音楽の喜び フルートとともに

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イギリス国歌幻想

2023-11-20 21:02:00 | 古典
日曜午後はギターの岡山友樹さんが合わせに来てくれました。
11月23日(祝日)
西宮ギター練習会第21回コンサート
夙川公民館ホール11:00開演
の練習でした。
この前神戸原田の森美術館でご一緒したコントラバスの安福さんから頼まれたアザラシビリのノクターン
ヴァイオリンとチェロとピアノの曲をフルートとコントラバスとギターに編曲。
10月は本庄さんがギターを弾いてくれましたが、今度は渡瀬さんが弾いてくれます。これ、すごくいい曲です。

それから、
木曜に田郷さんと合わせたピアソラの「タンゴの歴史」から「カフェ1930年」
70年前のギターで432ヘルツで合わせましたが、今度はモダンギターで弾いてくれます。

それから今日来てくれた岡山さんとカルリの「英国国歌による幻想曲」

いつもニコニコ穏やかな岡山さん。

フェルディナンド カルリ(1770-1841年)イタリアナポリ生まれ、フランス パリ没


「英国国歌の主題による幻想曲」という名前の曲を演奏しますが、現在、イギリスに法律で定められた国歌は無いそうです。

1745年ジョージ2世が制定した「神よ女王(国王)を守り給え」God Save The Queen(King)が一般的に国歌とされています。

国王ジョージ2世


在位下、1744年にイングランド上陸に失敗した小僭王チャールズ・エドワード・ステュアート

は、1745年に側近のみを引き連れてスコットランドに上陸しました。

ハイランド地方の氏族は小僭王の下に結集し、政府軍をプレストンパンズ(Prestonpans)において破り、以後ジャコバイトはイングランドへ向けて侵攻を開始しました。ジャコバイト(名誉革命の反革命勢力でチャールズの王位継承権を主張しました。)がイングランド中部ダービーまで南下してロンドンを脅かす中で、トマス・アーン


は君主と国家の安寧を祈って「神よ、国王陛下を護り給え」を編曲しました。

1745年9月28日、ドルリー・レーン王立劇場(Theatre Royal, Drury Lane)においてベン・ジョンソンの喜劇『錬金術師』(The Alchemist)終演後に公式に演奏され、以後ロンドン各地の劇場で演奏されるようになって爆発的に広まりました。

しかし、これは証拠のある話ではなく、起源ははっきりしていません。
チャールズの野望は潰え弟が継ぎました。

カルリの他にも多くの作曲家が、この国家をもとに変奏曲を書いています。ヨハン クリスチャン バッハ、ベートーヴェン、リスト、パガニーニ、ドビュッシー、エルガー、ブリテン、アイヴスなど。

おお神よ我らが慈悲深き国王/女王を守りたまへ
我らが気高き国王/女王よとこしへにあれ、
神よ国王/女王を守りたまへ:
君に勝利を
幸福を栄光をたまはせ
御世の長からむことを:
神よ国王/女王を守りたまへ

おお主よ、神よ、立ち上がられよ
汝と君の敵を消散せしめたまへ
打ち砕きたまへ
彼らが策を惑はしたまへ
彼らが騙し手を挫きたまへ
我らが望みは汝の上に!

汝が選り抜ける進物の
君に喜びと注がれむことを;
御世の長からむことを:
我らが法を守りたまひ
絶えず理想を与へたまへ
声無きも声高きも謳ひぬ
神よ国王/女王を守りたまへ

神の御慈悲は
この御土のみでなく
そのくまなきに知らるる!
主はこの御国に、この広き世界の
全て人間は一つ兄弟たり、
一つ家族たることを知らしめす

闇に潜みし敵より
暗殺者の魔の手より
神よ国王/女王を守りたまへ
君が上に汝が腕を広げ
ブリテンが為に防がむ
我らが父/母にして君にして友
神よ国王/女王を守りたまへ

主はウェイド元帥をして
その強き祐けにより
勝利をもたらしめむ
乱を制しめむ
轟々たる濁流の如くして
反逆せしスコットランド人を破らしめむ
神よ国王/女王を守りたまへ

