴェンバー・ステップス」という名前は11月に初演が決まっていたのでノーヴェンバー、邦楽の段物の意味でステップスを使いました。

1967年11月9日、ニューヨークへ鶴田錦史(琵琶)と横山勝也(尺八)を迎え、小澤征爾の指揮で演奏されました。

1990年小澤征爾、新日本フィルハーモニー 鶴田錦史(琵琶) 横山勝也(尺八)による「ノヴェンバー・ステップス」前半



フルートアンサンブルの楽しみ

2023-11-02 20:57:00 | バロック
月曜は大阪市渡辺橋近くのサロン・ド・プリンシパルで、フルートアンサンブルの練習でした。
大阪エスカルのメンバーは6人、神戸から1人参加で1人は仕事でお休み。
なので5人で演奏会前最後の練習でした。

パートが歯抜けです。
特にフルートソロは神戸なので、旋律無し。
でもまあなんとか榎田先生の叱咤激励のおかげでなんとか練習できました。
大阪エスカルメンバー募集中です。



11月5日(祝日)フルートアンサンブル エスカル第3回演奏会
14:30開場15:00開演
ラ サーラ ディ オルフェオ(六甲アイランド リバーモール イースト2階)

ベートーヴェンの「田園」、シューベルト「ロザムンデ」、ラヴェル「亡き王女のためのパヴァーヌ」、シュトラウス「ウィーンの森の物語」、榎田先生編曲の「日本の歌」などなど。

ピッコロ、コンサートフルート、アルトフルート、バスフルート、コントラバスフルート、フルートアンサンブルの世界をお楽しみください。

ジョゼフ ボタン ド ボワモルティエ(1689-1755年)フランス ロレーヌ ティオンヴィル生まれ、フランス ロワシー アン ブリ没

モンティニー音楽教育を受けます。1731年モンティニーを追ってベルリンにうつります。
そこで、王立専売公社でタバコ製造に携わります。
マリー ヴァレットと結婚。
マリーはモンティニーの親戚で父親は豊かな金細工商でした。

出版活動を始めるとパリで評価するようになり、1724年パリに上京、作曲に打ち込みます。

器楽曲、声楽曲、劇音楽、1747年までに100曲以上の出版しました。
特に声楽曲が人気になり、経済的な支援者無しで財を築きました。

イタリアの協奏曲形式を消化した初めのフランス人作曲家でした。
フルートのために多く書いていて、フルート教則本まで書いています。

「6つの5本のフルートのための協奏曲op15」は1727年に書かれました。

通奏低音を含む器楽だけの曲で、緩ー急ー緩、あるいは急ー緩ー急の三楽章形式になっています。

6つのフルート協奏曲 第5番 Dmajor op15をフルートオーケストラに編曲して演奏しているものを見つけました。




天正少年使節が聚楽第で演奏した曲

2023-11-01 21:01:00 | ルネッサンス
お水を汲みに行った帰りによりました。
京都市の北区にある光悦堂

名物「お土居餅」の名前に魅かれて暖簾をくぐったら、ご高齢の男性が出てこられて、「何しましょう?」
悩んでいると、「もう五十五年ここでやってます。隣が空いた時にね、お金ないけど親と師匠に援助してもらって買いました。」
「その隣はね。金物屋さんやったけど、そこも買いました。」
「へー!そうなのですね。」
「25の時からやからね。こないだね。そこの金物屋息子が、何十年かぶりかで訪ねてくれましてん。うれしかったですわ〜!」
おしゃべりが止まりません。
「御土居餅ってこれですね。」
「御土居って家の前の」
「御土居って秀吉が作ったあれ?」
「そうや。鍵持ってるよ。町内会で任されてますねん。

御土居は1591年豊臣秀吉が作った京都を囲む土塁のことです。
応仁の乱で荒れた人心を治めるためにつくられたとも、洛外からの侵入者から都を守るために作られたとも、水害からの防災のためとも言われています。(諸説あります。)