この国歌についてイギリス国内では、宗教的にはキリスト教国として神を信じる内容であること、政治的には君主制を正当化する内容であること、戦争の賛美をイメージさせることなどを指摘され、国歌の変更を求める声があります。2008年8月27日、イギリスの主要紙ガーディアンは「時代遅れの God Save The Queen を遂に破棄する時である」としました。






クワイ河マーチの作曲家

2023-11-19 23:09:00 | 現代
土曜日は午前中松井山手でレッスン。その後JRに乗って、阪急宝塚線に乗って池田まで、池田公民館のホールで池田ギター練習会コンサートでした。
ギターの鈴木淳一さんと、吉松隆の「朝の歌」「L嬢の肖像」「リムセ」「ベルベットワルツ」

本庄定雄さんとメンデルスゾーンの「ヴェニスのゴンドラの唄」
モンティの「チャルダッシュ」
桶矢成智さんとマルコム・アーノルドの「フルートとギターのためのファンタジー」

を演奏しました。
ぶっ飛んだ現代音楽好きな鈴木さんのソフトな吉松隆、ルネサンス期の唱心のあるメロディが好きな本庄さんが選んだロマンティック、バッハ一筋の桶矢さんの選んだ現代作曲家。

それぞれ違ってておもしろい!


マルコム・アーノルド(1921-2006年)
イングランド ノーザンプトン生まれ、イングランド ノーフォーク没

トランペット奏者として活躍。1941年ロンドンフィルハーモニー管弦楽団に入団、首席トランペット奏者になります。

その後作曲家としてデビューします。

もっとも知られた作品は映画のための作品で映画「戦場にかける橋」のケネス アルフォード作曲の行進曲「ボギー大佐」を編曲し、「クワイ河マーチ」として取り上げ、アカデミー賞を受賞しています。

9つの交響曲、管弦楽曲、吹奏楽曲、ブラスバンド、協奏曲などを書いています。

大大序曲は、電気掃除機、ライフルが使われています。掃除機は品番ピッチが指定されています。









猫好き?実は犬好き?

2023-11-18 21:00:00 | 近代
金曜の朝は塚口t-raumでハーブのレッスンでした。
1月にアンサンブル発表会があるので
ゴセックのガヴォットをヴァイオリンの人としようかと企んでいたら、当のヴァイオリン嬢のスケジュールが合わず…お相手募集中。

ガヴォットは練習しています。 

フルートはパラディスのシシリエンヌ、ベルガマスク組曲などもういつでも発進できますが、ハーブは決めたらこの曲しかてきません。

笑ってお相手してくださる方募集です。

久しぶりに猫さんがいました。

帰りに三番街のまるも食道で鰤茶漬け定食。
温泉卵つけてもらいました。

ガブリエル フォーレ(1845-1924年)フランス王国パミエ生まれ、フランス共和国パリ没

妻のマリーを通じて親しくなったエンマ バルダックの娘エレーヌ(1892年に生まれました)の誕生祝いに贈った曲を中心に集めた曲集「ドリー」op56

1897年にエレーヌに献呈されました。

エンマ バルダック(1862-1934年)はユダヤ系のフランス人で歌手でした。
17歳でシジスモン バルダックと結婚し、ラウルとエレーヌを出産。

1890年頃フォーレと不倫関係にあったと疑惑が持たれています。

エレーヌはフォーレの実子ではないかと言われています。
2人の関係が終わった後、

1903年、ラウルのピアノ教師としてドビュッシーがつき、
これがきっかけでエンマとドビュッシーは恋愛関係になり、1904年ジャージーで秘密の休暇を2人で過ごします。

ドビュッシーは、妻ロザリー(リリー) テクシエに離婚の手紙を書き、彼女は動転して、リボルバーで自殺を図ります。
このスキャンダルで2人はイギリスに亡命します。

1905年5月、エマとシジスモント、8月にロザリーとドビュッシーの離婚が成立します。

「ドリー」
子守唄 
1864年スザンヌ ガルニエの娘の1歳の誕生日に書かれた曲に手を入れ、エレーヌの1歳の誕生日に送られました。

ミアオウ
エレーヌの兄ラウルを幼いため「ムッシュ ラウル」と呼ぶところ「ミアオウ」と言ったのでこの名をつけましたが、猫の鳴き声が出版社によってつけられました。

ドリーの庭
ヴァイオリン ソナタ1番からの引用が含まれています。1895年新年のプレゼントとして書かれました。

キティ ヴァルス
フォーレの初めの原稿では「ケティ ヴァルス」
ケティはフォーレ家の犬で猫とは関係ありません。

テンドレッセ 
1896年、楽譜出版社の妻、アデラ マディソンに捧げられました。

スペインの小道
フォーレの友人、シャブリエのスペイン舞曲のようなスペインの風景画で終わります。

フォーレはこの曲のおかげで、猫好きのように思われてきましたが結局のところ、猫好きの出版社の捏造?!
犬好きは確定みたいですが…。
ドリーop56-4 「キティ ヴァルス」




古いギターと木管フルートでバッハ

2023-11-17 21:00:00 | バロック
木曜午後はギターの田郷祐樹さんが合わせに来てくれました。
ピアソラの「タンゴの歴史」から「カフェ1930」をやります。
テンポが揺れるので細かく合わせます。

チーズケーキをいただいて3時間ほど夢中で合わせました。

このギターは田郷さんの先生から借り受けている70年前のギターです。

今日を最後にお返しするそうです。

響板の一部にヒビがはいっていて

剥げていたり、めくれていたりしていますが、良く響きいい音がします。

そう高くない楽器だそうですが、「値段じゃないんですよね。」と田郷さん。
「あたりが良い楽器というのが、あるんですよね。」
確かに!フルートも同じ。

昨年榎田先生にお借りしていた1800年代製造の古いドイツのフルートとこのギターでバッハのフルートソナタBWV1035を合わせてもらいました。

古い木管フルートも調整が悪く、E♭など、ギュッと押さえないと全部タンポが降りず、大変でしたがなんとか演奏しました。

1741年
ヨハン ゼバスチァン バッハ(1685-1750年)神聖ローマ帝国アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ライプツィヒ没

はポツダムにいる次男カール フィリップ エマニュエル(1714-1788年)神聖ローマ帝国ザクセンヴァイマール公領ヴァイマール生まれ、神聖ローマ帝国自由ハンザ都市同盟ハンブルク没

カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ、フランツ・コンラート・レーア作(ヨハン・フィリップ・バッハにちなんで)

を訪ねます。

カールは1738年からプロイセン王国の皇太子フリードリヒに仕えていましたが、1740年フリードリヒは国王に即位し、それに伴ってカールも昇進し、国王の首席チェンバロ奏者になっていました。
アドルフ・フォン・メンツェルによる『サンスーシのフリードリヒ大王のフルートコンサート』(「サンスーシのフリードリヒ大王のフルートコンサート」)、1852年には、CPEバッハが鍵盤で伴奏しながらフルートを演奏するフリードリヒ大王聴衆(メンツェルが考案したもので、実際の出来事に基づいたものではありません)には、バッハの同僚や貴族も含まれます

フルート フリードリヒ大王 チェンバロ カール フィリップ
カールは父親を大王に推薦したかったようですが、あいにく大王はシレージエン戦争(第一次ポーランド南西部のシレージエン地方を巡るプロイセン王国とハプスブルク帝国(マリア・テレジア)との戦争)で不在。

書き上げたフルートソナタBWV1035は、
大王の従者兼秘書官でアマチュアフルート奏者をしていたマイケル ガブリエル フレダースデルフ(1708-1758年)

に献呈されました。
彼は大王の隣の従者部屋で寝ていて、いつでも大王に呼ばれていましたが、その部屋は「恋人の部屋」とも呼ばれていて早すぎる昇進や、財産の委譲などから大王との関係が取り沙汰されていますが証拠はありません。

この曲はフルートと通奏低音のために作曲されました。
当時はカールのチェンバロで演奏されたことが想像されますが、リュートやガンバなどでも演奏されていたと思います。現代ではピアノやギターでも演奏されています。