徳川家康の時代になると、御土居は分断されたり移築されたり、天災で崩れたりで部分的に残っているだけです。
その一部がここにあるのです。
「お月さんがあの御土居の端からあがって、あっちの山に沈んでいくのが見えて、すごい良い感じやで。

御土居餅

こし餡をえんどう豆を混ぜた餅米で包んできな粉をかけて、御土居を表したもの
「こっちはね、きな粉を皮に使った他所ではないおもちやで。」
垣内餅

入れてもらいました。
気がついたら何分も話し込んでいました。
かわいい店主さんでした。

1591年。
秀吉の命を受け、天正の少年使節がマカオ、ポルトガル、スペイン、ローマを周り10年の旅から帰国。

アウグスブルグで発行された新聞記事・京都大学図書館所蔵

1591年3月3日(天正19年1月8日)聚楽第で西洋音楽を演奏しています。
この時に演奏されたのは、ジョスカン・デ・プレの「千々の悲しみ・Mille regretz」とされてきました。

このブログでも以前そうご紹介しました。が、最近この説に異論があります。

「千々の悲しみ」はフランス人作曲家のジョスカン・デ・プレによって書かれたフランス語で歌う曲です。

少年たちは、ポルトガル語に精通していました。
フランスに寄っていない彼らに
当時フランス語を誰かが翻訳して、わざわざ彼らに教えたとは思えないと言うことです。

もう一点は、秀吉の記録には曲名の記載無いので想像するしかないのです。

残っている書類というと楽譜です。

日本のセミナリオ(キリスト教徒の少年教育施設)でその後「千々の悲しみ」が教えられたり、教会で演奏された楽譜や記載が残っていないということです。

バテレン追放令が出されてから、1610年代に入ってもセミナリオや教会は残っていて、楽譜のリストが残っていました。

禁教令が出て、
1614年マカオに日本から持ち出された楽譜があります。そこに載っていたのは下記の5冊だそうです。

「音符を附した三つの受難書」Tria Passiona cum notis musicis
「合唱提要」一冊 um Manual de Coro
「大音楽書」三冊 Tres libros de Solfa grandes
「ローマ交誦聖歌集」一冊 um antiphonario Romano
「ドゥアルテ・ロボのミサ曲」一冊 um Libro de Missas de Duarte Lobo

ドゥアルテ ロボのミサ曲・Dum Aurora(暁のミサ)キリエ・エレイゾン1頁目

ドゥアルテ ロボはポルトガルのエヴォラ大聖堂のオルガニストで、使節団はそこで『聖十字架称賛記念日』の通常のミサ曲の中で
『Crux Fidelis・聖なる十字架の木は』
『Per signum Crucis・十字架の御印により』
『O quam gloriosum・おお、天の国の栄光は』
『Crucum Tuam・十字架を称えて崇める』の4曲が演奏されるのを聞いた記録があり、後に伊東マンショ、千々石ミゲルがエヴォラ大聖堂のオルガンを記念式典で弾いた記録もあるそうです。(曲名はわからない)

竹を銅筒の代わりに使用したパイプオルガン・複製品・平山照秋氏制作・天草コレジオ館所蔵
1600年・天草志岐の画学舎で竹筒のパイプオルガンが数台制作されたという記録が残されている

これらの曲が演奏されたのかも。という説。

または、1500年からの当時のコレジオで施された音楽教育はグレゴリオ聖歌が中心で、使節団として派遣される前から少年たちはその歌を学んでいました。

グレゴリオ聖歌

太閤豊臣秀吉の前で演奏した、3月3日という日付から教会暦では復活祭・イースターの期間にあたるので、グレゴリオ聖歌の中で最も美しい旋律と言われている「我らの過ぎ越し・Victimae Paschali laudes・復活祭の続唱」

が歌われた可能性が最も高いと考える説もあります。(太閤・豊臣秀吉の京都聚楽第で天正遣欧少年使節が御前演奏した曲について 高田重孝より)

結論は記録が無いので、持ち越される訳ですがロマンは深まりました。

グレゴリオ聖歌の「われらの過ぎ越し」