バッハのフルートソナタBWV1035
スマホ録音で、降りないタンポに苦労していますが、よかったら聞いてくださいね。







コレラの街で生まれた合唱団

2023-11-16 21:01:00 | 演奏家
家の近所の銀木犀が咲いていました。

金木犀はもうとっくに終わってしまったのですが、長年前を通っていたのに、気づかなかった。

それというのも香りがほとんどないです。
近寄って嗅いでみましたが、薄っすらと香り、あの特有の甘い香りではなく、木の香りに近いてす。 

「香る 香る 白いライラックの花よ」は
ディビット ウィカンデル(1884-1955年)スウェーデンの音楽学者が発掘したスウェーデン民謡です。

歌っているのは「オルフェイ ドゥレンガル」合唱団
1853年スウェーデンのウプサラを
コレラの感染が襲いました。

感染を防ぐために街は封鎖され、孤立しました。

感染は防ぎましたが、ウプサラ大学の
学生たちは退屈で死にそうになってい
ました。

その時、テノール歌手ジョナス ウィ
デンが地元の宴会ホールに12人の生徒
と、指揮者のオスカル アルビを呼び
集め、一緒に歌って過ごしました。

その時演奏された曲の1つはカール マ
イケル ベルマンによるフレッドマン
の手紙第 14 番「Hör, I Orphei Drängar」
(「聞け、オルフェウスの息子たちよ」)
で、夜明けには、彼らはオルフェイ
ドゥレンガルという男性合唱団を結成
することを決めていました。
初代メンバー
現在に至る高い評価を受け、世界的に
活躍する合唱団の始まりでした、

香る 香る 夜に広がる香り
白いライラックの花よ





こどもの力

2023-11-15 21:00:00 | ロマン派
火曜の10:00〜子育てサロン ぽっぽくらぶでした。
急に気温が下がって寒い中、保健師さんも来てくださって「感染症について」お話しもして下さいました。

慣れない所に来て泣いていた子どもも歌ったり、おもちゃで遊んだり、手遊びをしているうちに笑顔になり、遊んでいる間に保健師さんが、インフルエンザ、コロナ、ノロウイルスなどから体を守る大切な話しをして下さいました。

それから、製作。

どんぐりや、モール、キラキラ光るおもちゃを、お母さんに助けてもらって、小さな手で1つずつペットボトルに入れてかわいいどんぐりマラカスを作りました。

シールを貼るのもハマったらしく、たくさんひっつけてくれました。

子どもたちの側にいると、元気をもらえます。

ヨハネス ブラームス(1833-1897年)
自由ハンザ都市ハンブルク生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没
1856年ブラームス
は、
ロベルト シューマン(1810-1856年)プロイセン王国ツヴィッカウ生まれ!プロイセン王国エンデニヒ没

が亡くなった後、
残されたクララ シューマン(1819ー1896年)ザクセン王国ライプツィヒ生まれ、ドイツ国プロイセン王国フランクフルト ア厶 マイン没

と子どもたちのお世話をしていました。

シューマンとクララの子供たち(向かって左からルートヴィヒ、マーリエ、フェリックス、エリーゼ、フェルディナント、オイゲーニエ。1854年)

ドイツの民謡を集めた「15の子どものための民謡集」(アントン ツォン ツッカルマグリオ編)をピアノ伴奏付きに編曲しては、子どもたちに贈っていました。

クララとの関係ばかりが取り沙汰されますが、子どもたちにブラームスも癒やされたり、元気をもらったり、作曲のインスピレーションを得たりしていたのではないでしょうか?

第4曲は「子守唄」.WoO.31-4
原題はSandmännchen 「砂の精」
ドイツの民話に出てくる妖精で、子どもたちの目に眠りの砂をまいて、眠りに落とすと言われています。

花々は眠っている、
既に月の光の下で。
花々は頭を垂れている、
細い茎の上で。
花咲く木も静かにざわめいて
夢の中のようにささやく。
眠れ、眠れ、眠れよ、我が子よ。


ケンブリッジシンガーズのための曲

2023-11-14 21:00:00 | 現代
雨の出町柳大橋。
今出川大宮の富久田先生のレッスンに行ってきました。

11℃〜14℃寒くなってきました。

今年初めてマフラーを着けました。
曲はブリジアルディーの「ワーグナーのオペラ“ローエングリン”の主題による変奏曲」

姿勢と音程、スタッカートが先生からの課題です。
もっと精度を上げたいです。


帰りは晴れたり曇ったり。

柊ヒイラギの蕾がほころんでいました。


ジョン ミルフォード ラター(1945ー)イギリス ロンドン生まれ

ハイゲート校在校中にブリテンの「戦争レクイエム」に聖歌隊として参加。
ケンブリッジ大学で音楽を学び、クリスマスキャロルを編曲したり作曲し始めます。

卒業後、カレッジの音楽主任をし、合唱指導をしました。

1979年音楽に専念し、大学を辞し、ケンブリッジ シンガーズを結成します。
1980年プリンストン大学のウェストミンスター合唱大学フェローに就任。

1985-1992年慢性疲労症候群になり、締切を守ることができなくなり、作曲の注文を受けなくなります。

「吹けよ、吹け、冬の風よ」
これだけで演奏されることもありますが、もともとはラターの合唱曲集《つららが下がる時》の一曲として書かれたものです。

それは、シェイクスピアの『お気に召すまま』第2幕の合唱(ソプラノ、アルト、テノール、バス)からのばっすいです。

チェンバロとソプラノ歌手の氷のような音色で始まるこの曲は、徐々に低声部によって溶け出し、ラター特有の伸びやかなリリシズムで歌詞が描かれています。

ハイ・ホー!ハイ・ホー! 緑のヒイラギにハイ・ホー!と歌え
ほとんどの友情は見せかけで、ほとんどの愛情はただの愚行だ。
そして、ヒイラギにハイ・ホー!この人生は最も陽気なものである







最古のレクイエム

2023-11-13 21:00:00 | ルネッサンス
土曜日、伊藤先生のレッスンの後、梅田ドルチェ楽器さんで見せていただきました。

1800年代のゴッドフロイのフルートと、製作会社不明の木管円錐管。

ゴッドフロイはルイ・ロットの義父です。
キーの位置が現代のフルートより狭いです。

管体が軽く、大きな音はしませんが滑らかな吹き心地。

正体不明の円錐管は未調整、ヒビが入っていたのを修理したあとがあるそう、低音のキーがふせぎきらないので音が出にくいですが、まろやかな音色がしました。

円錐管木管のフルートを復刻させようという試みがされていますが、金属のキーはいくらでもできるそうですが、木を加工する技術が失われていて
何年も乾燥させた木の真ん中にまっすぐの穴を開ける時に、木の木目の回転と回転しながら開けるグラインダーとが合わなくてヒビが入って割れてしまうそうです。

古くても無傷の管体さえあれば、円錐管はつくれるそうですが、残っている数が少なくなかなかつくれないそうです。

ヨハネス オケゲム(1410-1497年)
エノー伯領サン ギラン生まれ、フランス王国トゥール没

オケゲムの最初の記録はアントウェルペンのノートルダム寺院に残されています。

1443年〜1444年ノートルダム寺院に務めていました。
1446-1448年 フランスのブルボン公シャルル一世

にムーランで仕えました。
1452年頃パリに移り、フランス宮廷楽長、トゥールのサン・マルタン寺院
の出納方に就任。

シャルル7世


ルイ11世

に士官し、ノートルダム寺院

聖ブノワ寺院にも務めていました。

1470年ギュイエンヌ公シャルル(ルイ11世の弟)


からカスティーリャ王女イサベル

への求婚の意を託されてイベリア半島を訪れました。

ルイ11世が1483年に没してからはオケゲムの所在は不明になります。
ブルッヘ、トゥールを訪ねていて、トゥールで遺言を残していることからすると、おそらくその地で亡くなっただろうと考えられています。生前から「我らの良き父」と人々の尊敬と信頼をえていたオケゲムの死は多くの人々を悲観させました。

オケゲムの「死者のためのミサ曲」は現存する最古のポリフォニックなレクイエムです。いくつかの偽作も混じっています。36声部の「デオ グラディアス」(主に感謝せよ)は他人による作品の見込みが極めて高いですが、真相は分かりません。

オケゲム レクイエム「イントゥリアス」(入祭唱)


師弟関係

2023-11-12 21:00:00 | 古典
土曜の朝、実家でレッスンでした。
玄関に南天とすすき。
母に聞いたら「裏の庭に生えてた。」
「こっちの南天の実がすごいの。」

床の間に活けた南天。
裏の庭にほっておいたらなっていたそうです。

午後からは梅田で伊藤先生のマスタークラスでした。
スケールとアルペジオ。
下りの上線3のEは右小指をあげるとスラーで音が出ます。
それを標準にするように。
先生の1音の出し方が丁寧で集中していて、全く他の人と違います。

この音を聴くと私の中の背骨がスッキリと整う気がします。
ああ、これこれ!この音!
という感じ。

それから、その音の動き方。
とてつもなく滑らかで正確。
音楽の前にどこまでも真摯で謙虚。

まだまだ及びませんが、希望の星がそこに輝いているので私も諦めないで頑張れます。

ルートヴィヒ ヴァン ベートーヴェン(1770ー1827年)


はアマデウス モーツァルト(1756-1791年)

の弟子になろうと1787年ウィーンに出てきます。

しかし、モーツァルトは忙しく、そのうち母が危篤という知らせを受けてボンに帰ります。

その間にモーツァルトが亡くなります。

1792年7月にヨーゼフ ハイドン(1732ー1809年)ローラウ生まれ


(60歳)がボンに滞在します。21歳のベートーヴェンは彼に会いに行き、自分の作曲した曲を見せます。

ハイドンは「僕のところで勉強しないか」と提案し、ベートーヴェンは彼に弟子入することになります。

11月、パトロンのワルトシュタイン伯爵の「君は夢を叶えるためにウィーンへ行くのだ。モーツァルトの精神をハイドンの手から受け取ってくるのだ。いってらっしゃい!」

ワルトシュタイン伯爵の手紙

という激励の手紙をもらってもう一度ウィーンに行きます。

ところがハイドンの方はロンドンへ演奏旅行に行って大変忙しい時期だったため、ベートーベンのための時間をさくことができませんでした。 

ハイドンから出された課題も「どうせ僕の課題を見てくれる時間なんてないだろう。」と半分も手をつけませんでした。

しかし、ハイドンはそれでも何とかベートーヴェンの力になりたいと、自らベートーベンに生活費を支援し、ボン宮廷にもベートーベン奨学金を出すように頼んでいました。

それでも結局ヨハン ゲオルグ アブレヒツベルガー(1736ー1809年)

に学ぶことを勧めます。

当時まだ22歳だったベートーベンは早々に離れ、別の先生のもとで勉強を続けることにしました。
そして、アルブレヒツベルガーから対位法の基礎を学びました。 
彼の最後のレッスンのメモに
「我慢すること、熱心であることを頑張ること。正直であること。これらが成功へ導いてくれる。」とベートーヴェンは書いていたそうです。

1795年リヒノフスキー邸で行われたベートーベンのピアノ三重奏曲作品1の初演にハイドンは出席しました。

終演後、ベートーヴェンが意見を求めると、「これは出版しないほうがいい。」と辛口の批評。
しかし、ベートーベンは次作のピアノソナタ作品2をハイドンに捧げました。

1808年のウィーン大学の大ホールの76歳のハイドンの誕生日のコンサートでは、上流階級の人々が集まり、彼の「天地創造」が演奏されました。

ハイドンの祝賀会

サリエリが指揮しハイドンと抱擁しました。

そこにベートーベンが出てきて、ひざまずきハイドンの手にキスをしました。
ベートーベンの目は潤んでいたそうです。

ハイドン亡き後のこと
「私の部屋にはヘンデル バッハ グルック、モーツァルト、そしてハイドンの肖像画がある。彼らは私が求める忍耐力を得る大きな手助けになる。」1814年

とベートーヴェンのメモには書かれていました。

1827年病床のベートーベン56歳を見舞ったディアベッリはプレゼントをします。それはハイドンの生家が描かれたリトグラフ(版画)でした。

ディアベッリの帰宅後、友人たちにそのプレゼントを見せて「見て、今日こんなものをもらったんだ。この小さい家、こんなところから偉大な男が生まれたんだよ!」とベートーヴェンは言っていたそうです。
数週間後、ベートーヴェンは亡くなりました。

その後、ベートーヴェン22歳の頃にハイドンがボンの選定候に書き送った手紙が発見されました。
そこには
「ベートーヴェンはヨーロッパ最大の音楽家になる」と、書かれていたそうです。(note 大井駿)








竜のオペラ

2023-11-11 21:00:00 | バロック
ドラゴンフルーツ。
メキシコ原産サンカクサボテンの果実だそうです。
すごい色!
枝が上に伸びる様子が竜に似ているから、果皮が竜の鱗に似ているから、あるいは中国からヴェトナムに入ったときに中国名火竜果から来た名前だとか。

ジョン フレデリック ランプ(1703?-1751年)神聖ローマ帝国ドイツザクセン?生まれ、イングランド エディンバラ没

生まれてからイギリスに渡るまでのことは、よくわかっていません。

ヘルムシュタットで音楽を学び、1775年イギリスに渡り、ファゴット奏者として活動していました。

1730年コヴェント・ガーデンの支配人ジョン・リッチと契約、 パントマイム劇などの作曲家として活動しだします。
1732年トマス・アーンによりイギリスオペラ(英語のオペラ)が創始されます。
脚本家のヘンリー・ケアリーとともにランプもこれに加わります。

初の英語オペラはランプの「アミーリア」から始まりました。ヘンデルのライバルにはなりましたが、英語オペラはまだ定着しませんでした。

1737年オペラ「ウォントリーの竜」がコヴェント・ガーデンで上演され69回も再演され、人気になります。
1738年ソプラノ歌手のイザベラ・ヤングと結婚します。彼女はアーン夫人でやはりソプラノ歌手のセシリアの妹でした。

「ウォントリーの竜」はバーレスクドラマ(アクションがあり、カーテンで場面が区切られる劇)


村人をドラゴンが襲っています。
逃げ惑う人々。
「家や教会もみんなドラゴンにとってはガチョウや七面鳥だ。」と頭を抱えています。

マージェリーは「勇敢な騎士を知っています。」と言い、村人たちと彼の家へ行こうと歌います。

ドラゴンスレイヤー(竜退治)のムーア・ホールは、友人と飲んています。そこへ村人たちとマージェリーがやってきて「ドラゴンから助けてほしい。」と頼みます。

ムーアとマージェリーは恋に落ち、「一晩一緒に過ごしたら竜退治に出かけよう!」と約束します。

ムーアが酒のグラスを振ります
しかし、そこにモークサリンダがやってきて「去年のクリスマスに私と婚約したではないの!」と迫られます。

モークサリンダをムーアは宥めます
マージェリーは竜退治の騎士を逃したと嘆きます。

ムーアは「鎧をつけていきましょう。」となだめていると、またしてもモークサリンダがやってきて「誘惑するなら殺してやる。」とマージェリーを脅かすと彼女も負けずに「侮辱的なジプシー、あなたはきっと酔っぱらい!」と言い返します。
やがて2人はお互いに「ふしだら女(トロロップ)」と言い合います。
逆上したモークサリンダはヘアピンをマージェリーに刺そうとします。
マージェリーが気を失うとムーアがやってきて、モークサリンダを「裁判官に引き渡す」と言います。

モークサリンダは「慈悲を与えて下さい。マージェリーとも和解します。」と謝ります。

マージェリーと歌うムーア
そこへドラゴンの咆哮が聞こえてきて、ムーアは「ドラゴンを殺すのに武器はいらない。6クォートのエールと1本のアクアエバイタで充分!」といっぱい引っ掛けると、マージェリーにキスをして出かけていきます。

竜と闘うムーア
ドラゴンの洞窟の前の井戸の中に隠れ、ドラゴンを呼びます。
ドラゴンが出てくるとムーアは井戸から這い上がり、お尻を蹴り飛ばしドラゴンを殺してしまいました。

村人たちは彼を讃え、マージェリーは「私の甘い蜂蜜、私の喜び!」と歌い、2人は結婚を誓います。